第280話 拾得物は交番へ
並木道の先にはバス停がある。
先ほどから自分の手を握っている小さな手を意識して視線を落とすと、彼女も気配を察してこちらの顔を見た。
切れ長の目は少女の母親に似ており、手入れの行き届いた長い髪は少女に対する母親の愛情を伺わせる。
降り積もった落ち葉を踏みしめた彼女は、チェックのスカートとダッフルコートを身に着けており、とても可愛らしく見える。
遠くから自分に会いに来てくれたのに、一緒に食事をして断片的な会話を交わしただけで送り返さなければならないのはいかにも可哀そうだが、彼女の母から届いたメールはそうすることを望むものだった。
携帯電話でメールを送受信することを覚えたのはつい最近のことだが、今回はそれで大いに助かっていた。
時として人目があるところで声高に話せない事柄もあるからだ。
ツータッチ方式とかいう数字キーでアルファベットを打ち込む入力方法を必死で思い出しながら文章を組み立てていると、今時の女子高校生の器用さがよく分かる。
バス停に着き、バスを待つ間にポケットから財布を出すと、無意識にSuicaのカードを取り出してその少女に渡していた。
バス代のつもりなのか自分でも意味づけが出来ない行為だったが、少女は礼を言うとカードをコートのポケットにしまった。
やがて、便数の少ない路線バスがバス停に止まり、少女はバスに乗った。
乗降口のステップを登り、彼女が振り返ったときにバスのドアは閉じ、彼女が何か伝えようと口を開きかけた表情が私の目に焼き付いた。
「ウッチーどうしたのだ」
山葉さんの声に僕は現実に引き戻された。どうやら僕は拾った財布に残っていた誰かの記憶の世界に引き込まれていたようだ。
「いえ、この財布を拾ったのですけど」
僕は財布を落とした振袖を着た女性の姿を目で探したが、僕が財布に残された記憶に気を取られている間にその女性は人込みに紛れていた。
「落とした人はわからないのか」
山葉さんが重ねて尋ね、僕は境内の人込みを見回しながら答える。
「それが、振袖を着た女性が落とすところを見たのだけれど、声をかける前に人込みにまぎれてしまったのです。」
「ウッチーさん駄目じゃないですか、その場を見たなら追いかけて声をかけてあげないと」
木綿さんがやんわりと僕を非難するが、彼女の言うとおりだ。
「見失ったものは仕方がないから交番にでも届けましょう」
沼さんが、極めて妥当な意見を述べたので僕たちは神社の帰りに最寄りの派出所を探すことになった。
どうにか見つけた派出所では、当番で詰めていた警察官がてきぱきと拾得物の届を受理してくれた。
警察官が財布の中を改めると、運転免許証やクレジットカード、そしてSuicaやコンビニエンスストアのポイントカードの類がぞろぞろ出てきた。
持ち主が紛失に気づいたら慌てていることは想像に難くない。
財布に入っていた現金は二万円弱だったが、クレジットカード等を落とすと手続きが面倒なのだ。
警察官に、持ち主が現れた場合に謝礼を受け取るかと聞かれたので僕は固辞してから派出所を後にした。
強いて見るつもりもなかったのだが、免許証やカードに記載された名前は財布の持ち主が武内沙也加という女性だと示していた。
「落とし物を拾ったばかりに時間をとってしまったね。帰りは二人の家まで送っていくよ」
山葉さんが沼さんと木綿さんに告げると、二人は最初、最寄り駅で降ろしてくれたら電車で帰ると言い張ったが、結局は僕の運転で家まで送ることになった。
一月の日は短く東京の街は夜の雰囲気に変わろうとしていた。僕は財布を拾ったときに脳裏に浮かんだ記憶も日暮れ時だったことを思い出す。
記憶の中でSuicaのカードを渡していたことと、財布の中に残っていたカードには関連があるかもしれないと思いながら僕はWRX-STIのステアリングを握った。
木綿さんと沼さんをそれぞれ住居に送り届けると僕は、僕と山葉さんの住居でもあるカフェ青葉に戻った。
「新年早々に財布を落とした人は気の毒だが、拾ったのがウッチーだったのが幸運というものだろうね。持ち主の手に戻ればよいのだが」
山葉さんが上着を脱ぎながらつぶやき、僕も同感だったので黙ってうなずいた。
翌週の月曜日から、山葉さんはカフェ青葉の営業を始めた。
僕たちがそうだったように、お正月料理に飽きた人も多いのか、お客さんの数は多い。
年末年始に長野の実家に帰省していた祥さんや、海外にでかけていたという田島シェフも出勤し、新年最初の営業日は活気のある雰囲気で始まった。
「祥さんの実家は秋の台風で被害を受けたということだったが、大丈夫だったのか?」
台風の被害が発生している最中には、祥さんが心配そうに電話をしていたものの、その時は大したことはないと彼女が答えていたのを覚えている。
「ええ、祖父が住んでいる家が床下浸水したので、自動車とか浄化槽のポンプがやられたのですが、里宮は小高い所にあるので無事でした」
彼女の実家は神社の宮司をしており、本宮は高い山の上にある。
里宮というのは参拝しやすいように、麓の人里に作られた拝殿のことだ。
「それは大変だったね。休暇を取って手伝いに帰ってあげればよかったのに」
「祖父が自分たちで大丈夫だと言い張ったのですよ。私が跡を継ぐまでは頼るわけにはいかないと言って頑張っています」
祥さんは苦笑気味に答えた。
大学院の講義が始まるのは少し先なので、僕もフルタイムで手伝い、活気のある営業初日となった。
ランチタイムのお客が引けて、少し手が空いたころ、僕のスマホに着信が入った。
警察署員からの電話だったので、僕は思わず身構えたがそれは先日拾った財布の落とし主が見つかったというものだった。
警察官は落とし主の女性がどうしてもお礼を言いたいから挨拶に行ってもよいかと言っていると告げる。
「謝礼は必要ないですが、来ていただく分には別に構いませんよ」
強いて断る理由もないので、僕はその女性が僕たちの店に訪れることを許可した。
先方は、その足でこちらに向かうと言っており、距離を考えると一時間足らずで到着すると思われた。
僕が財布を届けて謝礼は断った話をすると、祥さんはため息をついて見せる。
「私だったら絶対謝礼を断ったりしませんよ。金額の一割くらいくれるんでしょう」
彼女は節約家で、給料が出ても無駄に使ったりせずにせっせと貯金しているのを知っているので僕は可笑しくなったが、強いて何も言わないことにした。
しかし、僕は財布を落とした女性については気になっていることがあった。
「謝礼はいいけど、その人の背後に霊が張り付いていて、神社に参拝した後も消えずに残っていたことが気になるんだ」
祥さんは考え込む表情だったが、顔を上げて僕に告げる。
「神社に入れば邪霊の類は浄化されることもありますが、何か強い意志を持って取り憑いている霊はその程度では消えませんからね。ここに来てもその霊がくっついたままだったら、その場で浄霊してしまえばいいのですよ」
祥さんは右手を握って力を込めて見せる。
祥さんも霊視能力を持っており、神道の祓い言葉を駆使する頼もしいスタッフだ。
僕たちが手すきの時間に他愛のない話をしている間に時間は過ぎていき、僕が財布の拾得の件を忘れかけた頃に、祥さんがカウンターに女性客を連れてきた。
「ウッチーさん神、神社で落とした財布を拾った件でお礼に来てくださった方ですよ」
祥さんは平静な声で僕に告げるが、その顔には気がかりそうな表情が浮かんでいる。
その理由は僕にもすぐに分かった。
僕にわざわざお礼に来てくれた女性には、相変わらず一体の霊がくっついていたのだが、もう一つ張り付いているものがいたのだ。
それは、死期が迫った人の近くに現れる黒い影だった。
山葉さんの説では、それは時空の裂け目のようなもので霊のように見えるのは、僕たちの脳が視覚化するときに理解しやすい形に翻訳するためなのだという。
しかし、当の女性はそんなことは知る由もなく、祥さんに僕を示されるとうれしそうな笑顔を浮かべた。
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