第282話 彼女の死因
「あの、変なことを聞いて申し訳ないのですが、この5分間ぐらいのうちに何かの予定を変更したのではありませんか」
僕が彼女に投げたのは文字通りの変な質問で、まともな感覚の持ち主ならば、僕の質問の意味すら理解しがたいに違いない。
沙也加さんに張り付いていた黒い影が彼女が近いうちに死ぬ運命であることを暗示する時空の裂け目だとしたら、それが消えたということは彼女が死ぬはずだった運命が変更されたのに他ならない。
もしも彼女に死をもたらす原因が病気だったとしたら、積極的に治療を行うことなしに運命が変わることはありえないはずで、あるとすれば彼女が難病におかされてその治療法を考えており、たまたま有効な治療法に切り替えようと決断した場合くらいだ。
この場合可能性が高いのは、彼女が不慮の事故に巻き込まれる運命だったが、何かのきっかけで将来の予定を変更したため、事故に遭遇する未来を回避したということだろう。
そして彼女が何か思い当たることがあったとしても、何故、僕が知りえたのかという新たな疑問が彼女の中に芽生えるはずだ。
僕の予想通りに、沙也加さんは僕のことを怪訝な表情で見ながら言った。
「あなたはいったい何者なの?私はあるマラソン大会にエントリーしていたものの、その後いろいろあったので出場することをあきらめて棄権を決めていた。でも、今日は気分が前向きになったから、やっぱり参加しようかなと思い直したところだったのよ」
僕は、問題の核心に少し近づいたと感じたが、沙也加さんにどうやって説明しようかと思い言葉に窮した。
僕の状況を察したのか、山葉さんはさりげなく話をつなぐ。
「マラソン大会といえば、もしかして東京マラソンですか」
「ええ、夏にエントリーしたら運よく抽選を突破して参加できることになっていたのです」
沙也加さんは、山葉さんに温和な雰囲気で答え、山葉さんはさらに話を続ける。
「フルマラソンを走れるか人って尊敬してしまいます。棄権するつもりだったということは既にエントリー手続き済みだったのでしょう。どうして棄権しようと思ったのですか」
「それは」
沙也加さんは話しかけて、どうしようかと迷うった様子だったが、結局僕たちに理由を説明し始めた。
「私は秋ごろまで付き合っていた人がいたのです。趣味が合う人で一緒に東京マラソンにエントリーしていたので、二人とも抽選を突破して参加できることになってすごくうれしかったのです」
沙也加さんは遠い目つきをして、記憶を振り返っている様子の後で話をつづけた。
「ところが冬に入ったころに、彼が浮気をしているという情報が入ったのです。友人が女性と一緒に歩いている彼を見たと教えてくれたので、最初は信じられなかったのですが、次に会った時に彼を問い詰めても彼は否定しないのです」
話が微妙な話題となったので、僕はますます口を挟みずらくなってしまったが、山葉さんはナチュラルに話をつなぐ。
「お友達の見間違いだったのではないのですか」
「いいえ、彼はその女性は以前に以前付き合っていた人だと悪びれもせずいうので、私は強く彼をなじったのですが、彼は開き直ったように私に文句を言われる筋合いの話ではないと言い放ったのです」
山葉さんもさすがにリアクションに困った様子だったが、仕方なさそうに尋ねる。
「それで、どうなったのですか」
「結局、彼とは喧嘩別れの形になりました。東京マラソンはエントリーフィーも払っていましたが、当日に彼と顔を合わせたら気まずいと思い棄権しようと思っていたのです」
僕はそこでどうにか会話に参加することが出来た。
「それが、今日は気分が前向きになったから参加することにされたと」
「そうよ。財布が出てきたうえに美味しいスイーツも味わえたから久しぶりに気分が晴れたの」
彼女は嬉しそうに告げるが、僕は彼女の最初の質問に答えていない。
彼女にくっついていた黒い影のことから説明しなければならないかと思っていると、山葉さんが沙也加さんに軽い口調で話し始めた。
「実は彼は幽霊を見ることが出来るのです」
「はあ?」
山葉さんの言葉を聞いて、沙也加さんの頭には再び疑問が渦巻き始めたのに違いない。
僕は山葉さんがどんな話をするつもりかわからないので、そのまま彼女に任せることにした。
「彼は、その幽霊はおそらくあなたのお父さんではないかと言うのですが、その幽霊がつい先ほどまで心配そうにあなたに何か告げようとしていたと言うのです」
沙也加さんは文字通り目を丸くして僕を見たが、山葉さんは頓着しないで話を続ける。
「ところが、つい今しがたその幽霊の様子が豹変したらしいのです。つまり、あなたが何か不慮の事故に巻き込まれる可能性があり、お父さんの霊がそれを警告しようとしていたように見えたが、急に安心した様な様子に変わったというのです」
沙也加さんは困ったように僕の顔を見ると言った。
「あの、私の父は死んでいないはずなのですけど。ほぼ音信不通に近い状態ですけど、死んだらさすがに子供の私には連絡が来るはずですから」
山葉さんは困ったように眉を顰めると僕の顔を見る。
それ自体は僕が引き起こした出来事ではないが、彼女にしてみたら説明に困る事態が発生したので僕を非難したくなったのだろう。
「それは、生霊というものかもしれませんよ」
僕たちの背後から、祥さんが話に加わった。
「人が何か強く執着したものがあると、その人は生きながらに霊が体を離れて現れることがあるのです。あ、私はこのお店のスタッフですけど、実家が神社なのです。山葉さんとウッチーさんは超絶的な霊能力を持っていますから、信用していただいて大丈夫ですよ」
祥さんは言うだけ言うと、回収した食器を乗せたトレイを抱えてカウンターの内側にあるシンクまで運んでいく。
「生霊ですか」
沙也加さんは毒気を抜かれたようにぽつりとつぶやくと、僕と山葉さんを交互に見比べる。
「お父さんのことはさておき、東京マラソンには参加したほうがいいと思いますよ。マラソンに参加することを決断したことによって何かの事故に巻き込まれるのを回避できたのかもしれませんから」
僕が意をを決して告げると、彼女はあっさりとうなずいてくれた。
「そうね。実は東京マラソンの日に都内にいると、参加しなかったことも悔しいし他の事もいろいろ考えてしまいそうだから、香港に遊びに行こうかと思っていたの。まだ日程にも余裕があるから、旅行はキャンセルして東京マラソンに参加することを確定にするわ。そうすれば私は安全なのでしょう」
彼女はどうにか僕たちのロジックを理解してくれたようだった。
何はともあれ彼女のもとに不吉な黒い影が戻ってくる様子がないので僕と山葉さんは一息ついた。
「でも、お父さんの生霊というのが気になるわ。お父さんが生霊になって私にとりついている理由とか調べることは出来るのかしら」
僕はおもむろにお店のメニューを取り出して、最後のページに記載されている山葉さんの陰陽師としての活動メニューを開いて見せた。
「実は彼女が悪霊の浄霊や呪いを解くための祈祷をしているのです」
沙也加さんは巫女姿の山羽さんの画像を見て、感心したように彼女に目を移す。
「この場合は、あなたのお父さんの安否を調べることから初めて、必要なら祈祷でお父さんの霊を体に戻すことを試みます」
山葉さんは眉間にしわを寄せて、沙也加さんの背後に佇む男性の霊を見ながら言う。
沙也加さんは、僕たちの視線に気づいて自分の後ろを振り返るが、むろん彼女は男性の霊を見ることは出来ない様子だ。
「私が父に最後にあったのはずいぶんと前で、その時は父は立川市に住んでいたの。その祈祷というのをお願いすることは出来ますか」
沙也加さんの依頼に対して、山葉さんはゆっくりとうなずいてから答えた。
「もちろん引き受けさせていただきます」
沙也加さんは山葉さん位は笑顔を見せたが、不安そうに自分の背後を振り返った。
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