第310話 鋏でチョキン

沼さんが持ってきたのは、赤いバラとカスミソウの花束だった。

血のような深紅の花びらを、カスミソウの白い小さな花が引き立てる。

「綺麗なバラだね。ありがとう」

山葉さんが、花束を手にとって礼を言うと、沼さんがその由来を説明し始めた。

「カフェ青葉のお店の前の花壇に生えているバラがちょうど咲いていたので鋏でチョキンと・・」

花壇のバラは山葉さんが丹精込めて育てている。

山葉さんは沼さんがチョキンという言葉を口にしたとき、バラの香りをかごうと顔に近づけていた手を止め、沼さんをジロリとにらんだ。

「あ、いや冗談ですよ。駅前の花屋さんで買ってきました」

沼さんが慌ててネタばらしをすると山葉さんは元の動作に戻り、バラの香りをかいでうっとりとした表情を浮かべる。

「それから、こっちはですね、小さめサイズのケーキの詰め合わせです。一度に数種類のケーキを食べて幸せな気分になってください」

山葉さんが綺麗に包装された化粧箱を開けると、中には一口サイズのケーキがたくさん並んでいた。

それは同じ形のケーキではなく、モンブランやティラミスなど、定番のケーキをスケールダウンして一口サイズにした雰囲気のものが色とりどりに箱に並んでいる。

「すごい。体重を戻したい時期でカロリーが気になるから、ミニサイズをたくさん食べられるのはうれしいよ」

山葉さんのコメントに沼さんは満面の笑みを浮かべた。

「木綿ちゃんや祥ちゃんと一緒に考えて、これがいいという結論に達したのです。喜んでいただけてうれしいです」

「本当はお持たせを出してはいけないのだけど、これでお茶しよう」

山葉さんが腰を浮かせかけたので、僕は慌てて押しとどめた。

「僕がコーヒーを淹れますよ」

病室には電気ポットとペーパーフィルターでコーを入れるサーバーセットを持ち込んでいるので、コーヒーくらいは入れることが出来る。

「マスター直々に淹れていただけるなんて恐縮です」

「いつも賄いの時に淹れていますが?」

サーバーセットと同様に僕が持ち込んだカフェ青葉の自家焙煎コーヒーの粉をセットし、お湯をかける粉が膨らみかぐわしい香りを立てる。

僕もお見舞いのケーキを一つつまんでコーヒーを飲むが、穏やかな時間にのむコーヒーはいつにもまして美味しかった。

山葉さんは出産中に聞こえてきた先生の鋏の音の話をして沼さんと僕を凍り付かせたが、和やかな雰囲気は変わらない。

一通り歓談すると、沼さんはゆっくりと腰を上げた。

「私はそろそろ引き上げますけど、赤ちゃんを見ていいですか」

沼さんにしては控えめに尋ねるので、僕は彼女を新生児室まで案内することにした。

新生児室はガラス張りで、廊下から保育器の中の新生児の様子を見ることが出来る。

「あの保育器の中に莉咲がいるよ」

僕が示した保育器を覗き込もうと、沼さんは廊下と新生児室を隔てるガラスにへばりついた。

「ウッチーさん可愛いです。今あくびしていますよ」

彼女の言う通り、莉咲は子猫のように小さくあくびをすると、再びまどろみに入っていく。

「ウッチーさん、木綿ちゃんに見せたいから彼女を写真に撮ってもいいですか」

「いいよ。みんなによろしく伝えて」

僕が答えると、沼さんは保育器の中の莉咲をスマホで写真に収めた。

本当は抱っこしてもらいたいところだが、感染症対策を看護師さんに指導されているところなので仕方がない。

僕はそろそろ帰るという沼さんを病院の外まで送ることにした。

「ここからどうやって帰るの?」

僕が尋ねると、彼女は胸ポケットからSuicaのカードを取り出して見せる

「環状七号線から路線バスで下北沢駅まで行けるのですよ。そこからは歩いても大した距離ではありませんから」

「そうか、今日はお見舞いに来てくれてありがとう」

取り敢えずバス停までと思い、沼さんと一緒に歩いていると、小さな女の子を連れた父親らしき男性とすれ違う。

僕は大学院の春休みでもあり、曜日感覚が希薄だったが、今日が土曜日に当たることを思い出した。

休日のお父さんが子供を散歩させる微笑ましい風景なのだが、何かが僕の意識の隅に引っかかる。

僕は振り返って、歩き去る親子連れの後姿を見た。

僕の意識に引っかかったのは、父親が小脇に抱えたクリアファイルとその中に入ったA4サイズの紙の束だった。

僕の動きに気づいた沼さんは、訝し気な表情で僕に尋ねる。

「どうしたんですかウッチーさん」

説明は後まわしにしようと思い、僕は沼さんに唇の前に指をあてるしぐさをしながら親子連れの後を追った。

その男性は時折子供と手をつなぐが、子供がまだ小さいので屈み込まないと手を繋げないので歩きづらそうだ。

僕たちが後を付けていることに気が付かないまま、その男性は山葉さんが入院している産婦人科医院の駐車場に入り込み、クリアファイルからセロテープとA4サイズの紙を取り出し、駐車場の壁に張り始めた。

その紙は、病院に来た時に僕と裕子さんが回収した、菱沼先生を中傷する内容のビラだったのだ。

男性がクリアファイルに入ったビラの束を小脇に抱えていたため、隙間から覗いた文字の配置が僕の目に入り、先に見たビラの記憶と被ったことが僕の潜在意識から伝わったのに違いない。

「何をしているのですか」

僕が声をかけると、男性はびくっとして動きを止める。

「それはこの病院の先生を中傷するビラですよね。コソコソとそんなことをして何が面白いのですか」

僕は、口にしながら自分でも驚くくらい毅然とした雰囲気で男性に指摘した。

裕子さんと一緒にビラを回収しながら、快く思っていなかったのでその気持ちが一気に噴き出したのかもしれなかった。

男性はうろたえた雰囲気だったが、僕の言葉を聞くうちに居直ったように怒りの表情を浮かべる。

「本当のことだから世間に知らせているんだ。それのどこが悪い」

僕と男性の険悪なやり取りを聞いて、男性が連れていた女の子が見る間に涙を浮かべたのがわかる。

「正当な用事がないのに個人の占有スペースに入れば、住居不法侵入に当たるのですよ。これ以上そんなことを続けたら警察に通報しますよ」

ビラを取り上げてもよかったが、手を出すともみ合っているうちに喧嘩になりそうなので、僕は警察を呼ぶと脅すことにした。

スマホを取り出して見せると、男性はさすがに慌てたようだ。

「うるさいな、お前病院の関係者なのか?提訴して事実関係を明らかにして、医療過誤だった事を白日の下にさらしてやるからな。適当なことを言って誤魔化すそうとしてもそうはいかないぜ」

男性は泣き出した女の子を抱えると、セロテープをクリアファイルに放り込んで駐車場から駆け出していく。

僕は後を追おうと思ったが、女の子の泣き声が響くのを聞いて深追いするのを思いとどまった。

小さな子供を巻き込んでもみ合いになりそうで、躊躇してしまったのだ。

「一体何ごとなのですか」

沼さんが驚いた表情で僕に聞くので、僕は裕子さんと一緒に張られていた中傷ビラを回収したことや、山葉さんの主治医の菱沼先生が医療過誤で訴えられるかもしれないことを話す。

「でも、病院の先生だって全ての人を助けられるわけではないでしょう。不可抗力だってあると思うのに」

沼さんは、極めて順当な感想を口にする。

「そう思うよ。素人ではその辺はわからないところだからね」

僕は、走り去った男性がすでに一枚張り終えていたビラをはがそうと手を伸ばしたが、ビラに手を触れた瞬間に、ズキッと感じるような強い悲しみが心に入り込んだ。

それは、愛する者失ったものの慟哭のような感情で、その核に一人の女性の姿が浮かぶ。

記憶の中の姿として穏やかな笑顔を浮かべるその女性は、僕や沼さんが廊下で見かけた女性の幽霊と同一人物だと思われた。





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