第246話 遺産相続人

正晴さんが乗用車ごと転落するのを目の当たりにした後、最初に行動を起こしたのは孟雄さんだった。

「大変だ、僕は緊急通報するから山葉は楠木さんのお宅に連絡してくれ」

孟雄さんは自分のスマホを取り出しながら山葉さんに指示し、二人はそれぞれに連絡を始める。

僕は正晴さんが転落した真上まで行って、救助に行けないかと思って様子を窺ったが。崩れやすい岩の崖をロープなしで降りていくのは不可能に思えた。

「とても降りられそうにないですよ」

僕が通報を終えた山葉さん達の元に戻ると、山葉さんは正晴さんの車が止めてあった場所を子細に眺めている。

「無理をして降りたところで、崖の上に引き上げる手段がないから救急隊員が到着するのを待とう。それよりもここを見てくれ」

彼女が指さす先にはアスファルトの路面上にシミができていた。

「正晴さんの乗用車のクーラーの排水ではないですか」

「いや、クーラーのドレンの水はこっちで、こちらにオイルの染みのようなものがある」

彼女が示したシミは、確かにオイルの染みのように見える。

「エンジンオイルが漏れたのでしょうか?」

「さっき載せてもらったのは真新しい高級乗用車だった。オイル漏れなど起こすものだろうか。それにこのオイル染みは透明なオイルがこぼれたように見える」

山葉さんは僕に答えながら、路上のオイル染みをスマホで写真に撮っていた。

やがて緊急車両が到着すると、消防隊員がロープ使って正晴さんの救助に向かい、少し遅れて到着した警察官が僕達に事故の状況を聴取し始めた。

警察官は型通りに僕達の身元を確認すると事故に遭った正晴さんとの関係やここで何をしていたか詳細に尋ね、その上で事故の情況を尋ねる。

「あなた達が見ている前で崖から転落したという事ですが、誤操作によるものだと思いますか」

僕達に状況を聞いている警察官はどうやらアクセルとブレーキを間違える誤操作による事故を疑っているようだ。

「いえ、車の方向を変えるために崖に向かって後退して、止まらないと崖から落ちる位置でそのまま後退し続けたように見えました」

僕が答えると、警察官は山葉さんと孟雄さんにもそれぞれ同じことを聞いている。

「それでは、誤操作によるものではなくブレーキの故障などが疑われると思うのですね」

僕達がそれぞれにうなずくのを見て、警察官は手帳に書き留めている。

山葉さんは警察官にオイル染みがあった場所を示しながら言う。

「ここに来た時、この辺りに車を止めていたのですが、方向を変えるには道幅が狭いので、転落した場所まで行ってそこで車の向きを変えようとして落ちたのです」

警察官もその場所を見て、オイル染みに気付いた様子で写真を撮影した。

その頃になって、救急車が僕達の前を通り過ぎて行った。転落現場を見ていたもう一人の警察官が戻ってくると僕たちと話していた警察官に報告を始める。

「事故当時運転していたのは楠木正晴さんで、転落時に背中や腰を強打しています。骨折の疑いがあるので市立病院に搬送されました」

僕達に事情を聴いていた警察官が上司のようで、若い警察官に何か指示すると僕に向き直った。

「署までご同行願えますか。もう少し詳しく話を聞かせていただきたいと思います」

警察官は自分たちが乗っていたパトカーを示した。

僕達にしてみれば人里離れた場所にあるゴルフ場建設現場に置き去りにされても困るので同意せざるを得ない。

「正晴さんは命に別状はないのですか」

山葉さんが尋ねると、警察官は落ち着いた口調で答えた。

「背中を打っているので内臓にダメージがあるかもしれませんが、今のところ容体は落ち着いているようです」

正晴さんが乗用車ごと転落した崖はかなりの高さがあり、彼が命を取り留めたのは奇跡と思えた。

警察署に着くと僕たちは更に詳しく話を聞かれた。それも一人づつ別室で話を聞く念の入れようだ。

「もう一度聞きますが、あなた達は昨日に高知に到着して、別役孟雄さんの要請で楠木家の祈祷に来られたのですね」

「はいその通りです」

僕が答えると、事情を聴いていた警察官は大きなため息をついた。

「本当にそうなのですか。実はあなた達には正晴さん殺人未遂の嫌疑がかかっているのですよ」

僕は警察官の言葉にショックを受けた。

殺人未遂と言えば重罪だ。成り行きで祈祷を引き受けた山葉さんや僕が何故殺人未遂を疑われるのか理解に苦しむ話だ。

「僕達は、たまたまこちらに立ち寄った時に彼女の実家の祈祷を手伝っただけなのですよ。なぜそんな疑いを受けなければならないのですか」

僕が抗議すると、警察官はやんわりとした雰囲気で説明を始めた。おそらく僕が抗議することを見越した上でて嫌疑を告げたのだろう。

「先日亡くなった楠木家の当主の正道さんと長男の正嗣さんの死因についても私どもは疑問を持っています。その矢先に次男の正晴さんも同じような事故で瀕死の重傷を負ったとなれば看過することはできません」

警察官は冷ややかな目で僕を見つめる。

「僕達は昨夜遅くに高知に着いたばかりですよ。正道さん殺害には関りがないことははっきりしているでしょう」

「私達は主犯が背後にいて孟雄さんが実行犯だったと疑っているのです。あなた方は正晴さんの殺人未遂事件の従犯と言ったところですかね」

僕はむっとして、警察官に言い返した。

「孟雄さんに楠木家の誰かが殺人を依頼したと言うのですか」

「その通り、実は私達も楠木正道さん、正嗣さんの事故に関しては、単なる交通事故と思っていたのですが、楠木家の遺産分割の話を聞いて疑念が生じたのです。ご存知かもしれませんが正道氏には内縁の妻が存在したのですが、戸籍上は正道氏は内縁の妻の由美さんと入籍済みでした。しかし、楠家の遺産分割協議について小耳にはさんだ話によると、正道氏は法定とは違う割合で内縁の妻と子供たちに遺産を相続させようとして遺書を残していたようなのです」

僕は自分が犯人扱いされているのも忘れて警察官に尋ねた。

「法定と違うとはどういうことですか」

僕を尋問していた警察官は僕の表情の変化を観察していた様子だが、素直に僕の質問に答える。

「ご存じの通り、法定の遺産相続では妻が被相続人の遺産の半分を相続します。ところが、正道氏は子供たちの生活に支障が生じるかもしれないとして、妻の由美さんと子供を一律に扱って平等に遺産が相続できるようにと記した遺書を残していたのです」

話の流れからすると、遺言状が執行されたら不利益をこうむるのは内縁の妻の由美さんだ。警察官は僕の表情の変化を見ながら話を続ける。

「お察しの通り、遺言状の執行で不利益を受ける由美さんが疑われています。彼女にしてみれば遺言状が執行されたら自分が受け取る遺産額が大幅に減るわけですからね。孟雄さんとあなた方は由美さんに依頼を受けて殺人に及んだ実行犯とその共謀者と目されているわけです」

僕は改めてムッとしながら、警察官に告げる。

「疑うのは勝手ですが、何の証拠もなしに僕たちを拘留することはできないでしょう。もう警察にお話するようなことはありませんから僕たちを返してください」

警察官は微笑を浮かべながら僕に答える。

「おっしゃる通りですね。今回は単なる任意の事情聴取ですからそろそろお開きにします。ご要望の場所まで送って差し上げますよ」

警察官は余裕のある表情で僕を取調室から外に案内した。

警察署の雑然とした事務室で僕は山葉さんと孟雄さんと合流した。案内役となった婦人警官は僕たちを警察署の一階のロビーへと案内する。婦人警官は僕たちに孟雄さんの車を置いてある楠木家までパトカーで送っていくからしばらく待つように告げて姿を消した。

僕達が手持ち無沙汰に待っていると、上の階から別の婦人警官に案内された女性が現れ、僕体がいるロビーで放免された。

その女性は三十前後に見え、シャツとスカートの上にブレザーを羽織り、手入れの行き届いた黒髪のロングヘアで端正な顔立ちをしていた。

その女性は、巫女と神社の神職風の僕たちのいでたちに目を止めると、つかつかと歩み寄ってきた。

「あなた方は正道さんに頼まれて祈祷に来てくださった方々なのですか」

僕は状況から判断して彼女が由美さんだと悟ったが、そこは警察署のロビーだった。防犯カメラの類が録画しているかもしれないと思われる状況で、僕は彼女にどう接しようかと考えを巡らせた。

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