第273話 キーホルダー
「母さん聞いての通りだ。その引き出しを開けてもいいかな」
恭一郎さんが真由美さんに許可を求めると、真由美さんはゆっくりとうなずいて見せる。
そして、恭一郎さんが引き出しを開けるのを、居合わせた皆が覗き込む形となった。
引き出しの一番上に置いてあったのは、クリアファイルに入れられた、A4サイズの紙だった。
クリアファイルから取り出して見たところ、SNSサイト名と、メールアドレスと思われる@マークを含む文字列と、数字とアルファベットの組み合わせが整然と並べられている。
「主人が自分のSNSのアカウントが自分の死後もそのままになっていたら見苦しいので死亡通知を出してくれと言っていたことがあります。これはそのためのIDとパスワードの一覧表なのですね」
真由美さんが寂しそうな表情でつぶやいたので、僕たちは沈痛な空気に包まれたが、山葉さんがその一覧を見て、表情を険しくした。
「ネット系の証券会社のアカウントも含まれていますよ。FXを自動で取引する設定がされていて、家族が気付いた時には膨大な金額の負債になっていた事例があると聞いたことがあります」
「大変だ。親父のパソコンを持ってきてログオンしてみよう。恭介、親父の書斎にあったラップトップを持ってきてくれないか」
「いいですよ」
恭介さんは兄の言葉を素直に聞いて応接間から出ていき、しばらくしてラップトップパソコンを抱えて戻ってきた。
恭一郎さんは問題の証券会社のサイトにログオンするべくパソコンを起動したが、OSの起動画面のパスワード認証でつまづいていた。
「その紙にパソコンのIDとパスワードはかいてありませんか」
僕は慌ててA4サイズの紙に目を走らせるが、ほとんどがSNSのアカウントだと見て取れる。
「それらしきものは見当たりません」
僕の答えを聞いた恭一郎さんは、ラップトップのふたを乱暴に閉じると毒づいた。
「親父のやることって、どこか片手落ちなんだよな。メモの意味がないじゃないか」
真由美さんや八重さんはそれを聞いて哀しそうにうつむいたが、山葉さんは言いにくそうに口をはさんだ。
「あの、IDとパスワードがあればスマホからでも証券会社のサイトにロゴインできますよ」
恭一郎さんは山葉さんの言葉を理解すると罰が悪そうな表情を浮かべたがそれでも素直にスマホを取り出した。
僕も自分のスマホに問題のネット証券会社のサイトを表示させ、神崎先生が残したIDとパスワードを入力すると、問題なくネット取引のアカウントにログオンすることが出来た。
今時は、複数の端末で同時にログオンする事も有り得るのでログオンする端末数を制御する管理は行っていないはずなので、恭一郎さんと同時にアクセスしてもいいぐらいのつもりだったのだが、結果的に僕が真っ先にログオンしてしまったようだ。
「ログオンしたのですか」
僕の様子を見た恭一郎さんが自分のスマホを仕舞って僕のスマホを覗き込む。
「ええ、取引画面とかも表示できるのですが現在取引中の残額を見られる画面がわからないのです」
僕がサイトのタブをあちこち開いていると、山葉さんが横から口をはさんだ。
「口座管理的な名前のタブがあったらそこを開けてみるといい。現在残高が一覧で表示されるはずだ」
僕は横に来た恭一郎さんと一緒に口座管理画面を探し当てて表示した。そこに示されたのは数銘柄の有価証券の残額が数百万円単位の金額で残っており、収支も黒字だというものだった。
「赤字にはなっていないようですね」
「ちょっと貸して」
山葉さんは僕のスマホを取り上げると素早く、取引き履歴等を確認しているようだった。
「FX取引とか、信用取引のような放置すると問題が生じるものはあらかた終了してあったようです。残っていたのは現物取引の比較的安定した銘柄ばかりですね。少なくとも神崎先生は自分が帰ってこなくてもご家族に迷惑が掛からない程度に整理していたのでしょう」
恭一郎さんはホッとした様子で、パソコンを見下ろしていたが、恭介さんがボソッとつぶやいた。
「父の遺言状を探す話はどうなったのですか」
僕と山葉さんは互いに顔を見合わせ、恭一郎さんは慌てて戸棚の引き出しに戻った。
クリアファイルの次に出てきたのは、プラスティック製のケースだった。雑貨店などで売っている小物を入れるのに便利なサイズのケースで、中には様々なものが入っていた。
貴金属品等よりは、神崎先生個人が旅行などに行った時の思い出の品の類が多いように見える。
そんな雑多な品々の中から恭一郎さんは一つの品物を取り上げると、そのままの姿勢で凝固してしまった。
「恭一郎さんどうしたのですか」
栗田准教授が心配そうに声をかけると、恭一郎さんはゆっくりと振り返って栗田准教授に助けを求めるように言った。
「僕はさっき、自分が小学生のころに親父のキーホルダーを壊した話をしましたよね。いまそのキーホルダーが出てきたのですよ。ほらこれがそうです」
恭一郎さんがそのことを単なる偶然と思っていないことは明らかだった。青ざめた顔でそれ以上話すことが出来そうにない彼を見て僕はそのキーホルダーに手を伸ばした。
「それを見せてもらってもいいですか」
僕が手に取ったのは古びたキーホルダーだった。恭一郎さんの話で聞いたとおりに五角形をしたキーホルダーで、表面には高野山や通行手形等の文字も見える。自動車のキーなどに取り付ける金具と連結する鎖の部分はちぎれた跡があったが、針金を使って不器用につないだ痕跡があった。
「どうやら、お父さんは修理して使っていたみたいですね」
ぼくは見たままのことを告げたが、恭一郎さんは納得しない様子で僕に問いかけた。
「さっき俺が話したタイミングでたまたま出てくるなんて到底考えられない。あんたが事前にキーホルダーを仕込んだわけではないよな」
「違いますよ。キーホルダーの話は、ここに来てから恭一路さんの口から初めて聞いたのですから、事前に準備するなんて不可能ですよ」
僕がさりげなく指摘すると、恭一郎さんは事実関係を自分の頭の中で整理してでもいるように黙り込んでいたがやがて、小さな声で僕に告げた。
「確かにあなたの言うとおりだ。俺はキーホルダーの話など家族にすらしたことがないのにあなたが準備できるわけがない。あの話は完全に俺と親父しか知りえないことだったはずだ」
その時、恭介さんが引き出しにあった書類の中から、一通の封筒を取り出した。恭介さんは僕と恭一郎さんがキーホルダーに気を取られている間に引き出しの中を探していたのだ
「これが、問題の遺言状ではないかな」
彼が差し出した封筒の表書きにはわかりやすく遺言状と大きな文字で書いてあった。
「本来なら司法書士に立ち会ってもらうべきかもしれないが、今日は栗田さんがいるので立会っていただいて開封しよう。みんないいね」
恭一郎さんが声をかけると神崎家の一族はみながうなずいた。
栗田准教授は最初戸惑っていたが、真由美さんに頼まれて遺言状を読み上げることになった。
栗田准教授が読み上げた神崎先生の遺言状は家族への感謝の言葉から始まり、遺産の配分方法を指示する内容だった。遺産の分け方は法定沿って金額を決めたが、不動産等の配分しづらい物をどう分けるか指示し、相続者から不満が出ないように気を配った跡が見て取れた。
「以上で遺産配分の部分が終わりです。ご家族へのコメントの部分は私が読んでもいいものかなと思うのですが」
「わかりました。その部分は私たちが各自で読みます」
神崎家の人々は顔を寄せ合うようにして、遺言状を読み始め、真由美さんは涙ぐみ始めた。
やがて、恭一郎さんは僕たちを振り返って言った。
「皆さんありがとうございました。父が私たちに妙な品物を送り付けた理由がわかりました。父は自分がいなくなった後も家族が仲良くするようにと願いを込めてそんなことをしたのだと思います。そしてわたしには過去のことを謝ってくれたうえで、恭介のことをよろしく頼むとまで書いてありました」
「そうですか。私もお役に立ててうれしいです。」
栗田准教授が軽く頭を下げると恭一郎さんは照れくさそうな表情を浮かべる。
「それにしても、引き出しからキーホルダーが出てきた時は驚きましたよ。遺言でもそのことに触れてあり、僕と意見の相違があったことは自分の思い込みや意思疎通能力が足りなかったためだと詫びてくれていました」
山葉さんが穏やかな笑顔を浮かべて答える。
「神崎先生は、ご家族に伝えたい思いがあったのですね。お役に立てたなら光栄です」
栗田准教授は心なしか悲しそうな表情で真由美さんに告げた。
「そのお面は匿名配送で届いたと聞いていますが、私たちはどの辺りから送られたかある程度見当がつくので、現地に行って先生の行方を探していたいと思うのですが」
「私たちには探す手立てがないのでご厚意に甘えます。よろしくお願いします」
真由美さんは遺言状を呼んでいるときから涙ぐんでいたが、ハンカチで涙をぬぐいながら栗田准教授に答えた。
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