第217話 牡蠣のスープカレー
「僕の知り合いの息子さんがな、三十台の半ばを過ぎようとしているのにいまだに独身なんや」
阿部先生がおもむろに切り出したのが、知り合いの息子さんの婚期が遅れている話のようだったので僕は少し気が抜ける思いだった。
最近の阿部先生が持ち込む話は、殺人事件がらみだったり、交通事故がらみで祈祷を依頼した依頼者が連続して変死したりと物騒な話が多かったので身構えていたのだ。
当の阿部先生は、僕の反応などに注意を払うこともなく、美味しそうにコーヒーを口に運ぶと話を続けた。
「話をよく聞くと、その息子さんは社会人になったばかりの頃に付き合っていた女性がいたが、不慮の事故で亡くなったらしい。その女性への思いを引きずっているだけなら別にあなた方に依頼せえへんでもええんやけど。」
僕は思わず手を止めて、阿部先生の顔を見つめた。
「息子さんがよくドライブに出かける車の助手席に、女性の姿を見たと言う人がいるんや。しかし、彼は最近人付き合いをあまりしなくなっていて、両親と一緒に住む自宅から一人でドライブに出かけることがほとんどらしい」
僕は口をはさむことにした。
「ドライブに出かける時は一人だけど、どこかで新しい彼女を乗せて楽しくドライブしているのではありませんか」
阿部先生はゆっくりと首を振った。
「それがな、目撃した人が息子さんをよく知っていて亡くなった女性とも面識があったらしい。その人が言うには助手席に乗っていたのは亡くなった女性に見えたと言うんや。それにご両親も誰かつきおうてる人がいるのかというのは真っ先に聞いたらしいんやが、そんな事実はないと本人が答えたんやて。」
阿部先生は砕けた口調になると関西弁が強くなる。僕は大学の学部生の時の同級生が関西弁をよく使っていたので少し懐かしく感じる。
「その息子さんが、亡くなった女性に取りつかれていると思われるのですか」
「そこまで断言はせえへんけど、一度様子を見てくれへんやろか。知り合いも孫の顔を見たいと嘆いているからね」
「ふむ、亡くなった女性に魅入られて独身のままというのは由々しき問題ですね。その女性の霊が関与しているならば私たちに浄霊しろという依頼ですか」
いつのまにか、山葉さんがカウンターに来て話を聞いていたようだ。
その横で祥さんも興味深そうな表情で立っている。
夕方の忙しい時間のピークを過ぎたので少し手が空いた様子だ。
「ありていに言うとそういうことやね。私の知り合いはあなた方のうわさを聞いているので報酬は弾むと言うてますよ。」
祥さんが山葉さんの顔を覗き込む。
山葉さんは目を閉じてしばらく考えていたが、大きな目を開けると阿部先生をまっすぐに見つめて言った。
「その依頼お引き受けします」
「よっしゃ、後で知人に連絡を入れておきます。連絡先だけお知らせしておきましょうか。」
僕が阿部先生にメモ用紙を渡すと、彼は依頼人の住所と電話番号を書き留めていく。
メモを書いている途中で、祥さんに気付いた阿部先生は少し気まずい雰囲気で彼女に声をかけた。
「頑張ってはるみたいやね」
祥さんは苦笑しながら阿部先生に答える。
「あまり気を使わないでください。姉の死をきっかけに私も事故のことは吹っ切ることにしましたから。」
祥さんは交通事故で意識不明のまま昏睡していた姉の入院費用を気にして進学を断念した経緯もあったのだ。
交通事故の相手方の弁護をしていた阿部先生は未だに気になる部分があるようだ。
「因果は巡ると言うが、誠意のないことをすると自分の身に戻ってくるものやね」
「私は姉の遺志に従って東京に出てきて新しい生活を始めたのだから、その話はもういいんですよ」
祥さんは上京してから、長野で会った時のとがった雰囲気が消えて年齢相応の楽しそうな表情が増えている。
阿部先生は祥さんに頭を下げると、カウンターの席を立った。
「今回の依頼者には私から山葉さんが引き受けたことを伝えます。最初にお会いになるときは私も同席しましょうか」
阿部先生は、自分が関わった話には責任をもってかかわるタイプだ。
しかし、山葉さんは微笑を浮かべて答えた。
「先生もお忙しいでしょう。連絡さえして頂けたら、あとはこちらで日程を調整します」
「さよか、それではよろしく頼みます」
阿部先生は僕にコーヒーの代金を渡すと祥さんにも軽く会釈して帰って行った。
僕は祥さんと目が合ったので、話題を変えることにした。
「ところで、祥さんがゴミと間違えた和紙はどうなったの」
「ああ、和紙はガレージに置いてあったので山葉さんが無事に回収しましたよ」
祥さんは面白そうな表情を浮かべる。
「和紙を運んでいる時、山の中にある家や畑の風景が頭に浮かんでいたんですけど、山葉さんのおばあちゃんが生前に見た風景だったかもしれませんね」
祥さんは神職を受け継いできた家の末裔で霊感が強い。僕はかって自分もそんな風景が頭に浮かんだことを思い出した。
「僕もその光景が頭に浮かんだことがある。彼女の実家は山の上に開けた里で、そこで暮らしていたお祖母ちゃんの思念を読み取ったのかもしれないね」
ちょっとした秘密を共有すると、それは微妙な連帯感につながる。
僕と祥さんが「いざなぎ流の里」の話で盛り上がっていると、山葉さんが客席から回収してきた食器が山盛りになったトレイをドン!と僕の目の前に置いた。
「最後のお客さんの分だ。それを片付けたら一緒に賄いを食べよう」
山葉さんは賄いの準備をするつもりらしく、スタスタと厨房があるお店のバックヤードに入って行く。
「なんか、怒っていませんでした?」
祥さんが山葉さんの後姿を見送りながら言う。
食器を置いて行った時の山葉さんは穏やかな顔で微笑すら浮かべていたのだが、僕の記憶の中では彼女が「激オコ」の表情でドスンと食器を置き、背景で紅蓮の炎が舞っていたような気がする。
僕は内心ではドキドキしながら、祥さんに笑顔を向けて言った。
「気のせいだよ」
閉店後の片付けが終わり厨房に入ると、従業員用のテーブル周辺にはスパイシーな香りが漂っていた。
「カレーだ、カレーだ」
祥さんが子供っぽく声を上げ。
田島さんと山葉さんは目配せをしながら僕たちの様子を窺っている。
田島シェフはライスと別容器に入ったカレーにブロッコリーとニンジンにトマトを加えたサラダを添えて皆に出した。
「牡蠣のスープカレーです。ルーを少しづつライスにかけて召し上がってください。」
田島シェフに勧められるままに僕たちはカレーを食べ始めた。
「この間、福島の浜街道を走った時に、牡蠣の生産販売をしている会社に行ったのだが、これからの時期は格安で冷凍牡蠣を卸してくれると言うので少し入れてみることにしたのだ」
山葉さんはドヤ顔で説明する。彼女が得意げな顔をするだけあって、そのカレーは美味しかった。牡蠣の旨味がスパイシーなルーと絶妙にあっている。
「カレーのスパイシーさと大粒の牡蠣の味が最高です」
祥さんが感想を漏らし、僕はカレーを美味しくいただきながらのルーの上に載っている緑色の野菜が気になっていた。
ルーの上にはこまかく刻んだ緑色の野菜が乗っていたのだ。
「この野菜は?」
僕が尋ねると、田島シェフが落ち着いた口調で答える。
「コリアンダーと言いたいところですが、和野菜のセリです。」
「コリアンダー、別名パクチーを使おうと思ったが癖が強くて嫌いな人も多い。そこで、日本人にはなじみがあるセリを刻んで載せてみたのだ」
和テイストのセリは牡蠣の出汁にマッチし、それらをかき消してしまいそうなカレーの風味はうまく調和している。
「夏場に向けての新メニューにどうだろう」
山葉さんが尋ねるとスタッフの全員が賛成した。東北地方に旅をしたことが新しいメニューにつながったようだ。
スタッフ全員で新メニューのカレーを食べている時、山葉さんは先ほどの阿部先生の依頼話を持ち出した。
「阿部先生から浄霊の必要がありそうな案件の依頼を受けた。私とウッチー、それに祥さんを加えて調べに行こうと思うのだがどうだろう。」
祥さんは興味がありそうな顔をしたが、山葉さんの顔を上目使いに見てその表情を確認すると即座に答えた。
「私は店番でもしています。浄霊みたいな怖い話はお二人で対応してください」
再びカレーを美味しそうに食べ始める彼女を見て、僕は彼女が霊感だけでなく世事にも鋭いことを悟った。
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