第301話 星の輝きが減る時

裕子さんが聞きだした美沙ちゃんの住所地は小田急線の代々木上原界隈だった。

WRX-STIのカーナビゲーションの目的地にその住所地を入力して僕は慎重に運転した。

「問題の家まで行って、どうするのですか」

玄関から乗り込んで、美沙ちゃんを連れ去ったりしたら当然ながら僕たちが住居不法侵入や誘拐の罪に問われてしまう。

子供を虐待していることが立証されなければ、両親が子供の保護者なのだ。

「そうだな。車に乗ったままで、どの家か当たりを付けたうえで、近場に車を止め、改めて徒歩で接近して様子を見よう」

さすがに山葉さんも強硬な手段をとるつもりはないようだ。

僕はカーナビの指示に従って主要道路から生活道に入ると、ナビゲーションの地図を拡大した。

カーナビゲーションは目的地近くに至ると、交通法規に従って目的地に行くようにと指示してあっさりと案内任務を放り出す傾向があるので、詳細地図の番地表示を使うつもりだった。

予想通りにカーナビが案内を打ち切ったところで、僕は目的の家の番地表示を頼りに路地をゆっくりと進む。

「この家が美沙ちゃんの家のようですね」

僕は目的の家の前に差し掛かった時に、山葉さんに告げ、玄関の表札に川崎の文字を確認した。おそらく間違いないはずだ。

「よし、それでは道幅が広いところに車を置いて歩こう」

山葉さんに指示されて、僕は一方通行表示に注意しながら住宅街を走行し、停車可能な場所を探した。

川崎家からほど遠くないところで、少し道幅が広い場所を見つけ、僕は車を止める。

車を降りた僕と山葉さんは、少し緊張しながら歩いて川崎家を目指した。

「さっき見た限りでは、道路に面した壁があったと思う。そこにこれをセットしてみよう」

山葉さんは黒い吸盤からコードが伸びている形状の付属品をスマホのUSBポートに接続しながら言う。

「それは、マイクなのですか」

「うむ 、収音マイクの性能が良くなっていると聞いて通販で買ってみたのだ」

山葉さんはネット通販で僕から見ると使途がよくわからない電気製品を購入する癖があり、押入れの一角に専用コンテナが存在する。これもその一つのようだ

山葉さんはスマホのアプリを起動して音量を上げた。

レコーダーアプリを使っている様子で、マイクでピックアップされた音声が外部スピーカーにも出力されている。

「何も聞こえませんよ」

僕がつぶやくと、山葉さんは自分の唇の前で指を立てる仕草をする。

録音しているから話すなという意味だと解釈して僕は口をつぐんだ。

山葉さんはアプリでピックアップの音量を操作した。すると、スピーカーの音にかすかに子供の声が認められた。

その声は何かを繰り返しているように聞こえる。

くぐもった声をよく聞くと、それは「ごめんなさい」と繰り返していることが分かった。

やがて、男性が声高に何か言う声が重なり子供の声は止む。そして、少し間をおいて子供の泣き叫ぶ声が聞こえた。

泣き叫ぶ声は止まず、時間の経過とともに激しさを増す。

山葉さんはそこで、レコーダーの録音モードを止めて集音マイクを回収するとマイクロダウンのハーフコートのポケットに入れた。

「やはり、日常的に虐待されているようだな。今の音声だけで児童相談所とか警察が動いてくれるだろうか」

山葉さんは眉をひそめて自分のスマホの画面を見つめる。

僕が彼女に答えようとした時、背後から女性の声が響いた。

「あなたたち、そこで何をしているのですか」

振り返った僕は、声の主がこちらに向けている明るいLEDライトの光が目に入り、相手の姿がよく見えない。

しかし、丁寧な言葉づかいではあるが硬い雰囲気の言葉と、ライトの光越しに見えるシルエットから相手の職業は察しが付く。

どうやら、僕たちは女性の警察官に不審尋問されている状況のようだ。

「散歩していたのです」

山葉さんは、慌てないでおっとりした雰囲気の声で答えた。

「散歩?この近所の方から怪しい男女がいると通報があったのですよ。散歩ならば他人の家の前で立ち止まることはありませんよね」

声の主の警察官は硬い雰囲気を崩さず、あくまで不審者として僕たちに対処していることがわかる。

山葉さんは、今度は少し心配そうな雰囲気の声で言う。

「実はこの家の中から、子供が虐待されているような声が聞こえていたのです。それで気になって聞き耳を立てていたのです」

警察官は無言で聞き耳を立てている様子だったが、やがて口を開いた。

「何も聞こえませんよ」

「さっきまで聞こえていたんですよ」

今度は僕が女性警察官に告げる。

警察官が現れた事が、美沙ちゃんの両親の告発に繋がる好都合なことなのか、それとも僕たちが不審者とみなされる厄介な事態なのか微妙なところだ。

僕たちを問い詰めていた警察官は、もう一人いた女性の警察官に小声で何か指示すると川崎家の玄関に向かった。

「すいません。お二人はこちらに来てもらえますか。」

短髪の女性警察官が割と柔らかい物腰で僕たちを誘導した。雰囲気からして、先ほどの女性警察官が上役でこちらの警察官は部下と言ったところだろうか。

最初はLEDライトを向けられて見えなかったが、二人とも防刃ベストや拳銃に至るまでフル装備状態なのが見て取れる。

その女性警察官は、僕たちを自分たちが乗ってきたパトカーまで連れていった。

そのパトカーは僕たちのWRX-STIの前に止めてあったが、WRX-STIのフロントバンパーすれすれに置いてあり、駐車禁止違反を指摘するつもりではないかと僕はヒヤヒヤする。

しかし、女性警察官はパトカーの後部座席のドアを開けると僕たちに言った。

「寒いですからここに乗っていただいてお話を聞かせていただきたいのですが」

そのまま所轄署まで乗せていかれそうな雰囲気なので、僕は慌てて言った。

「そのWRX-STIは僕たちの車なんですけど」

「そうなんですか。でも、散歩するためにわざわざ車で出かけてこられたのですか」

短髪の女性警察官は意外と鋭く指摘する。

「お医者さんにできるだけ歩くように言われているのです。自宅の周辺は道幅が狭くて交通量も多いのと気分を変えるためにこうして出かけてきているのです」

僕が説明すると彼女は山葉さんのお腹が大きいことに気が付いたようだ。

「そうなんですね。でもいいな、こうして旦那さんが散歩にまで付き合ってくれるなんて羨ましい」

女性警察官が割とのんきなコメントを漏らしたので僕は一息ついたが、そこにもう一人の女性警察官が戻ってきた。

「あの家の奥さんと話しました。確かにご主人がお子さんをしかっていたそうですが、虐待などはしていないと言うことです。お子さんが無事なことも確認しました。」

もう一人の女性警察官は長めの髪をポニーテイルにしており、少し落ち着いた雰囲気を醸し出している。

彼女は僕たちの言葉を信じて、川崎家の奥さんと話し美沙ちゃんの安否確認も行ってきたらしい。

しかし、玄関でやり取りした限りでは警察官の目で見て虐待に相当する事実は確認できなかったということだろうか。

「この奥さんの出産が近くて散歩するためにわざわざ自動車で来たと言うことです」

年かさの女性警察官は苦い表情になると僕たちに告げる。

「今日は違反切符を切りませんが路上駐車は控えてください。児童虐待の疑いについては一応お知らせいただいたことを報告しておきますがそれでよろしいですか」

彼女はおそらく有能な警察官なのだろうと僕は思った。素早く事実関係を確認し、僕たちも不問に付して帰すつもりに見える。

その時、山葉さんがスマホを彼女の前に突き出した。

スマホのメディアプレイヤーが先ほど録音した音声を再生し、スピーカーから男性の声とそれに続く少女が泣き叫ぶ声が響くと、女性警察官二人は眉をひそめた。

「この声があの家から聞こえてきたと言われるのですね」

山葉さんは無言でうなずいて見せる。

「今から踏み込んで、女の子に虐待を裏付ける外傷がないか調べましょうか」

短髪の女性警察官が言うと、もう一人の警察官は冷たい声で答える。

「そんなこと出来る訳ないでしょ」

そして年かさの女性警察官は僕たちに告げた

「先ほど申し上げたように、虐待疑いの事案として報告しますし、この辺りを管轄する児童相談所にも連絡します。今日はお引き取り願えますか」

僕たちが不審者として通報された件は疑いが晴れたらしい。山葉さんは仕方なさそうにうなずいて見せる。

その時、年かさの女性警察官は思案するような表情で山葉さんに言った。

「もしよかったらですが、児童相談所にその音声ファイルを届けてもらえますか」

山葉さんは微笑を浮かべると女性警察官に答えた。

「そうさせてもらいます」

女性警察官たちは僕たちに軽く会釈してから慌ただしくパトカーに乗り込んで戻っていった。

僕はWRX-STIのドアを開けて乗り込みながら空を見上げたが、見慣れた星座が見えているのにどこかが違うと感じた。

やがて、それがオリオン座で、星座の左上に位置するベテルギウスがいつもに比べて光が弱くなっているからだと気づく。

ウエブのニュースで何気なく読んでいたが、現実に目にするとそれは何か不吉に感じるものだった。

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