第305話 悪しき記憶
「何を甘いことをしているのだ」
山葉さんは僕の後ろでいらだった声でつぶやいた。
「高田の王子は存在を消されてしまったのですか」
僕が尋ねると、山葉さんは小声で答えた。
「高田の王子は式王子だから神のような霊的存在と思って良い。姿が消えたのは彼が依り代にしていた式王子が引き裂かれたためだ。その子供はおそらく美沙ちゃんの父親の子供の頃の姿と思っていいだろう。高田の王子は式王子のくせにいたいけな子供の姿に惑わされたのだな、ウッチーも油断しないよう気を付けるのだ」
山葉さんの言葉を聞くと、先ほどまでの悪夢のような一連の出来事が説明されたような気がした。
山葉さんは、川崎家のご主人の心を改変しようと目論んでいたが、狙い通りに僕と共に彼の心の中に入り込んだのだ。
僕は抜刀したままの山葉さんの大刀を構えなおすと、青白く目を光らす男の子に向き直った。
「君の名前は何というのかな」
僕は平静を装った声で尋ねた。
何はともあれ男の子の素性を確かめたかったのだ。
「先刻承知だろう。僕の名は健一、あなた方がご執心の美沙の父親だ」
男の子は僕の思考を読んだごとく名乗った上に、僕たちが美沙ちゃんを助けようと訪ねてきたことすら知っていることをひけらかした。
「現実世界と意識のつながりがあるというのなら、何故娘の美沙ちゃんを虐待するのか説明してもらおうか」
最強の式王子である高田の王子が行動不能にされたというのに、山葉さんは強気に男の子を詰問する。
「何故?そこに散らばっている紙切れが生意気に生い立ちの不幸を囲ってとか言ったが、親に捨てられた不幸がわかるというのか」
男の子が憎悪のこもった視線を向けると同時に、僕たちの脳裏に彼が抱えている記憶が浮かんだ。
バーチャルリアリティーのように僕たちの感覚を占拠した彼の記憶は容赦なく僕の意識に浸透していく。
僕たちは、美沙ちゃんを虐待する父親の健一さんの子供時代の記憶を追体験する羽目になったようだ。
記憶の中では彼は身体を動かすことも億劫なほどの空腹を感じており、周囲には悪臭が満ちていた。
キッチンの床に力なく横たわったまま視線を彷徨わすが、テーブルの上やキッチンのシンクには汚れて腐臭が漂う食器が残されているだけだ。キッチンの床にはごみや汚物が散らばり、その間をゴキブリがはい回っている。
「お母さんが帰ってこない」
口から洩れた言葉がむなしく響いた。
小学校に行けば給食を食べることが出来るが、着替えがなくて体操服を普段着代わりにしているうちに「きたない」と言われていじめられるようになり、数週間前から小学校に行っていない。
そのことすらも母親は頓着していないようだった。
母一人子一人の生活で、母親はパートや水商売を転々としているらしく、不在にしていることが多い。
それでも戻ってくれば食べ物をくれたのだが、ここしばらく戻ってこないのだ。
力なく寝返りをうつと、シェパードのジークフリートが前足で力なくキッチンのシンクの下の扉をひっかいているのが目に入った。
立ち上がる力がなく、這うようにしてシンクの下まで行きシンクの下の扉を開けると、そこには小さなドッグフードの袋があった。
ジークフリートも長い間餌をもらっておらず、骨と皮のように痩せている。
袋を破いて、キッチンの隅に置いたエサ皿にドッグフードを入れると、ジークフリートはしっぽを振りながらドックフードをむさぼり始めた。
その様子を見て、無意識のうちに袋の中身を口に運んでいた。ドックフードは塩気がなくて美味しい代物ではなかったが、あっという間に残っていたドッグフードがお腹に収まっていた。
犬と共にドックフードを食べてわずかに空腹を満たしたものの、それ以後は食べるものは見つからなかった。
玄関のドアは施錠されており高い位置にある錠に手が届かなくて開けられない。
そのまま死んでしまうかと思ったが、空腹で朦朧としながら眠るだけになったころに小学校の担任が家庭訪問に来て、かろうじて救出されたのだった。
男の子から流入した記憶が途切れると、僕は自分の感覚を取り戻したが、目の前では悪意のこもった目で男の子がこちらをにらんでいる。
「どうして僕が悪者にされるんだよ」
しかし、山葉さんは男の子の言葉に冷たい雰囲気で答えた。
「それがどうしたというのだ。世の中には不幸な境遇の中でも希望を失わずに努力し、幸せな家庭を築いた人は沢山いる。そんな経験をしたからと言って自分の子供を虐待してよい理由にはならないのだ」
山葉さんが冷静に告げると、男の子は形容しがたい声を上げて山葉さんにとびかかろうとする。
僕は身重の彼女を守るために、突進する男の子との間に立ちふさがるしかなかった。
男の子は、刀を構えて立ちふさがった僕から飛び下がったが、僕は太ももに激痛を感じた。
正面の男の子に隙を見せないようにしながら目線を下ろすと、僕の太ももには小さなリコーダーが深々と突き刺さっている。
片手でリコーダーを引き抜くと噴き出た血が袴を濡らした。
「後でわかったことだがお母さんは男が出来て、邪魔な僕を捨てて姿を消したということだったらしい。」
男の子の目からは涙が流れ落ちているが、僕の背後から山葉さんは小声で僕に言う。
「ウッチー、そいつをそのまま斬り捨てろ」
僕は男の子の姿をしたそれを切ることを躊躇したが、それが僕たちに突進してきたので上段から一気に刀を振り下ろした。
刀は突進してきた男の子を文字通り両断した。
しかし、血が出る訳でも無く、のっぺりとした断面をさらして倒れた男の子の身体は次第に透明になり見えなくなっていく。
そして、静寂に包まれていたリビングルームに音が戻ってきた。
川崎一家や、唐沢さんも動きを取り戻したが、父親の健一さんはいつの間にか座布団に座った状態からあおむけに倒れて大きないびきが聞こえている。
奥さんと、唐沢さんがそれに気づいて慌てて介抱を始めた。
僕は自分の足を見たが、リコーダーが刺さった痕跡は何処にもない。
「脳内出血かもしれません。すぐに救急車を呼びます」
唐沢さんがスマホで連絡を取り始め、奥さんが健一さんを揺らしながら名前を呼ぶのを見て、山葉さんは奥さんを止めた。
「だめです。安静にしてください」
奥さんが動きを止め、僕たちはなすすべもなく、健一さんを見守るしかなかった。
山葉さんは救急車の到着を待つ間に「みてぐら」を片付け始めたが、「みてぐら」の高田の王子の式王子が細かく破けていることに気づき手を止める。
「山葉さんそれは」
「うむ、私たちが見ていたものは幻覚ではなかったのだな」
山葉さんは「みてぐら」を持ち帰るように梱包した。それは後日人の手に触れない場所に埋めるために持ち帰らなければならないのだ。
やがて、救急隊員が到着し健一さんの搬送を始めた。
唐沢さんは、奥さんが付き添う間、美沙ちゃんを預かることを相談している。
「私たちは引き上げたほうがよさそうだ」
山葉さんの言葉通り僕たちにできることはないため、僕は荷物をまとめ山葉さんが唐沢さんに挨拶をして川崎家を後にした。
僕はWRX-STIを運転しながら、山葉さんに尋ねた。
「健一さんが倒れたのは山葉さんの祈祷の効き目なのでしょうか。それとも周囲の時間が止まった空間で僕が斬ったためなのかも」
山葉さんは物思いにふけっていたが、やがて答えた。
「健一さんが美沙ちゃんを虐待していたのは自信がネグレクトに相当する虐待を受けていたことが彼の人格形成に悪影響を与えたために間違いないが、脳梗塞で倒れたのが私達の祈祷によって引き起こされたか否かは判断できないな」
彼女は、初めて実戦投入した呪詛の結末について、自分でも結論付けることが出来ない様子だった。
結局、川崎家の経過が判明したのはそれから数日後だった。
唐沢さんが、川崎家の母子を伴ってカフェ青葉を訪れたのだ。
「先日はありがとうございました。夫は軽い脳梗塞を起こしていたそうで、記憶障害が出て子供の頃の記憶を思い出せないようですが、幸い後遺症は軽く歩ける程度には回復する見込みです」
奥さんは連れてきた美沙ちゃんの顔を見てから僕たちに続けた。
「唐沢さんがいろいろお世話してくださって美沙のこともゆっくり話すことが出来ました。私は夫の言いなりになりすぎていたのですね。これからは美沙のことを大事にして育てていきたいと思います」
彼女は以前と比べてしっかりとした口調で話し、そこには自分が家族を支えていかなければならないという強い意志が感じられた。
「ご丁寧にありがとうございます。ご主人の一日も早いご快癒を祈っております」
山葉さんは型通りに挨拶を返し、唐沢さんと川崎さん母子はパンケーキセットを楽しんでから帰っていった。
「ウッチーの一太刀が彼の人格をゆがめていた悪しき記憶を消してしまったのかもしれないね」
「そんなことを僕がしてよかったのでしょうか」
僕は気がかりな思いで山葉さんに聞き返すが、山葉さんは楽天的に言うのだった。
「きっと、父親は不幸な時代の記憶と共に子供を虐待する動機付けを失い、これからは家族が仲良く暮らしていけるよ」
そうなれば良いのだがと僕が思った時、山葉さんは不意に下腹部を抑えた。
「いてて、急にお腹が痛くなった気がするんだけど」
「もしかして陣痛が始まったのではないですよね」
僕は半ば確信しながら、山葉さんに尋ねていた。
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