第311話 分娩室前のソファー

沼さんが路線バスに乗るのを見送ってから、僕は山葉さんの病室に戻った。

お産は病気ではないのに病室と呼ぶのも 違和感があるが、病院という括りがあるので仕方がないのだろう。

病室では山葉さんと裕子さんが和やかな雰囲気で談笑していた。

「ウッチー遅かったね。ウッチーや沼ちゃんが幽霊を見ているのに、なぜ私は見ていないのか母と話していたところだ」

先程まで和やかに談笑していた話題が、幽霊ネタだと解り、僕は少しあきれた。

一般的には、幽霊の話は笑顔でするものではない。

「見えない原因に思い当たったのですか?」

僕が尋ねると山葉さんは首を傾けて見せた。

「最初は、ウッチーと私の霊を見るメカニズムの違いが関わっているのかと思ったが、今回は別の要因が影響を及ぼしているのかもしれない」

僕は彼女の言葉に興味を惹かれる。

「別の要因とは何ですか」

「それは、霊がこの世に残した未練の部分だ。普通、人は亡くなった後に自分の死を悟り、葬儀の間に身近なものに別れを告げて旅立って行くと言われているが、何か強い未練があると、霊としてこの世を彷徨うことになる」

僕は彼女が何を言おうとしているか理解できず、彼女の次の言葉を待った。

「今回のケースでは霊の未練の部分と、たまたま通りかかった人の考えている内容が近く、なおかつその人の霊感が強い場合に見えるのではないだろうか」

彼女の説は複雑だが趣旨は理解できた。

「それでは、霊を見た人達にその時に何を考えていたか、聞き取り調査をすれば傾向が解りそうですね」

山葉さんは僕の答えに満足した様子でうなずいた。

彼女の話が一段落したところで、僕は自分が遭遇した出来事を話すことにした。

「実は沼さんと病院の外に出たときに、菱沼先生を中傷するビラを撒いている犯人に出会ったのです」

山葉さんと裕子さんは驚いた表情を浮かべる。

「婿殿は何で犯人と分かったの」

「すれ違った男性が、今朝見たのと同じビラをクリアファイルに入れて小脇に抱えていることに気が付いたのです。後を付けたら、この病院の駐車場に入り込んでビラを貼ろうとするので、何をしているんだと声をかけました」

僕が説明すると、山葉さんは顔をしかめる。

「そんな奴に直接声をかけて刺されでもしたらどうするんだ。莉咲ちゃんのパパがいなくなったら困るから無茶をしないでくれ」

ギャグで言っているのかと思ったら、彼女は意外と本気で心配そうな表情を浮かべている。

「揉み合いになる前にスマホを取り出して警察を呼ぶと脅したら、連れていた女の子を抱えて逃げていきましたよ」

僕は多少自慢気に山葉さんと裕子さんに話す。

「徹さんも父親になって逞しくなったのね」

裕子さんは何故か婿殿と呼ぶのを止めて僕の名前で呼びながら感動している様子だが、僕は本題を切り出さなければならなかった。

「その時、一枚だけ貼られていたビラをはがそうとしたら、最初に張ったビラだけにその男性の思念が強く残っていたらしく、僕の心に彼の考えていたことが浮かんだのです」

山葉さんは身を乗り出した。

「そいつは何を考えてそんなことをしていたのだ?」

僕は聞かれるまでもなく説明を始めた。

「彼は本当にこの病院で奥さんが亡くなったようですね。気の毒なくらい悲しみに打ちひしがれていました。その悲しみが全て形を変えて菱沼先生への憎悪に転嫁しているみたいです」

裕子さんが息をのむのがわかった。

「そして、彼が亡くなった奥さんの在りし日の姿を思い出していたのですが、その奥さんが僕たちが廊下で見かける幽霊と同一人物のようなのです」

山葉さんは大きな目をさらに見開いていた。

「それでは、幽霊となっている女性は出産中に死んだということなのだな。そして、男性が連れていた女の子がその時に生まれた赤ちゃんなのだろうか」

僕はゆっくりとうなずいた。

「きっとそうだと思います。もしそうなら二歳くらいに見えたので女性が死んだのは二年ほど前ということですね」

「きっと、愛情が強かったから、奥さんの死を受け入れられなくて、菱沼先生を憎悪してしまうのだな」

山葉さんはため息をついた。

僕たちは話の接ぎ穂をなくしてしばし、たそがれていたが、山葉さんは腕組をして考え込んだ。

「しかし、それだけでは廊下の幽霊の説明がつかない部分がある。出産の最中に死んだのならば、幽霊は分娩室に出るのが普通だ。何故、いつも分娩室から離れた廊下で目撃されるのだろう」

彼女の言い分は理解できるものだった。

僕たちがこれまでに遭遇した幽霊の多くは死を迎えた場所に縛り付けられた地縛霊となっているケースが多かったからだ。

「それでは、何かその女性にゆかりのある品物があり、その品物を焦点として霊が出現しているとしたらどうだろう」

僕は、分娩室の前から廊下にかけてのスペースを思い描いた。

「大きめのアイテムとしては、分娩室の前に置いてあるソファくらいですね」

しかし、そのソファに染み付いている思念があるとすれば、そこに座って出産を待っていたお父さんのものに違いない。

それ以外に何かあるとすれば、廊下の観葉植物の鉢植えくらいだろうか。

僕の考えをよそに山葉さんは立ち上がると、廊下へと歩こうとする。

「山葉さん駄目ですよ。ほんの少しの間だから安静にしましょうよ」

僕は山葉さんをベッドに連れ戻そうとするが、彼女は僕の手を振り払いゆっくりと廊下を歩き始めた。

僕と裕子さんは慌てて、山葉さんの後を追った。

廊下に出た山葉さんは、当然のような顔をして分娩室まで歩き、問題のソファに腰を下ろした。

仕方なく僕と裕子さんも彼女をはさんで座り、僕たちは今日も使用中ランプがついている分娩室のドアを眺めた。

当然ながら、それだけで幽霊の出現のためお必要条件を満たすわけもなく、緊迫した雰囲気が伝わってくる分娩室と、のどかにソファに座る僕たちの間には大きな断絶があった。

「ふむ、このソファに霊がついているわけではなさそうだな」

山葉さんは次に分娩室のドアの脇に置かれた観葉植物の鉢植えを覗き込む。

観葉植物の鉢の中には当然ながら土が入れられており、その表面には、落ちた葉っぱが層になって積み重なっている。

「この中に何か遺留品がないかな」

山葉さんは植木鉢の中に積み重なった葉を一枚一枚つまんで、彼女が自分の部屋から持ってきた袋に入れていく。

山葉さんが全ての葉を袋に入れると、植木鉢の中には黒っぽい土が満たされているのがわかる。

しかし、葉の下にも土の中にも、霊となっている女性に関わる遺留品はないようだ。

その時、山葉さんがしゃがんだ姿勢から立ち上がりながら声を漏らした。

「いててて」

「大丈夫ですか山葉さん。どこが痛いのですか」

山葉さんは立ち上がると弱弱しく僕に微笑む。

「口に出して言わせないでくれ。その他にもあちこち痛いみたいだ」

「無理しすぎなんですよ。早く部屋に戻って休んでください」

僕が半ば本気で怒ると、山葉さんはしぶしぶと従い、自分の病室へゆっくりと歩き始めた。

「せっかくここまで来たから、莉咲ちゃんを見ていこう」

山葉さんは僕を懐柔するように魅力的な提案を口にする。

「そうですね。ガラス越しですけど覗いて行きましょう」

「たまには山葉もいいことを言うわね」

僕と裕子さんが山葉さんを左右から支えるように歩いていると、前から来た入院患者らしき女性が会釈して通り過ぎる。

僕は二歩ほど歩いてから足を止めた。

「山葉さん今すれ違ったのが問題の女性です」

僕と山葉さん、そして裕子さんは一斉に振り返ったが、廊下には人影はなかった。

「信じられない、普通の人に見えたから全く意識していなかった」

山葉さんはつぶやきながら、僕と裕子さんの顔を見回す。

「それでは、あの女性が現れた瞬間に私たちが何を考えていたのか検証してみようか」

山葉さんは僕を指さす。

「莉咲ちゃんに会いに行こうと思っていました」

山葉さんは次に裕子さんを指さした。

「赤ちゃんを見たいなあって」

山葉さんは最後に自分を指さす。

「私も莉咲ちゃんを早く見ようと思っていたのだ。ということはあの女性が考えていたことは」

山葉さんは言葉を途切れさせたので、僕が続きを言った。

「早く赤ちゃんを見たいとか早く会いたいとか考えていたわけですね」

僕は出産途中で亡くなった女性の気持ちを考えて、ずきりと胸が痛んだ。 

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