第303話 呪詛の伝承

その日の夕方、僕はカフェ青葉の仕事をこなしながら、唐沢さんが美沙ちゃんの両親と面談し、美沙ちゃんを無事に保護してくれただろうかと気をもんでいた。

前日に散歩した際に偶然遭遇した少女が、父親に虐待されているかもしれないというだけの話なのだが、クマのフィギュアに残っていた少女の思念を拾って追体験してしまったので僕にとっては他人事ではない。

ランチタイムの忙しい時間帯が終わったころに、山葉さんが店舗に現れた時、僕は思わず身を固くして彼女の言葉を待った。

午前中に児童虐待に対応する相談センターを訪ねたときに、山葉さんが事態の進展があれば連絡してほしいと伝えていたからだ。

山葉さんは僕の近くに来ると、周囲に聞こえない声量で耳打ちした。

「今朝会った唐沢さんが相談したいことが有るから会って欲しいと言っている。三時ごろにはここに来るからウッチーも同席してくれ」

それはよくない知らせに聞こえた。唐沢さんが僕たちに会いに来るとすれば、面談の結果が彼女の意に添わなかったために何か相談に来たと考えられるからだ。

「唐沢さんは美沙ちゃんを保護することが出来なかったのですか」

僕が尋ねると山葉さんは面白くなさそうにこめかみに手を当てる。

「そのようだな。父親の主張によると、通報されたときはしつけのために声を荒げていただけで、虐待の事実はないと言っているらしい。唐沢さんは私が提案したご祈祷を行って子供に付いた疳の虫を祓う話をしたらしいので、余程手詰まりを感じたのだろうな」

実務的な雰囲気の唐沢さんが祈祷の提案をしたということは、別の理由もあるかもしれないが、取り敢えず彼女の話を聞いてみるしかない。

唐沢さんがカフェ青葉に姿を現したのはラストオーダーに近い時間帯だった。

「すいません。お言葉に甘えて連絡させていただきました」

唐沢さんは、心なしか恐縮した雰囲気でカウンター席に座ると、山葉さんに勧められてメニューを見て、ホットコーヒーを注文した。

山葉さんはペーパーフィルターを使ったドリップでコーヒーを淹れながら、彼女に尋ねる。

「薦めておいてこんなことを言うのも申し訳ないですが、あなたが祈祷の話を持ち出すのは少し意外な感じがします。先方ではどんなことがあったのですか」

唐沢さんは俯き加減に、面談の様子を話し始めた。

「私は虐待の事実関係が確認出来たら、一時保護までもっていくつもりで訪問したのですが、川崎家のご主人とは水掛け論になってしまいました。彼が言うにはしつけを厳しくしているだけなので口を出されたくないとのことで、お子さんの美沙ちゃんの体にできている痣も、自分が家の中を走り回ってぶつけた時の傷だというのです」

ぺーパーフィルターの中に入れたコーヒーの粉にお湯を注いでいた山葉さんの手が一瞬止まったが、間を置かずにリズミカルな動きが再開される。

「美沙ちゃん本人からも虐待を裏付ける言葉は聞き出せなかったので、私がそれ以上に主張することは出来ませんでした。ただ、帰り際に奥さんに話を聞いたところ、ご主人は美沙ちゃんに亡くなったお母さんの面影を見ているところがあり、それを消そうとして美沙ちゃんをしつけようとしていると聞いたのです」

「そこで、私のことを思い出したのですか?」

山葉さんは淹れ終わったコーヒーを唐沢さんの前に置きながら尋ねる。カップのコーヒーからは仄かな湯気が立ち上がり甘い香りが漂っている。

「ええ、私はキリスト教徒なのでお祓いというのはよくわかりませんが、あなたの言うように、彼が美沙ちゃんに母親の面影を見ているのなら、お祓いで拭い去ったと信じさせれば虐待が減るのではないかと思って奥さんに祈祷をしないかと持ち掛けたのです。彼女は消極的ですがご主人の虐待には批判的なのだと見えて、祈祷をすることに賛同してくれました」

唐沢さんは自分では打つ手が無くなり、山葉さんに相談することを少なからず悔しく感じていることをにじませている。

「わかりました。先方と連絡を取っていただけたらすぐにでも祈祷に伺います。」

山葉さんが答えると、唐沢さんは深く頭を下げた。

「よろしくおねがいします。折角通報していただいたのに結局、私の力では何もすることが出来なくて申し訳ありません」

僕は自分たちが彼女に使える最後の切り札となっていることを理解した。

唐沢さんは、スマホを取り出して川崎家と連絡を取ると、山葉さんが祈祷を行う日程を決めた。

唐沢さんの通話を聞いていると、川崎さんが先延ばしにしようとするのを、唐沢さんが半ば強引に翌日の夕方にアポイントメントを取ったことがわかった。

僕たちは駅の前で唐沢さんと合流してから川崎家を訪ねることになった。

翌日の夕方、祭祀のための道具を準備しながら僕は山葉さんに尋ねた。

「祈祷が出来ることになったのはよかったですけど、それで美沙ちゃんへの虐待を止めることが出来るのでしょうか」

山葉さんは白衣と緋袴の上にを千早を羽織りながら僕に答えた。

「娘の美沙ちゃんに取り憑いたものを祓うというのは相手方に取り入るための便宜上の話だ。私のターゲットは虐待を加えている父親の病んだ心だ。」

僕はいざなぎ流の祈祷の奥義については全て知っているわけではないため、彼女に尋ねた。

「精神的な歪みのようなものを矯正することが出来るのですか」

「歪みを矯正することはもちろんだが、むしろ式王子の力を使って彼の精神を支配し、私たちの望む方向に誘導すると言った方が良いのかな」

山葉さんは自分の千早の着付けをピシッと正しながら僕に答える。

「そんなことが出来るのですか」

僕は驚いて尋ねた。

これまで彼女が祈祷で行ってきたのは、取りついた幽霊を浄霊して神上がりさせることが多く。人を操る類のことが出来るとは聞いたことがなかったからだ。

「それが、いざなぎ流の呪詛に相当するものだ。私の父はいざなぎ流の闇の部分の祭文は人に伝えずに途絶えさせようとしていたが、ウッチーや、栗田准教授が民俗学の研究者なので私に伝えることにしたのだ。それをさらに後代に伝えるか否かは私に委ねるというのだ」

山葉さんは穏やかな表情で僕を見ながら怖いことを口にする。

「川崎家のご主人はいざなぎ流の呪詛の実験台に丁度いいのではないかな」

僕は答えに困ったが、山葉さんに答えないわけにもいかない。

「呪詛と言っても殺すわけではありませんよね」

「そう。私たちの意思でほんの少し相手を操るだけの話だ」

山葉さんは穏やかな微笑を浮かべた。

再びWRX-STIを駆って出かけた僕たちは、最寄り駅の前で唐沢さんを拾ってから、川崎家に向かった。

先日車を止めた、わずかだがスペースがある場所を今回も使わせてもらうことにして、僕は「みてぐら」や榊の枝が入ったプラスティックのケースを抱える。

僕も紺の袴に白衣の神職風の装束を着ており、巫女姿の山葉さんと歩くと住宅地の中では悪目立ちしそうだが、幸い人通りは少ない。

川崎家に到着するとリビングルームで親子三人が待ち受けていた。

一見すると温厚そうなお父さんと少しおとなしい雰囲気のお母さんが一人娘を大事に育てている家族のように見える。

「妻が、美沙のしつけに好影響があるというからお願いしたのですが、本当に子供の性格を矯正することが出来るのですかね」

僕は彼のねちねちした話し方に既視感を感じて嫌な気分なる。

クマのフィギュアに残っていた美沙ちゃんの思念を読み取ったときに彼女と記憶を共有したのに等しいので、当然父親には嫌悪感が付きまとうことになるのだ

「もちろんです。きっとお望みのような良い子に変貌してくれますよ」

山葉さんは心にも無いことを言うと、御幣を手に取った。

「これよりいざなぎ流の祈祷を行いますのでそちらにお座りください」

川崎家の家族は素直に彼女の言葉に従い、山葉さんは深々と一礼してからいざなぎ流の祭文を詠唱し始める。

いざなぎ流の神楽は緩やかな舞なので身重の彼女でも、体に障る心配は少ないが初めて聞く祭文は僕を少し不安な気分にした。

川崎家のリビングルームには山葉さんが祭文を詠唱する声だけが響いていた。


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