第318話 緊急事態に耐える人々


カフェ青葉のラストオーダーの時間が過ぎ、最後のお客さんが店を出ると店は閉店となる。

居合わせたスタッフで掃除や後片付けを済ませると、田島シェフは僕と祥さんに挨拶して退社していった。

僕はお店のセキュリティーをセットしてからホッと一息ついた。

莉咲の退院から始まり、帰ってきてからたくさんの出来事があったので、状況に対応しきれていない自分を感じる。

「お疲れさまでした。いろいろあって大変でしたね」

住み込みで働いている祥さんに話しかけられて僕は考え事から現実の世界に引き戻された。

「お客さんが減ったとはいっても、全くいないわけではないのだね」

僕が尋ねると、祥さんは今日の来客を思い出すように宙を見ながら答える。

「そうですね、子連れの奥様グループが全く姿を現さなくなったのですが、モーニングサービスの時間帯に来てくれるサービス業関連の方や、お昼時に来る学生風のおひとり様のお客さんは変わらず足を運んでくれるので、開店休業みたいな状態ではありませんよ」

フロア業務を仕切っている彼女の分析は的確なようで、僕が時折覗いた状況とも一致している。

そして、現在出入りしている客層は比較的寡黙に食事をして去っていくタイプが多いので、スタッフの感染リスクも高くないはずだ。

「差し当たっては、経費を切り詰めて乗り切ろう」

「山葉さんの判断は的確ですね。人数減らしても食器洗浄係は欲しいなと思っていたんです。明日からのメニューも作ってくれたんですけど在庫品だけで今週いっぱい引っ張るつもりみたいですごいですよ」

祥さんは、閉店しないで経営を続けるという今後の方針が決まったことで安心した面もあるようだ。

「当面は小西君にお皿を洗ってもらうけれど、彼が来られないときは僕が対応するよ」

店舗の照明を落として、厨房の余分な照明も消すと、一階のフロアは寂しい雰囲気に代わる。

二階の住居部分へと階段を登ろうとしていると祥さんがつぶやいた。

「さっきの動画で見たアマビエ、本物だったらいいですね」

「アマビエが疫病を退けてくれる妖怪なので、本物であってほしいということ?」

祥さんは階段を上って自分の部屋へと廊下を歩いていたが、足を止めて僕を振り返った

「そうですよ。こんな息が詰まるような状況がいつまでも続くとしんどいですから。今だって莉咲ちゃんを見せてもらいたいけど感染リスクがあるからドアを開けるのも遠慮しているんです」

祥さんは一気に言った後で、照れくさそうに笑うと付け足した。

「おやすみなさい」

祥さんが自分の部屋に引き上げたので、僕は自分たちの部屋のドアを開けると、おもむろに入り口に置いてあるアルコールで両手を除菌した。

僕たちが住んでいる居住スペースは1DK的な間取りで、子供が小さい間は間に合う広さだ。

僕がリビングに入ると山葉さんはだれかとウェブ会議用のアプリで通話しているところだった。

「あら、パパが帰ってきたみたいね。こんばんは内村さん」

山葉さんのラップトップパソコンのカメラが僕の姿を拾ったらしく、通話相手は僕にも呼び掛けてくる。

パソコンのスピーカーから響く、良く通る声には聞き覚えがあり、坂田警部の奥さん奈々子さんだとわかった。

「こんばんは」

僕が山葉さんの後ろからラップトップの画面をのぞき込むと、菜々子さんが長女の綾香ちゃんを膝にのせてこちらを見ている画像が目に入る。

菜々子さんはおしゃぶりを咥えた綾香ちゃんの片手を持ち上げて人形のように振って見せる。

どうやらかねてからの約束通りママ友として活動するために、子供たちのご対面をしている状況のようだ。

「丁度良かった。莉咲ちゃんが疲れたらいけないので、ベッドに戻してあげてくれ」

山葉さんは横抱きにしていた莉佐ちゃんを差し出してくるので、僕は受け取ってベビーベッドに運ぶ。山葉さんの腕の中でうとうとしていた彼女はそっとベッドに卸すとすやすやと眠り始めた。

山葉さんと菜々子さんはひとしきり話してから通話を終了した。

「彼女がここに訪ねてくるというので、今はやめた方が良いと止めたところだ」

「そうですね。タクシーで直行するにしてもどこに感染のリスクがあるかわかりませんからね」

今や僕たちの住む世田谷区は最も感染者の密度が高いエリアとなっており、不要不急の外出は控えた方が安全と言えた。

「それにしても、小西さんの友達が目撃した「妖怪」はすごかったね」

山葉さんは思い出し笑いをしながら、僕に告げる。

「あれは本物だと思いますか」

僕が尋ねると、山葉さんは首を振りながら答えた。

「多分偽物だよ。アマビエとはスタンダードな妖怪ではなく、江戸時代に一度目撃例がある事例に過ぎない。そのルーツとして考えられるのは海面に浮かんできた魚を書き留めたのが、広まっていく過程で次第に変容したといったというところかな。アマビエに類似した伝承としては天彦などと呼ばれるものがあるが、そちらは三本足の猿のような姿で描かれている」

山葉さんは意外と妖怪アマビエの存在には否定的な様子だ。

「でも、わざわざあんな着ぐるみを作ったりするものでしょうか」

「今回の新型コロナウイルスが流行し始めてから、アマビエが語られることが多くなっているのは事実だ。今時のコスプレイヤーならばあっという間に衣装を作ってしまうだろうね。なんにしても世の人々がこの疫病の流行にうんざりして、妖怪にすらすがりたい心理の現れだと思うよ」

彼女は、アマビエには否定的だが明るい表情で話しており、顧客の大幅減という悪いニュースに立ち向かう雰囲気なので僕は一安心した。

その日から、僕と山葉さんの新生児の育児が本格的にスタートし、頻繁な授乳で寝不足になったりしながらも、日々は過ぎて言った。

しかし、都内の新型コロナウイルスの感染者は増える一方で、事態が解決する展望はないままだった。

大学院の講義も始まらないので僕はすっかりカフェのマスターと化して、祥さんや田島シェフと一緒にお客が少ない店を切り盛りし、山葉さんは時折厨房に現れて在庫品を確認しては田島シェフと翌日のメニューを相談していく。

そして今日は珍しく、山葉さんが店舗まで顔を出していた。

「最近モーニングセットにした、アジの干物バーガーと半熟卵の卵サンドの評判はどうかな」

山葉さんは余裕のある表情で祥さんに尋ねた。

「ええ、モーニングセットA,Bとしてその二つをメインにしたセットにしているのですけど、オーダーが来るのは半々くらいですね。普段のモーニングセットよりゴージャス感があるので、お客さんは喜んでいると思いますよ」

「ふむ、食材の発注を限界まで減らして、在庫食材を使っていく作戦なので、お客さんにとってはお得感があるし、うちの経営もこの一週間は黒字で推移している。冷蔵庫に残っているアラカルトメニューの食材をお得感のあるメニューとして使っていけばもうしばらくは大丈夫だ」

山葉さんはすっかり自信を得た雰囲気で僕たちに話す。

「でも、ハンバーガー用のバンズとかドッグ用のパンが少なすぎて心もとない時もあるんですけど」

祥さんが言いづらそうな雰囲気で山葉さんに告げると、山葉さんは微笑を浮かべて答えた。

「大丈夫だ。ロスが出ないように限界まで発注数を減らしているが、いざとなったらウッチーがパンを発注しているパン屋さんのアンジェリーナや生鮮食品を扱っているディスカウントスーパーまでバイクで買いに行ってくれる」

祥さんが、尊敬のまなざしで僕を見るので、僕はむしろ居心地が悪かった。

その時、朝からランチタイムまでの間の汚れた食器を食器洗浄機に入れ終わった小西さんがエプロンを外しながら僕たちの前に現れた。

「食洗器にセットが終わりました

小西さんは、アルバイト代は大した金額にならないのに、お昼を食べてスタッフと会話できるのがうれしいからとほぼ毎日出勤していた。

「お疲れ様、厨房でお昼にしてください」

僕が声をかけると、小西さん恐縮した様子で僕に言う。

「ウッチーさんすいません。面接に来た日に、僕の友人の友人がアマビエに遭遇したと話をしたのですが、あれは知り合いの話ではなくて、単にQチューブで見かけた投稿の話だったそうです」

「なんだ、それでは投稿者に話を聞くことは出来ないのだね」

僕としてはそれで落胆するたぐいの話でもないので淡々と応じると、小西さんは何か含みがありそうな笑顔で僕に話をつづけた。

「でも、二つ目の投稿から手掛かりが得られたので、アマビエが下車して姿を消した駅は特定できそうなのです」

すると、その場に居合わせた山葉さんがにわかに興味を持った様子で小西さんに尋ねる。

「ほう、あの画像には駅名につながるような手掛かりはなかったと思うがどうやって駅名にたどり着いたのかな」

小西さんは、彼女の反応に嬉しそうな表情を浮かべると言った。

「バックヤードの更衣室にぼくのタブレットを置いてありますから、それを使って説明します」

小西さんは僕たちの先に立ってバックヤードに続くドアを開けた。

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