第302話 部外者の限界

翌朝、僕たちは山葉さんの母親の裕子さんに呼ばれて階下に降りた。

「お父さんがアジの干物や野菜を宅急便で送ってくれたから、それを使って朝ご飯を準備したのよ」

厨房に併設されたスタッフ用の食事スペースではすでに祥さんも席についていた。

「すいません。私は朝の賄を作ろうとしていたら裕子さんが作ってくれると言うのでお言葉に甘えています」

「いいのよ、私も手伝いに来ているのだから。」

裕子さんは気さくな雰囲気で、料理をテーブルに並べ、出勤してきた田島シェフもテーブルに加わる。

裕子さんが作った朝食はアジの干物と卵焼きに菜の花のお白和え、そして野菜と豆腐で具沢山なみそ汁だった。

それは、山葉さんが時々あっさりした和食が食べたいと言って作るメニューに似ており、僕は可笑しくなった。

「このアジの開きはどこかの高級料亭が監修して作ったものですか」

田島シェフが生真面目な表情で尋ねると、裕子さんは嬉しそうに答える。

「いいえ、土佐沖で取れたアジを漁港にある加工業者が開きにしたものなの。家は山奥にあるけど、お父さんが仕事で出かけたときに買い付けてきたのですって」

「干物でも鮮度が良いものは美味しいということだな」

山葉さんは、裕子さん手作りの朝食を楽しんでいたが、あらかた食べ終わったころに僕に囁いた。

「昨日の音声ファイルをもって児童相談所に行ってみよう。専門の職員が訪問すれば、虐待の事実を確認して美沙ちゃんを保護してくれるかもしれない」

「いいですけど、体調が悪かったら無理しないでくださいよ」

僕は、彼女の大きなおなかを視野の隅に意識しながら小声で言う。

「大丈夫だ。それに私たちが出来るのはそこまでだから、児童相談所の担当職員が話を聞いてくれたら、この件については一区切りつけることにしよう」

僕は山葉さんが無理押ししないと請け負ってくれたことで安堵した。

出かける準備が整ってから僕たちは川崎家の住所地を管轄する児童相談センターを訪れた。

事前に電話連絡していたので、僕たちが到着したときには担当の職員も僕たちを待ち受けていた。

「初めまして。担当の唐沢聖子と申します。警察署からも連絡を貰っていますが、虐待を思わせる声や物音を聞かれて、警察署に通報していただいたと言うことですね」

担当者の唐沢さんは黒縁の眼鏡とツインテールのヘアスタイルが印象的で、年齢は二十台前半と言ったところ、飾り気がなく仕事に打ち込んでいる雰囲気が窺われた。

「ええ、実は通りすがりに気になったので、その時の音声を録音したものがあるのですが」

山葉さんはスマホを取り出しながら、唐沢さんに告げる。

「聞かせていただけますか」

唐沢さんが山葉さんに聞くと、山葉さんは音声ファイルの再生を始めた。

スマホから流れる音声に耳を澄ましていた唐沢さんはやがて顔を上げた。

時節柄彼女もマスクをしているが、そばかすの浮いた顔の眼鏡の下の眼光は鋭い。

「児童虐待が疑われる事案だと思います。通報していただきありがとうございました」

僕と山葉さんは正規の担当職員が僕たちの訴えを認めてくれたことで安堵した。そして、唐沢さんは手元の書類挟みを見ながら、僕たちに確認し始めた。

「昨夜、警察署から連絡があったのはこの住所ですが間違いはありませんか」

書類挟みには警察署からの連絡事項のFAXが挟んである様子で、唐沢さんはそれを見ながら住宅地図をめくっていく。

最終的に彼女は川崎家のあたりが示された住宅地図のページを開いて僕たちに確認を求めた。

僕はそのあたりに土地勘はないが、昨夜ナビゲーションを頼りに住宅地に入り込んだ時のランドマークを思い出して彼女が示す地図と照らし合わせる。

「その辺りだったと思います」

僕が答えると唐沢さんは僕たちに頭を下げる。

「通報ありがとうございます。早速私が訪問して面談してみます」

僕と山葉さんは、ほっと一息ついて相談センターの受付の椅子から腰を浮かしかけたが、唐沢さんの背後から彼女の上司らしき男性が覗き込んだ。

「その家は以前にも通報があって子供を一時保護したことが有るのではないかな。いま記録を紹介して来るからちょっと待っていて」

その男性は唐沢さんに言いおいて別室に姿を消した。数分後に戻ってきた男性は、フラットファイルをめくりながら唐沢さんに説明し始めた。

「近所からの通報で面談したところ、その家の女児の体に多数の痣が認められたために、一時保護したが、父親が強硬に抗議したため、今後虐待は行わないという誓約書をとって最終的には女児を家庭に戻したとある。」

唐沢さんは憮然とした表情で男性を見返す。

「誓約書って紙切れ一枚書かせて、それが何の効力があるっていうんですか」

男性は唐沢さんの剣幕に押されたように後ろに下がった。

「俺にそんなことを言われても困るよ。解決済みとして引継ぎを受けているから、改めてこちらから押しかけたらトラブルになるのではないかと思って」

「現にこうして通報してくださった方がいるから解決していないのは明らかじゃないですか。私は今日のうちに面談してきます」

唐沢さんがきっぱりと言い切ると、男性は諦めたように両手を上げた。

「わかった。でも無理に一時保護するのは止めてくれよ。裁判沙汰になったらこちらが不利な場合もあるから」

唐沢さんは男性から顔を背けると返事もしないで書類を片付けると僕たちに振り返った。

「お時間を取らせて申し訳ありませんでした。私が責任をもって確認してきますから」

僕は専門の機関と言っても大変なのだなと思い、無言でうなずいたが山葉さんは唐沢さんに問いかけた。

「よかったら面談の結果がどうなったか私に電話で教えていただけませんか」

唐沢さんは口を開きかけたが、思い直した様子でスマホを取り出すと山葉さんに言った。

「対象者の個人名をお知らせすることは出来ませんが経緯についてはご連絡します」

彼女は個人情報だからという理由で断ろうとしたが、通報者が気にかけていることを考慮して経過を教えることにしたように思えた。

僕たちとしてはそれ以上、長居する理由はないので引き上げることにした。

しかし、山葉さんは帰り際に唐沢さんに小声で言う。

「私は巫女として祈祷などを行っています。虐待を受けている子供をお祓いして見せたら両親が虐待を止めた事がありましたから。面談した後で同じ手を使って効果があると思えたらぜひ私に連絡してください」

「はあ?お祓い?それが虐待とどう関係してくるのですか」

唐沢さんは山葉さんの言葉に率直に疑問をぶつける。

「子供に取り憑いていた悪しきものを祓い清めたと両親が信じることで、子供に対して虐待をしなくなるということですよ」

唐沢さんは無言で考えていたが、やがて山葉さんに言う。

「そうですね、そういった方法が有効だと思ったら連絡しますのでその時はぜひお願いしたいと思います」

どうやら彼女は適当に話を合わせて僕たちを追い出しにかかったようだ。

相談センターの外に出た僕は外来者用駐車場まで歩きながら山葉さんに言った。

「彼女は美沙ちゃんへの虐待を止めることが出来るのでしょうか」

山葉さんは、肩をすくめながら言う。

「さあね。専門家が正式に乗り出してくれたからには後は彼女を信じるしかないだろう。上司らしき男性が及び腰だったのに彼女は面談すると請け合ってくれたではないか。」

彼女の言葉はなんだか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。

相談センターから戻った僕たちは、自分たちの待望のベビーの出産に備える生活に戻っていった。

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