第284話 ピンク色のスニーカー

次の土曜日に僕と山葉さんは沙也加さんと一緒に彼女のお父さんの消息を求めて立川市に行くことになった。

その日の朝から、山葉さんはいざなぎ流の神々に祈りを捧げている。

「今日は祈祷が目的ではないのに熱心ですね。」

僕が声をかけると山葉さんは顔を上げて、穏やかな表情で教えてくれた。

「実は沙也加さんには誰かが呪詛の類をかけているような気がするのだ。付き合っていた男性と別れたのが年末の話で、年明け早々に死の兆候が表れていたとしたら、たて続けに悪いことが起きている。彼女と出掛ける前に、略式でよいから呪詛返しの祈祷をしておきたいのだ」

彼女は昨夜から式王子も用意していたらしく、祈祷の準備をしようとしているらしい。

「そうですか、それならば準備を手伝いますよ」

彼女が祈祷を行うときは建物の一階、厨房から通路を挟んで反対側にある和室を使う。

通路から障子で仕切ることもでき、依頼客の祈祷を行うのに都合がよいので、通称「いざなぎの間」と呼ばれている部屋だ。

僕が手伝って部屋の中央に五色の王子の幣を立てた「みてぐら」を設置すると、彼女は巫女姿に着替えて祈祷をする体制を整えた。

約束した時間にカフェ青葉を訪れた沙也加さんは、出迎えた山葉さんの出で立ちを見て目を丸くする。

「あの、私に取り憑いているのは父の生霊だから徐霊はしないという話でしたよね」

「はい、浄霊は行いませんがその代わりに、あなたにかけられた呪いを解くための祈祷をし、それからお父さんの行方を探すことにしましょう。こちらの部屋に準備をしていますからどうぞ。」

沙也加さんは素直に山葉さんの言葉に従って、お店のバックヤードに足を運ぶと、一段高くなった畳敷きの和室に上がる。

沙也加さんの背後には相変わらず男性の霊が張り付いており、彼女の動きとともに寄り添うように移動している。

「これから、いざなぎ流という流派の呪詛返しの祈祷を行い、あなたにかけられた呪い、私たちの使う言葉で呪詛というものを取り除きます」

「あの、私はどうしていればいいのですか」

一方的に祈祷を始めようとする山葉さんに、沙也加さんが抗議するように尋ねたが、山葉さんは微笑を浮かべて答える。

「そこに座っていただければ大丈夫です。おそらくそれによって目に見える変化は起きないと思いますが、大事なことなのです」

山葉さんは諭すように沙也加さんに言うと、いざなぎ流の法文を唱え始めた。

傍らで僕が見守る前で山葉さんは緩やかにいざなぎ流の神楽を舞い、式王子と呼ばれる彼女が使役する存在を召喚する。

式王子は式神と同様に彼女が召喚して使役するが、神ならぬ存在だ。

式王子は多くの場合、家の祭りや山の神を鎮める祭りなどに先立って、そこに存在する呪詛などの穢れを取り除く「とりわけ」の儀礼で用いられる。

式王子の能力で、人が意識せずに放つ呪いや、敵対する陰陽師が意図的にかけた呪詛を邪霊と共に無力化して「みてぐら」に集めるのだ。

本来のいざなぎ流の祭祀は三日三晩を要するという。

現代の僕たちの時間に対する尺度ではとてもつき合える代物ではなく、山葉さんはその場の必要に応じて対応する。

今回は「とりわけ」の儀式の重要な部分だけを使っているようだ。

それでいいのかというと、やはり具合の悪い部分もあるようで、山葉さんは先に働いてもらった分を返すのだと言って、空き時間にいざなぎ流の神楽を舞い神々にお礼をしていることがある。

山葉さんは「りかん」の言葉を唱えると祈祷を終え、「みてぐら」を梱包し始めた。

「それは僕がやっておきますから、山葉さんは外出の準備をしてください」

僕が声をかけると、山葉さんは手を止めた。

「ありがとう。調査には時間が掛かるからそうさせてもらうよ」

山葉さんは、神楽で乱れた息を整えるように深呼吸してから、着替えるために自分の自室に下がった。

「あの、私に呪いがかけられていたというのは本当なのですか」

いざなぎの間に残された沙也加さんは、心配そうな表情で僕に聞く。

「確証がある訳ではありませんんが、祈祷を行った方が良いと彼女が判断したのです」

僕が答えると、彼女は声を潜めるように僕に言う。

「父を探す件は私の依頼なので、料金をお支払しますけど、追加のお金が発生すると困るのですが」

僕は彼女が心配していたのが呪いを掛けられたことではなく、祈祷の料金が加算されることに対するものだったので可笑しくなったが表情に出さないように答えた。

「大丈夫ですよ。これは最初の依頼額に含めていますから」

僕の説明を聞くと、沙也加さんの表情は目に見えて明るくなった。

「良かった。ちょっと買いたい物があるので出費が増えるのは困るなと思っていたのです」

僕は自分に掛けられた呪いよりも、出費が嵩むことを心配していた沙也加さんを微笑ましく感じた。

しばらくして、山葉さんの準備が整ったので、僕たちは自家用車のWRX-STIで立川市向けて出発した。

ステアリングを握った僕は、環状7号線に出てから北上し、首都高速に乗るつもりだった。

沙也加さんの父親を探す際には、彼女が子供の頃にお父さんを訪ねた際のおぼろげな記憶が取り敢えず手がかりとなりそうだ。

しかし、下北沢駅の界隈に差し掛かった時に後部座席から沙也加さんの声が響いた。

「すいません、車を止めていただけませんか」

僕は慌てて道路幅が比較的広い箇所の路肩にWRX-STIを寄せると、ハザードランプを点灯した。

「どうしたのですか」

「すいません。今通り過ぎた過ぎたスポーツ用品店に、どうしても買いたい品物があったものですから。ちょっと見てきてもいいですか」

沙也加は申し訳無さそうな表情で僕に告げる。

僕がどう答えたものかと考えていると、助手席の山葉さんが彼女に聞いた。

「もしかして、MIKEのピンク色のスニーカーですか?」

沙也加さんは、うれしそうに答える。

「そうなんです。今、入手困難なのでどうしても確認してきたいから少しだけ時間をください」

山葉さんがうなずくのを見るなり、沙也加さんはスポーツ用品店にダッシュしていく。

「何ですかそのMIKEのピンク色のスニーカーって」

僕が訪ねると、山葉さんはそんなことも知らないのかと言いたそうな雰囲気で僕を見た。

「マラソンの有力ランナーの多くが使っている靴だ。ソールが厚く、爪先部分にカーボンファイバーのプレートが入っていて、好記録が出やすいと言われている。」

僕は沙也加さんが文字どおり駆け込んだスポーツ用品店を振り返ったが、店の中の様子はは窺えない。

「フルマラソン参加に向けて、準備を進めているのですね」

僕はそのスニーカーのスペックがわからないものの、感心する他ない。

「何にせよ、彼女の気分が明るくなったのはいいことだ」

山葉さんは温和な微笑を浮かべる。

しかし、沙也加さんは三十分ほど待っても戻ってこなかった。 

山葉さんはサイドウインドウの縁に乗せた指でトントンとドアのプラスティック部分をたたいており、僕は静寂を破るようにつぶやいた。

「ちょっと遅いですよね」

「まて、いま彼女が出てきた」

山葉さんはサイドミラーでスポーツ用品店を覗いていたようだ。

僕が振り返ると、沙也加さんはバッグだけを抱えて軽い足取りで歩いてくる。

WRX-STIのドアを開けた彼女は明るい声で言った。

「すいません。お待たせしました」

その時僕は気が付いた。先ほどまで彼女に寄り添うように移動していた彼女のお父さんの霊が、どこにも見当たらないのだ。

「スニーカーは無かったのですか」

「店頭展示品が見えていたので、店員さんに売ってくれないかと交渉したのですがすがサイズが合わなかったので結局諦めたのです」

お目当ての品物がなかったにしては、彼女の表情は明るい。

「何かいいことでもあったのですか」

僕が尋ねると彼女はこぼれるような笑顔と共に言った。

「私は年末に付き合っていた彼と別れたとお話ししたと思いますが、その彼と偶然会ったのです」

考えてみれば、二人ともマラソン出場を考えているのだからスポーツ用品店で遭遇する可能性はないわけではない。

「その上、年末に喧嘩別れしたのは互いに誤解しあっていたというのがわかって、仲直りすることが出来たのです」

僕と山葉さんは意外な成り行きに言葉を失っていた。

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