第345話 金色の瞳

「それはですね、」

一郎君はそこで口ごもった。きっと彼の心の中ではとぼけて誤魔化そうとする思いと、謝ろうとする思いが激しく戦っているに違いない。

「霧島さんに会いたくて家を訪ねて来たけど、玄関のベルを押しずらくて庭をうろうろしているうちについ、出来心で見てしまったのです。すいませんでした」

一郎君は意外にも潔く謝った。

彼の心のなかで良心が勝利したのか、シチュエーションから判断して謝った方がダメージが少ないとクールに割り切ったのか定かではない。

「二度とそんな真似はしないで」

深く頭を下げている一郎君に未来さんは短く言葉をかけ、一郎君は素早く顔を上げた。

「許してくれるのですか。僕はてっきり学校の先生に言いつけられるかと」

「事実関係を人に知られたくないだけ」

未来さんは一郎君の言葉を遮るように短く囁くが、一郎君は彼女の言葉を拡大解釈したようで、握手を求めるように手を差し伸べて彼女に近寄った。

その瞬間、未来さんの手が閃光のように素早く動く。

ピシッという軽い音と共に一郎君は頬を平手打ちされたが、未来さんの平手打ちはスイングスピードが尋常ではなかった。

一郎君の顔はへビー級ボクサーの渾身のフックを受けたように横に振られ、首を支える筋肉や腱の限界で反対の方向に戻ることを繰り返し、二往復ほど首を振られることになった。

その過程で一郎君の脳から延髄にかけての神経系は軽くシェイクされた状態になり、体の制御を失った彼はストンと膝を落とした。

そして、彼は両手を霧島家の玄関口のフローリングについて土下座をするような体勢となった。

それは一瞬の出来事だったが、僕にはスローモーションで見ているように感じられる。

僕の目がゆっくりと未来さんの顔をとらえると、彼女の目は金色に輝いていた。身のこなしと金色に輝く目は彼女が人間以外の何物かであることを告げている。

「君は物の怪の類なのか?」

僕が囁いた声は、低く間延びしてゆっくりと響き、彼女も同じように囁き声で答える。

「そうだと言ったら?」

彼女の声も僕と同様に間延びして響くが、僕は自分の緊張が高まるのを感じる。

未来さんは僕の質問に質問で返し、僕の真意を探ろうとしていた。

僕の答え次第では僕と一郎君を生きたままこの家から帰さないつもりかもしれない。

「僕は君たちの味方だ。困っているなら力になるから連絡してくれ」

僕はカフェ青葉のスタッフとしての肩書を記載してある自分の名刺を差し出した。

今時名刺でもないのだが、心霊相談の顧客に連絡先を教えるのに便利だから、自宅のプリンターでごく少数印刷している代物だ。

未来さんは名刺を受け取るとしげしげと眺め、その間に彼女の目は通常の状態に戻っていった。

「カフェ?」

彼女は相変わらず口数が少なく、得られる情報はあまりない。僕は言葉をつづけた。

「それは僕の妻が経営しているカフェの連絡先だけど、妻は副業で心霊相談やお祓いをしている。一度来てくれたら詳しい話ができるのだけど」

未来さんはもう一度、僕の名刺に目を落とすと短く答えた。

「わかった」

彼女が答えた時、一郎君が身じろぎして声を出した。

「いててて」

そして、未来さんを中心に発生していた空気の粘度を強く感じるようなゆっくりとした時間の流れは終息し、物音も普通に聞こえ始めた。

「調子に乗らないで。私は騒ぎになって目立ちたくないだけ」

未来さんがぼそぼそとつぶやくと、一郎君は立ち上がろうとしたが、よろけて再びへたり込み、フローリングに両手をついた姿勢のまま彼女に言った。

「すいません。もうしません」

未来さんは一郎君の様子を見下ろしていたが、やがて口を開いた。

「ここで待っていて。道徳のプリントを持ってくるから」

ゆっくりとした口調で一郎君に告げた彼女は、廊下の奥に姿を消した。

一郎君はどうにか立ち上がったが、よろけたので僕が体を支える。

「一体何が起きたのですか」

一郎君の言葉を聞いて、僕は脱力感と共にこれからどうなるのか漠然とした不安を感じたが、とりあえず彼に教える。

「急に近寄ったから霧島さんにしばかれたんだよ。彼女は人に知られたくないだけで君のことは快く思っていないはずだ。思い込みで慣れ慣れしくしてはいけない」

「はい、わかりました」

一郎君が殊勝に答えたので僕は少し安心した。

未来さんはしばらくしてから玄関に戻ってくると、A4サイズの紙を一郎君に手渡すと言った。

「コピーを取ったから返さなくていい」

彼女は、一郎君がもう一度訪ねてこなくていいようにコピーしたのかもしれないが、一郎君は素直に答える。

「ありがとうございます。学校が始まったら仲良くしてください」

未来さんは無言でうなずいた。

とりあえず、訪問した用事は片付いたので僕たちは未来さんに改めてお礼を言って霧島家を後にした。

「ありがとうございました。彼女に謝ってよかったと思います。それに、彼女が妖怪キツネ女だなんて、僕の見間違いだったのですね」

僕は一郎君の顔を見つめたが、彼は本心からそう思っている様子だ。

僕が見たところ未来さんは間違いなく妖の類だが、一郎君が彼女について妖かもしれないという疑念を捨ててくれたら、当面の問題は回避できたと言って良い。

「それでは、僕たちに相談に来た妖疑惑は目の錯覚だったということで納得したのかな」

「そうですね。目の錯覚とは思えなかったけど、さっき彼女と会ったら尻尾が生えているようにも見えないので、勘違いだったと思う事にします」

一郎君は未来さんにもらった道徳のプリントを眺めながら僕に告げた。

僕たちは、霧島さんの家から溝の口駅に向かって戻ることにし、最短距離と思われる細い道路は不規則な三差路や急な坂を交えながら丘のの下へと続いている。

「ずいぶん長く休みが続いているから、勉強とか大変だよね」

僕自身の大学院の講義は、WEB会議システムを使ったリアルタイムのオンライン授業や、講師の先生の講義の録画を配信するオンデマンドタイプのオンライン講義によって進められているが、修士論文の執筆については不安な面も多い。

「ああ、僕たちの学校は週明けには授業再開が決まったんです。久しぶりに学校に行けます」

一郎君は屈託のない雰囲気で僕に告げる。彼は意中の彼女にひっぱたかれたのだが、何故かそのことをネガティブにとらえていない様子だ。

「そうか、それは良かったね」

学校で顔を合わせることで、一郎君が未来さんに、どんな態度をとっていくのか不安はあったが、彼女が妖かもしれないという考えは捨てた様子なのでさほど心配はないはずだと僕は自身に言い聞かせる。

坂道を降りて大きな道路に出ると、JRの駅ホームに近いことが分かったので、その場で一郎君に一言挨拶して帰ることにした。

「僕はJRに乗るのでここまで送ってくれたら十分だよ。学校が始まったら同級生の女子のことばかり考えないでちゃんと勉強するんだよ」

僕はあえて妖の話はせず、恋愛相談を受けた相談員のような雰囲気で一郎君に告げると、彼は悪びれた様子もなく答える。

「わかりました。彼女と話をするきっかけが出来たけど、しばらくはおとなしくしています」

一郎君の未来さんに対する想いそのものは冷めていないということらしいので、一抹の危惧は残るが、一郎君の心の中では妖疑惑は払拭されたわけなので良しとしたものだろう。

ぼくは考えながら一郎君に手をあげて別れを告げると、JR線のホームに入る。

下北沢までは、途中で小田急線に乗り換えて30分ほどの道のりだったが、僕は霧島未来という少女の姿を取った妖の存在と「彼女」への対処方法を考えていたので、その時間はあっという間に感じられた。

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