第300話 カフェテリアの鯛焼き

「それでは、ここでレッスンを受けられるのは三歳以上なので 」

「そうなんです。ご希望に添えなくて申し訳ありません」

受付の女性は丁寧に対応しており、山葉さんは女性に微笑んでから言った。

「わかりました。ところで、最近子供の虐待の話をよく聞くのですが、スイミングスクールでは体に打撲によるあざがある子供がいたら児童相談所に通報したりするのですか」

話題の振り方としては唐突な感じが否めないが、受付の女性は疑問にも思わなかった様子で山葉さんに答えた。

「そうですね、あちこちにあざがある子供がいたら不審に思うこともあるみたいですが、よほどのことがない限り通報はしませんね。その子供が虐待を受けていると確信出来たら別ですが」

無理もない話だった。通報などして、実は思い過ごしだったりしたらただ事では済まなくなるのが今の世の中だ。

「ありがとうございました」

山葉さんは女性に礼を言って、受付のテーブルを離れた。

プールは受付のあるフロアから更衣室のスペースを経た奥にあるため、プールの様子を窺うことは出来ない。

僕たちは、プールの入り口を離れると建物の外に出た。

「こうなると、ここであてどもなく待つしかありませんね」

「うむ、その通りだが先ほど見たクラス別のレッスン時間表によるとあと30分ほどしたら、小学校1年生から2年生向きのレッスンが始まるはずだ。」

山葉さんはそれまで建物の入り口で張り込むつもりのようだ。

「山葉さん、歩くならまだしも立ち通しだと体に触りますよ。向こうのカフェテリアで休んでいませんか」

僕はプールがある建物から広場を挟んだ位置にある別棟にあるカフェテリアを指さした。

少し距離が遠いものの、オープンカフェでお茶を飲んでいればプールに出入りする人を監視するにはうってつけの場所だ。

時節柄人込みは避けたいが、幸いオープンカフェのテーブルは閑散としている。

「そうだな、あそこで見張ることにしよう」

僕たちは、カフェテリアまで移動するとオープンカフェのテーブルに座った。

そのカフェはキャッシュオンデリバリーで品物を受け取るタイプだったので、僕と裕子さんは、最近食欲旺盛な山葉さんのために様々な品物を購入しては運ぶ羽目になりそうだ。

裕子さんは真っ先に鯛焼きを買ってきたので、山葉さんはそれに手を伸ばそうとしたが、僕は鋭く遮った。

「だめです。先に手を綺麗にしてください」

僕は自分のバッグから除菌機能付きのウエットティッシュを取り出すと、山葉さんの前に置いた。

「食べる前に手を綺麗にするのは鉄則です。こんな場所のテーブルに食べ物を直接置くのも厳禁ですからね」

僕が小うるさく指示すると山葉さんはしぶしぶと従う。ウイルス感染防止の必要性を頻繁に説明したので最近は山葉さんも逆らわなくなっている。

「妙なウイルスが蔓延するから、日常生活が窮屈で仕方がないな」

山葉さんはぼやきながら鯛焼きを紙袋から手に取った。

僕は食べる前に飲み物を確保しようと腰を上げたが、広場の向こうを歩く親子連れに目を惹かれる。

しかし、よく見たら母親が連れているのが男の子だとわかり、僕は山葉さんと裕子さんに欲しい飲み物を聞くと、レジがある窓口に向かった。

よく考えたら、物に染み付いた記憶を読んだからと言って赤の他人の母娘を探し出し、虐待されている娘を救出するなど、常識では考えられない話だ。

僕は東京では珍しく開けた空を見て嘆息してから、出来上がった飲み物をもってテーブルに戻った。

「鯛焼きとコーヒーも意外に合うでしょ」

裕子さんは自分のセレクトを自慢し、彼女の言葉通り、パリッと焼けた鯛焼きの触感と餡の甘さは、コーヒーの苦みと調和する。

昨日に続いて昼下がりの東京で、初春の空気を楽しんでいる構図で僕は何となくのどかな気分を取り戻しかけていた。

その時山葉さんの声が響いた。

「いたぞ、昨日の親子連れだ」

山葉さんが指さす方向には、間違いなく昨日見た母子が歩いていた。

「それでは私が、娘さんがクマの人形を落としたのを見て拾ったということで声をかけてくるわね」

裕子さんが、身軽に立ち上がる。

彼女の口実は僕が検証しても全く問題ないものだ。

裕子さんが足早に広場を横切っていくのを見ながら僕たちは慌てて紙コップの類を片付けて裕子さんの後を追った。

僕たちが追いついたときには、裕子さんは既に事情を話し終えてクマのフィギュアを美沙ちゃんに返したところだった。

「ありがとう」

美沙ちゃんは嬉しそうに裕子さんに礼を言う。

裕子さんはしゃがみ込んで美沙ちゃんの頭に手を乗せながら尋ねた。

「どういたしまして。お名前はなんていうのかな」

「川崎美沙です」

美沙ちゃんは少したどたどしい口調で裕子さんに答える。

「美沙ちゃんか。お利口さんだねどこに住んでいるのかな」

裕子さんはナチュラルに美沙ちゃん母娘の住所を聞き出そうとしている。

幸い、母親も疑いを持たないうちに美沙ちゃんは住所を告げたようだ。

僕がさらに接近しようとすると、山葉さんは僕の上着を掴んで引き留めた。

「このまま関係ない第三者を装って通り過ぎよう」

山葉さんは隣にいる僕だけに聞こえる声量で囁き、僕はとりあえず彼女の指示通りに、裕子さんと美沙ちゃん母娘の脇を通り過ぎ、とりあえず駐車場がある方向に向かった。

山葉さんもさりげなく僕に続き、僕たちは次第に裕子さん達から距離をとった。

十分に離れたと思ったのか、山葉さんは僕への指示の理由を話し始めた。

「私たちの顔はまだあの二人の記憶には残っていないはずだ。面が割れていないほうがあの二人の家の周りを調査したり、場合によっては家を訪ねる時に便利だ」

「僕は彼女の判断に感心したが、山葉さんのお腹が結構目立つことが気になるところだった。そのことで母親が山葉さんのことを記憶にとどめているかもしれないからだ」

僕たちがゆっくりと歩いていると、やがて裕子さんが追いついた。

緩い斜面を小走りに追ってきたためか、裕子さんは少し息を切らせている。

「この東京でもう一度同じ人に会うことが出来るとは思いもよらなかったわ。あの子の住所も聞いてきたけどこれからどうするの?」

裕子さんは勢い込んで尋ねるが、山葉さんはゆっくりと歩きながら微笑んだ。

「あの二人は今から一時間ほどスイミングスクールに行くことになる。私たちは一度帰って夜になってから二人のご自宅を見に行こう」

僕は、散歩の時間が長くなりすぎて山葉さんの体が冷えるのではないかと思い心配していたので、彼女の判断に賛成だった。

駐車場のWRX-STIに戻ると、僕たちは自分たちの家でもあるカフェ青葉を目指した。

「そういえば、この車種は生産中止になってしまったのですよね」

僕はWRX-STIのステアリングを握りながら山葉さんに話しかけた。

「うん。普通なら生産中止で型落ちになるというが、この車は綺麗に管理しておけばそのうち新車購入時よりも高い価格でマニアが買ってくれるかもしれないよ」

山葉さんはカフェの業務用としてADバンという商用のバンを買う予定だったのだが、魔が差してWRX-STIを購入してしまった過去がある。

彼女の言葉は微妙に自分の購入履歴を正当化しているように思えた。

カフェ青葉に戻ると細川さんが機嫌よく僕たちを迎えた。

「おかえりなさい長い散歩だったけどお腹を冷やしてないかしら」

最近では、臨月に入った山葉さんを皆が競争するように気づかいするのがスタッフのトレンドとなっており、細川さんもそれに染まってしまったようだ。

「大丈夫ですよ。細川さんもありがとうございました。今日は晩御飯を一緒に食べて行ってくださるのですよね」

「ええ、そうしますよ。アルバイトの沼さんが自分の料理を食べて講評してくれと言って聞かないのよ」

細川さんは、嬉しそうに僕たちに告げる。

「もう一度出かけるのは食事の後、今度は私の母は置いて行こう」

山葉さんは僕の耳元で囁いた後、細川さんを囲む談笑の輪に加わる。

僕は、仲間たちがいる温かい雰囲気を抜け出して、再び出かけるのがなんだか億劫な気がしていた。

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