第304話 最強の式王子

山葉さんが行う祭祀が一区切りついたところで、僕は周囲の世界に異変が生じていることに気が付いた。

リビングルームの中央に並んで座っている川崎家の家族と唐沢さんは妙に色褪せた雰囲気で動きを止めている 。

そして、住宅街とはいえ都心に近い川崎家では、意識できない程度だが東京という都会が発する低いバックグラウンドノイズと、少し離れた大通りを走る自動車の騒音や電車の通過音が耳に入っていたが、僕たちの周囲はシーンという音を感じるほどの静寂に包まれていた。

「ふむ、どうやら私たちは人外の世界に引き込まれたようだな。何者が現れるのか楽しみだ」

山葉さんは不敵な笑みを浮かべるが、僕は何かが部屋の中を飛び回っていることに気が付いた。

三十センチメートルほどありそうなその物体の正体に気が付いた時、山葉さんは先ほどの余裕など消し飛んだ表情で絶叫を上げた。

「ぎゃああああああ。なんだそれは、そんなものが存在するはずがない」

僕の目が飛び回っている物にようやく焦点を合わすと、それが巨大なゴキブリだということが判明した。

山葉さんは手にしていた刀をさやから抜く余裕もなく振り回し、飛来する巨大ゴキブリを近寄らせまいとしている。

僕は、刀を家から持ち出した記憶はないので、その刀は山葉さんに霊的に付属するものに違いない。

「山葉さん、それを貸して」

僕は、棒切れの代わりに鞘に収まった刀を振り回す山葉さんから刀を取り上げると、鯉口を切って刀身を抜き放つ。

そして、飛来する巨大ゴキブリの飛翔コースを見定め、上段の構えから鋭く振り下ろした。

山葉さんの刀は刀身の長い大刀だ。

僕の前を横切ろうとした巨大ゴキブリを鋭い刃がとらえ、キチン質の外骨格を切り裂くとゴキブリは二つに分断されて床に落ちた。

しかし、切断されて一メートルほど離れて落ちたゴキブリの残骸の間にはねばねばした黄色い液体が糸を引くようにぶちまけられて、汚いことこの上ない。

「霊的存在なのに、内臓までリアルに再現するんじゃない」

山葉さんは巨大ゴキブリの残骸を罵りながら僕の後ろに隠れた。

どうやら彼女はゴキブリが苦手のようだ。彼女は日頃からまめに掃除をするが、それは不快害虫を増やさないためかもしれない。

巨大ゴキブリはまだ無数に部屋の中を飛び回っており、油断すれば僕たちの身体に次々と張り付いてきそうな気配だ。

僕は山葉さんをかばいながら、刀を振るい一匹、また一匹と巨大ゴキブリを切り伏せるが、その数は減ったように見えない。

「お困りのようだな。拙者が手伝ってしんぜよう」

突然、僕たちの前に進み出たのは水干姿の若い男性だった。

男性は短く呪を唱えると、手にした杓を宙を飛ぶ巨大ゴキブリの群れに振り下ろした。

すると、部屋の中に巨大なアシダカグモが無数に出現し始める。

足の長さを含めると一メートルはありそうなアシダカグモは床や壁から身軽に跳躍すると、長い脚で巨大ゴキブリをとらえ始めた。

巨大ゴキブリをとらえたアシダカグモは、獲物を抱え込んで丸くなった状態で次第に姿が薄れ、巨大ゴキブリと共に消えていく。

部屋の中にあふれていた巨大ゴキブリの群れは瞬く間に駆逐されていった。

「あなたは高田の王子ですね」

僕が尋ねると青年は糸のように目を細めた笑顔を浮かべる。

「いかにも、その者に召喚されて妖の類を排除しておったのだが、おぬしたちが妙なところに入り込むので、少々出遅れてしまったようだ」

高田の王子とは、山葉さんが取り分けと呼ばれる儀式に好んで使う式王子だ。

その姿はいざなぎ流の口伝では、異形の化け物のように描写されているが、僕たちの前には何故か平安時代のお公家さんのような風貌で現れる。

高田の王子は僕が切り伏せて醜い残骸をさらしているゴキブリにふっと息を吹きかけてその残骸を消した。

「本当に高田の王子なのか」

いまだに僕の後ろに隠れていた山葉さんは、信じられないという様子で高田の王子に問いかけた。

「いつも私のために神楽を舞ってくれる割に連れないやつだ。それはそうと私の見てくれなどよりも大事なことが有るのではないかな」

高田の王子は自分の杓で、座ったまま彫像のように動かない川崎家の家族を指し示す。

その方向を見ると、川崎家の三人に唐沢さんを加えた4人がいるはずなのに、さらに余分な人影があることに気が付いた。

そこには小学校の低学年くらいに見える男の子が半ズボン姿で立っており、その横には少年と変わらぬくらいの大きさに見える大きなシェパード犬が行儀良く座っている。

「よくも僕のゴキブリちゃんを消したな。ジークフリートあいつらを襲って噛み殺せ」

少年は可愛らしい顔立ちをしているが、その眼には冷たい憎悪が秘められている。

大きなシェパード犬はおとなしく待機している姿勢から、一気に立ち上がると僕たちにむかって跳躍した。

言いようのないうなり声と共に、牙をむいた大きな犬がとびかかってくるのは恐ろしいものだ。

めくれ上がった口唇と鋭くとがった歯が迫ったとき、僕は持っていた刀を突き出してけん制した。

犬は身軽に地上に降りると僕の隙を窺うように横に回り込む。

その時、高田の王子が風のように素早く動き、犬の首に手を巻き付けたのが見えた。

片手で犬の首を抱くようにしながら高田の王子は残った手でいつの間にか抜いていた小太刀を犬に突き立てている。

犬が身じろぎをしたとき高田の王子は小さな声でつぶやいた。

「ゆるせ犬よ」

高田の王子が小太刀を抜くと犬の姿は砂のようにさらさらと崩れ、崩れる傍から消えていく。

その様子を見ていた少年の顔には驚愕と恐怖の表情が広がっていくのが見てとれた。

「いやだ、いやだ、僕のこともジークフリートのように消すつもりだろう。もしも僕を消したらこの世の終わりまでお前たちを呪ってやるからな」

恐慌に捉われながらも少年は呪詛の言葉を僕たちに吐く。

高田の王子は僕たちにその場にいるように身振りで示すと、ゆっくりと少年に歩み寄った。

「哀れな童よ、人は童であることを捨てて初めて一人の人となるのだ。不遇な生い立ちを囲っていつまでも童の心が残るは人にはあらず。私がそなたを新たな地に導いて進ぜよう」

高田の王子がゆっくりと近寄ると、男の子は絶叫を上げた。

「いやだああああ」

高田の王子をかなわぬ相手と見て男の子は泣き叫んだ。

「そう泣くな。そなたを無に帰そうという訳ではない。花が咲き蝶が飛ぶ園で楽しく遊ぶこともできる故、私と共に来てくれ」

高田の王子は、優しく男の子を諭している。

「本当? 僕を消さないと約束してくれる?」

男の子が問いかけると、高田の王子は柔和な笑顔を男の子に向ける。

「本当だとも、そしてそなたの母親にも合わせて進ぜよう」

高田の王子の言葉がその耳に届いた時、男の子の表情が一変した。

高田の王子の言葉に興味を抱いて子供らしいあどけなさがのぞいていたのに、再び目を吊り上げた険しい表情に戻り、その眼は怪しい光を宿したのだ。

「ヴアッ」

男の子は叫び声をあげると目にも止まらない速さで動いた。

僕は何が起きたかわからず立ちすくんでいたが、やがて事態が飲み込めた。

男の子の手刀が正面から高田の王子の身体を突き抜け背中から突き出ていたのだ。

高田の王子の口からツツと血が流れ、胴体を突き抜けた男の子の手の周辺から水干の背中が見る間に血に染まっていく。

僕は高田の王子を助けようと一歩前に出たが、男の子は手を引き抜くとさらに数回、高田の王子に向かって手刀を振るう。

男の子が動きを止めると、貴族然とした青年の姿はかき消され、引き裂かれた和紙の式王子が血に染まって散らばっていた。

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