第218話 フォルクスワーゲンビートルⅠ
次の週末に、僕は山葉さんと2人で阿部先生に紹介された依頼者の家を訪ねた。
依頼者の自宅は東横線沿線にある分譲マンションだった。神奈川県に含まれるが、電車に乗れば都心まで30分もかからない便利なエリアだ。
小高い丘の上にある分譲マンションを訪ねると、依頼をしてきた初老に差し掛かった夫婦が僕たちを迎えた。
「わざわざお出でいただきありがとうございます。私は小野孝雄と申しまして、こちらは家内の澄江です。息子の孝志のことで相談に乗っていただけると二人で喜んでいたのです。あなたがお祓いをしてくださる霊能者の先生ですか」
孝雄さんは山葉さんをしげしげと見ながら尋ねる。おそらく彼が思っていたよりも若く、しかも女性の霊能者が現れたので驚いているのだろう。
「私はいざなぎ流という流派の太夫を務めておりまして、名前は別役山葉です。こちらは助手の内村です。私はお祓い的な事を引き受けていますが、まずは息子さんの状況から話していただけませんか」
孝雄さんが奥さんの澄江さんの顔を見ると、彼女はゆっくりと話し始めた。
「息子の孝志は公立中学校の教師をしています。大学を卒業して勤務を始めた頃に、同僚の女性と付き合っていたのですが、その方が交通事故で亡くなって以来、息子は女性に興味を示さなくなってしまったのです」
澄江さんの言葉を素直に受け取ると孝志さんが女性以外の嗜好に走ったようにも聞こえるが無論そんな話ではない。
澄江さんはため息交じりに話を続ける。
「息子の孝志はもともと、積極的に人と交わっていくタイプではありませんでした、容子さんが亡くなって以降は新たな人間関係を作ることをしなくなったように思えて仕方がないのです」
澄江さんの言葉が終わらないうちに孝雄さんが割り込むように話し始めた。
「孝志のために言っておきますが、あいつは教師としての仕事に熱心に取り組んでいて、職場でも評価されているのですが、私にはそれが、魂の無い人形が仕事をこなしているような感じがして仕方ないのです」
話の主題が微妙にお祓いと違う方向に行きつつあるので、僕はどうしたものかと山葉さんの顔色を窺ったが、彼女は小野さん夫妻から話を引き出すことを優先しているようで完全に聞き役に回っている。
澄江さんは依頼の趣旨を思い出したのか、話を軌道修正した。
「孝志の仕事の話は別にして、あの子が結婚しないだけならいいのですが、休日に一人でドライブに出かけるようになったのが気がかりなのです」
山葉さんが、おもむろに口をはさむ。
「ほう、独身でドライブが趣味という方は多いと思うのですが、どうして気がかりなのですか」
澄江さんは僕たちが囲んでいる座卓に目を落とした。座卓の上では麦茶が入ったグラスが四つ並び、グラスの表面には結露した水滴が次第に大きくなりつつあった。
「容子さんが生きていたころ、貴史は彼女と一緒によくドライブに出かけていたのです。帰ってきたら、横浜に行って中華食べて来たとか江ノ島を見て来たとか、他愛のない話なのですが嬉しそうに私たちに報告してくれました」
話が核心に近付いてきたので、僕は耳をそばだてるようにして話を聞く。
「ところが、彼女が交通事故で亡くなり、貴史が乗っていた古いワーゲンも埃をかぶっていたのですが、しばらくして貴史は一人でドライブに出かけるようになりました」
澄江さんの話の途中で、孝雄さんが口を開く。
「私たちも、容子さんを偲んで思い出に浸っているのかもしれないと、そっと見守ることにしていたのですが、貴史は帰ってくると以前出かけていた時のように楽しそうにドライブに行った先のことを話してくれるのです」
山葉さんは僕と視線を合わせてうなずいて見せたが、依然聞き役に回ったままだ。
「そのうちに、私たちの親しい知人が訪ねてきて、そっと耳打ちするように教えてくれたのです。貴史がドライブに出かけているところをその知人が見かけたと言うのですが、助手席に女性の姿を見かけたと言うのです。知人の話を聞くとその女性の風貌が亡くなった容子さんにそっくりなのです」
山葉さんはおもむろに口を開いて澄江さんに尋ねた。
「つまり、孝志さんは未だに容子さんの霊に魅入られていて、休日になると彼女とドライブに出かけている。そのために孝志さんは彼の人生の新たな一歩を踏み出せないでいるとお考えなのですね」
孝雄さんと澄江さんはそれぞれにうなずいた。両親にしてみれば亡くなった恋人への思いを募らせて独身のままでいる息子が不憫なのに違いない。
そして、それが亡くなった恋人の霊に取り憑かれているためだとしたら、霊能者を呼んでお祓いしようという流れになるのも理解できる話だ
「あなた方は容子さんが事故で無くなった後で彼女の姿を見かけた経験はありませんか?」
山葉さんの質問に澄江さんがゆっくりと首を振りながら言った。
「いいえ見たことはないです。容子さんは明るくてとてもいい子だったのですけど、交通事故であんなことになるなんて」
澄江さんは目を伏せた。
「孝志さん自身は容子さんの姿を見たとか、あなた方に漏らしたことはありませんか」
山葉さんが重ねて尋ねた。そろそろ詳細な情報を集めて対策を考え始めたようだ。
「孝志はもともと寡黙な子なので、仮にそんなものを見たとしても私たちには話さないと思います。ただ、ドライブに行った後で楽しそうに報告する様子が、容子さんが生きていたころに似ているので心配しているのです」
山葉さんは、大きく息をつくと自分に出された麦茶のグラスを手に取り、一気に飲み干した。
そして孝雄さんと澄江さんを交互に見ながら提案した。
「孝志さんは今回の依頼の件はご存じなのですか。できたら直接お会いして話を聞きたいのですが」
澄江さんは困ったようにマンションのベランダとその向こうに見える空を見た。
「依頼の件は貴史には話していません。今日もドライブに出かけていますが、お昼には戻ってくると言っていました」
山葉さんは孝雄さんをまっすぐに見つめると言った。
「孝志さんに直接お会いして、容子さんの霊が取り憑いていることがわかったら、孝志さん本人にそのことを話していいですか。このケースでは浄霊をつつがなく執り行うには孝志さん本人の協力も不可欠です」
澄江さんは焦点が定まらないような目をして考えこんでいたが、やがて僕たちに言った。
「孝志に会って話をしてくださるのはいいのですが、あの子が容子さんの霊を浄霊することに応じるかどうか自信がありません」
山葉さんは柔らかな微笑を浮かべて、澄江さんを励ますように言った。
「この場合、孝志さんを説得するのも私の仕事です。何はともあれご本人に会って事情を聴くのが最初の一歩ですね」
山葉さんがそこまで言ったところで、玄関ドアが開く音がした。
「外出していた孝志が戻って来たようです」
澄江さんの言葉が終わらないうちに、僕たちが話をしていた部屋の引き戸が開けられた。
ドアを開けたのは、中年の男性で、予想外の来客に気付いて、そのまま後ろを向いて立ち去ろうとしているように見える。
「孝志、お前のために来ていただいた陰陽師の先生だ。今日の午後に予定がないなら先生に話を聞いていただきなさい」
孝雄さんが孝志さんに告げるが、孝志さんにはお父さんの孝雄さんの話の意図が微妙に理解できない様子だった。
「陰陽師には個人的に興味があるけど、僕は陰陽師の力を使って自分の利益のために何かをしようとは思わないよ」
孝志さんはちょっと刺があるが、当り障りのない言い方で断ろうとしている。
「違うのよ。あなたの婚期が遅れているから、何か方法がないかと思ってお願いしたの。くれぐれも失礼なことを言わないように頼むわよ」
澄江さんの言葉を聞いて、初めて孝志さんが僕と山葉さんの顔を凝視した。
「孝志です。おそらく、あなた方に依頼するような話のネタはないと思うのですが、僕の両親のために話を聞いてやってください」
孝雄さんたちから聞いた話から、孝志さんに引きこもり系の雰囲気を予想していたが実際は、中学校の先生をしているだけにさばけた話し方だ。
僕は彼の両親のためにも、取り憑いた霊の浄霊を行わなくてはと思うが、肝心の孝志さんはお祓いを受ける必然性を感じていないようだ。
「ドライブが好きとお聞きしたのですが、乗られている車種は何ですか。私はWRX-STIに乗っているのですよ」
山葉さんの言葉を聞いて、孝志さんは意外そうに彼女の顔を見る。
「そうですか、マニュアルミッションのハイスペック車に乗られている女性に初めてお会いしました。僕は走り屋ではないのでフォルクスワーゲンの初代型のビートルに乗っているのですよ」
僕は、澄江さんが「ワーゲン」という言葉を使ったのを思い出した。フォルクスワーゲン社の事なのは言うまでもないが、昭和世代の人にとっては初代型のビートルがイコール「ワーゲン」というイメージだと聞いたことがある。
「ほう、初代型のビートルⅠをドライブに使える状態で維持しているのはすごいですね。一度乗ってみたいと思っていたのですよ」
山葉さんは話の取っ掛かりができたものだからすっかり自動車好きの口調で話す。
「乗っていただいても大丈夫ですよ。その辺を走りながらお話を聞くことにしましょうか」
孝志さんはビートルの話を契機にすっかり出かける気になったようだ。
結局、僕たちは孝志さんが所有するビートルⅠの後部座席に収まり、彼の運転でドライブしながらお祓いの話をすることになった。
孝志さんが分譲マンションの駐車場から外部の道路へと運転を始めた時、僕は異変に気が付いた。
運転席に孝志さん、そして後部座席に山葉さんと僕が乗ってドライブに出かけるはずだったのに、助手席にも人影が見えるのだ。
ビートルⅠの助手席に座る髪の長い女性のシルエットはゆっくりと後ろを振り返ろうとしていた。
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