雨のドライブ
第216話 阿部弁護士の案件
6月のある日、僕は下北沢駅から傘をさしてゆっくりと歩いていた。
大学院の生活にも慣れたが、講義だけではなくゼミで課題として出されたレポートの提出が多いので時間に追われている感が強い。
そうかといって、アルバイトも入れないと授業料を自分で稼ぐという遠大な目標には遠く及ばないことになってしまう。
最近の状況を見ると、アルバイト先のカフェ青葉で僕が戦力として必要とされているか疑問ですらあるが、シフト表に従ってアルバイトに出かるしかない。
そんなことを考えているうちに、僕はカフェ青葉の裏口に着いていた。
僕は大きく深呼吸して気合を入れると、ロッカールームで着替えて厨房を覗く。
「ウッチーさんお疲れ様です。祥さんと山葉さんが店内の対応をしていますから応援をお願いします」
「わかりました」
最近、専属スタッフとしてシェフの田島さんと、ウエイトレスの祥さんの2名が加わったことでアルバイト先での僕の存在感は希薄になっている気がしていた。
店内に入ると、山葉さんと祥さんが接客にあたっている。
夕方のお客さんの入りのピークを過ぎて2人は空いたテーブルを片付けているが、新たな来客もあるのでうまく回っていない感が強い。
僕はカウンターの中にたまった食器を片付け始めた。
2台ある業務用の食洗器のうち一台にその辺にある食器をざっと汚れを落として突っ込んでいく。
食洗器は食器の形状によってセットする場所があるので適切な数をセットしていくには慣れも必要だ。
僕はとりあえず、一台目の食洗器を満載状態にし、扉を閉めてスイッチを入れた。
その横で、山葉さんが配膳用のカートに4、5人分の皿やボウルに入った料理を乗せて店内に運んでいくのが見えた。
ラストオーダーにはまだ時間があるが、本日の最終便になりそうだ。
入れ替わりに、両手に食器を満載したトレイを乗せて祥さんがカウンターに戻ってくる。
「ウッチーさんお疲れ様です。この食器を私が洗いますからオーダーの飲み物を作ってもらえますか」
「それを洗っておくから、祥さんがオーダーの対応をして」
どんな仕事でも分業で対応すれば能率が良い場合がある。僕は自分で本日の洗い物をやっつけることを決心して、妙に気を遣う祥さんから汚れた食器を取り上げた。
僕が黙々と食器を食洗器にセットしていく横で、祥さんはドリップのコーヒーを蒸らしながら、ラテマシーンでカフェラテを入れ始めた。器用なことをする子だ。
「結構慣れて来たみたいだね」
僕が声をかけると彼女ははにかんだ表情を浮かべる。
「ありがとうございます。でも、今日は山葉さんにものすごい勢いで怒られたんですよ」
僕は少し意外だった。彼女は仕事のことでガミガミ言うタイプではないので、仕事に関して祥さんを叱ることがあると思えなかったからだ。
「何をしてそんなに怒られたの?」
祥さんはラテマシーンで作り終えたカフェラテの入ったカップを置くと、ドリップのコーヒーの抽出のためにお湯を注ぎながら言った。
「実は、天気が悪い日に私の洗濯物を干すために、空いている部屋を使わせてもらっているんです。山葉さんが言うにはウッチーさんの目に毒だからそこに干しているのも秘密にするように言われているんですよ」
既に秘密のはずの情報を僕に漏らしつつ、彼女はクスクス笑う。
「それで、使う以上その部屋の掃除もしようと思って、不用品だと思って一階のガレージに放り出したものが、山葉さんの大事なものだったのです」
「それって、部屋の隅の方に積んである和紙のこと?」
「そうなんです。そうしたら、無くなっていることに気が付いた山葉さんが『あれをどこにやったんだ』ってものすごい勢いで私に詰め寄って来たんです。怖くて涙が出ました」
僕はやっと彼女が怒った理由に納得した。その和紙は亡くなった彼女の祖母が漉いた和紙で、形見の品と言ってもいいものなのだ。
式神を作る時に無駄をにしないように慎重に使っているが、残りが少ないと常々嘆いていたのだ。
「知らなかったから仕方がないね。あれは彼女のおばあさんが漉いたもので大事にしていたんだよ」
「そうみたいですね。でもその和紙のことで私に詰め寄って来た時の山葉さんが何だか私と同年代くらいの女の子に見えたのでそれにもびっくりしてしまって」
どうやら祥さんは、怒られたことよりもそのことを誰かに話したくて仕方がなかったようだ。
「今よりも、もう少しふっくらした輪郭で血色がいい感じに見えた?」
「そうですよ。すごくかわいらしいんです。でも和紙の行方のことを答えなければ私が日本刀で切られそうなくらい怒っていました」
祥さんはそこでふと気が付いたように僕の方を見た。
「ウッチーさんもJK化した山葉さんを目撃したことがあるのですか」
「僕が見たのは夢の中での話なんだ。僕は霊が絡んだ出来事に深入りすると、覚醒夢を見ている状態でその霊の記憶の世界に引き込まれてしまうことがある、その時に山葉さんが近くで寝ていると彼女も巻き込まれて夢の中に登場するが、その時の彼女は姿も記憶も彼女の高校生のころに戻ってしまっているんだ」
彼女は、ハッと気が付いたような表情をした。
「亜紀が死んだとき、私は亜紀や黒龍様に会ったけれど、その時あなた達も近くにいた。あの時の山葉さんは確かに高校生のような雰囲気だったけど、ウッチーさんもその場にいたのを覚えていると言うの?」
僕はゆっくりとうなずいた。
「うそみたい。私は、あの情景は亜紀の死に混乱した私の幻覚だと思っていたのに」
祥さんと僕は、客席で接客している山葉さんを見た。黒のパンツと白いシャツ、それにカフェエプロンを着けた彼女は、穏やかな笑顔を浮かべて接客している。
「あの姿をした時の彼女は今よりも一層力が強い気がする。僕は高校生の頃の彼女がどんな経験を経たら今の彼女に変貌するか理解しがたい部分もあるんだ」
「そうですね。何だか別人みたいな気がしました」
祥さんは考え込んでいたが、やがて気を取り直してコーヒーを淹れると、オーダーを受けたお客さんに運んでいった。
僕も食器の洗浄を再開していると、新たなお客さんがカウンターから僕に声をかけた。
「繁盛して結構ですな。忙しい折に申し訳ありませんが私の依頼を聞いてもらえませんかね」
僕が顔を上げると、カウンターに腰を下ろしていたのは弁護士の阿部先生だった。
「阿部先生、ご無沙汰しています」
僕は思わず手を止めた。今しがた話していた祥さんも阿部先生の依頼で長野に出かけた時に出会ったのだ。
「小沼祥さんもこちらに馴染んで働いているみたいですね」
「ええ、よく働いてくれるので助かっています」
最近は何処の業界でも人手不足なので、祥さんが専属スタッフとしてカフェ青葉で働いてくれるのは幸運としか言いようがない。
阿部先生は、彼女の両親と姉を死に追いやった交通事故の加害者を弁護していたのだが、今では彼女を支援する立場になっていた。
「何か飲み物を作りましょうか」
阿部先生のオーダーを取っていないことに気が付いた僕は、水とおしぼりを出しながら尋ねる。
「ブレンドのホットコーヒーをお願いします。経営が変わってもブレンドは変わっていないのかな」
「ええ、豆の仕入れもブレンドの比率も以前のままでやっていますよ」
常連のお客さんの中には、以前からの味に愛着を持っている人も多いので、山葉さんはレシピを変えずに提供しているメニューも多い。
「そうですか、私のような年寄には何もかも変わるより、そうやって継承してもらうのもありがたいな」
阿部先生は独り言のようにつぶやくと、僕が運んだコーヒーを口に運ぶ。
「うん、この味は変わってへんみたいやね。ところで今回頼みたい話やけど」
阿部先生は、コーヒーカップを片手に山葉さんと僕への依頼の話を始めた。
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