イクメンな警部

第196話 イクメンパパを取り戻せ

祥さんはカフェ青葉のカウンターで、真剣な表情でドリップ式コーヒーサーバーにセットしたコーヒーの粉にお湯を注いでいた。

膨らんだコーヒーの粉にたっぷりのお湯を注ぐと、コーヒーの粉とお湯の混合物の表面には白い泡が浮かぶ。

この泡には、脂肪分が多く雑味の元になるため、泡の部分を混ぜないようにドリップを進めていくのが基本だ。

最近カフェ青葉では注文を受けた都度ペーパードリップでコーヒーを淹れることになっているので、正規スタッフの祥さんは、安定した味のコーヒーを淹れる技術を身に着ける必要がある。

オーナーの山葉さんが基本をレクチャーした後で、彼女自身が納得いくまで練習し、今日は彼女が入れたコーヒーが、使えるレベルに達しているか確認することになったのだ。

彼女は細い注ぎ口が付いた電気ケトルを使ってドリップし終えると、コーヒーを加熱して適温にし、カップに注いでから僕と山葉さん、そして田島シェフの前に置いた。

山葉さんはコーヒーを一口飲んでから目を閉じて神経を集中して味わっている。

祥さんが固い表情で見守る前で、山葉さんは二口目で含み香を試した。

僕は自分も味を確認して採点表を着けなければいけない事を思い出して、おもむろにカップを手に取った。

僕はお店で使っているシンプルなデザインのカップを口に運び一口含んでみた。

カフェ青葉のブレンドは、先代の細川オーナが使っていたコーヒー豆のブレンド比率をそのまま使い、焙煎方法も変えていない。

細川オーナーが作った味は、最近の苦みが先行するトレンドのコーヒーと違い、苦みの中に甘い香りと微かな酸味を感じるテイストだ。

しかし、その味を再現するには繊細な抽出技術が求められる。

雑味を出さないように繊細さと同時に思い切りのよいお湯の注ぎ方が必要なのだ。

祥さんの入れたコーヒーは、いつも飲んでいるブレンドと変わらない味だった。

その味はコーヒーカップのコーヒーが残り少なくなり、少し冷めてくると酸味を強く感じさせ、名残を惜しませる。

「ど、どうですか」

祥さんは緊張に耐えかねたように僕たちに尋ねた。

「美味しい。このお店の味として十分使えると思うよ」

山葉さんがおもむろに評価を伝えると、祥さんの表情が明るくなるのがわかった。

「普段のブレンドの味が再現されていると思います」

「そうですね、初めて淹れてくれた時の雑味の多い味とは全然違いますね」

僕と田島シェフがそれぞれに評価を伝えると、祥さんはほっと息をついた。

「あれはひどいですよ。全然教えてくれないで好きなようにやってみろって言われて、あれこれ考えながら淹れたら、雑味が多いとかみんなに酷評されたんですから」

それは、山葉さんがコーヒーの淹れ方を教える時の癖だった。僕も初めて教わった時に彼女が入れたコーヒーと自分が入れたコーヒーを飲み比べて、その違いに打ちのめされたのだ。

山葉さんはクスクスと笑ってから、祥さんに穏やかに告げた

「これからは、ドリップのコーヒーは遠慮なく淹れてもらうことにしよう。よろしく頼むよ」

「はい」

祥さんは元気よく返事をする。

彼女は一度挫折してから、それを乗り越えた時に初めて得られる自信にあふれていた。

祥さんのトライアルは午後も半ばの比較的客足が少ない時間に行われたが、僕は皆がコーヒーに気を取られている間にベビーカーを携えた女性が店に入ってきていたことに気が付いた。

時間的には何分も待たせたわけではないが、来店したお客さんに挨拶してオーダーを取りに行くのが遅れたと思い僕は少し慌てた。

その女性はマスクをした上に、大きめのサングラスをかけていて容貌はよくわからない。そしてベビーカーの中にはまだ小さな赤ちゃんがすやすやと眠っている。

「すいません、スタッフのトライアルをしていたのでオーダーを取るのが遅くなりました」

僕は自分が気付かない間に来店していたお客さんに詫びたが、彼女は明るい声で言った。

「私にもそのコーヒー飲ませてほしいな。普段よりもすごく気を込めたコーヒーみたいですもの」

僕はその声に聞き覚えがあった。

「奈々子さん!?」

僕が名前を呼ぶと彼女はサングラスを外す。

「ご無沙汰してます。この子を連れて遠出するのは初めてだからドキドキしちゃった」

奈々子さんは下北沢の劇団に所属していたころに僕たちと知り合った。その後、彼女は大きな劇団で才能を認められ、最近はテレビドラマにも出演する有名人となっている。

彼女が小さな赤ちゃんを連れて出かけてくるのはいろいろな意味でドキドキしたに違いない。

「奈々子さんご無沙汰しています。お子さん見せてもらっていいですか」

山葉さんは彼女に挨拶しながら、足早にベビーカーに近寄っていく。

奈々子さんはすやすや寝ている赤ちゃんをわざわざ抱き上げて見せた。

「娘の綾香です。ほら綾香ちゃん山葉のおばちゃんでちゅよ」

「おばちゃんはやめてくださいよ」

山葉さんは表に出さないものの少なからずむっとしたらしく抗議するが、奈々子さんは相手にしない。

「あら、若ぶっているより、あなたもウッチー君と励んでお子さんを作りなさいよ。学年が違っても幼稚園とか一緒だったらママ友になれるわ」

「え、いやまだ結婚しているわけではないし」

山葉さんはどぎまぎして顔だけでなく耳たぶまで赤くなった。高校を卒業したばかりの祥さんが少しあきれた雰囲気でその様子を見ている。

「はい、うちの綾香ちゃんを抱っこさせてあげるわ」

奈々子さんはベビーカーから抱き上げた娘の綾香ちゃんを山葉さんに差し出した。

山葉さんは恐る恐る綾香ちゃんを受け取るとそっと抱き寄せる。

うたた寝をしている綾香ちゃんは山葉さんに抱き寄せられると口にくわえていたおしゃぶりがチュパチュパと動いた。

「可愛い」

山葉さんは自分が抱っこした綾香ちゃんをうっとりと眺めた。

その間に、奈々子さんは祥さんが淹れたコーヒーを受け取って一口飲んでいた。

「美味しい。やっぱりここ一番という思いで頑張るとコーヒーもおいしくなるものなのね」

祥さんは奈々子さんに褒められて、尻尾を振りそうな雰囲気で喜んでいる。

奈々子さんはそのオーラですっかりその場の雰囲気を掌握してしまったが、僕は何だか気がかりなことがあった。

「奈々子さん、ここに来たのは何か特別な用事があったのではありませんか?」

「さすがはウッチーくんね。実はあなたと山葉さんに頼みたいことがあるの」

山葉さんは綾香ちゃんを抱っこしたまま奈々子さんを振り返った。

「憲治君が難事件に苦しんでいるみたいでお家に帰ってこないのよ。彼は綾香ちゃんのおむつ替えてくれるのがうまかったりして結構役に立つから、二人で手助けしてさささっと彼の事件を解決してくれないかな」

どうやら、奈々子さんの夫の坂田警部は捜査本部が設置されるような事件を受け持っておちおち家に帰れない状態が続いているようだ。

「坂田警部がおむつ替えたりするんですね」

「うん、あれでいて結構子煩悩なイクメンなの。おむつを替えるのも上手だし、私が疲れているだろうと言って料理を作ってくれたりもするのよ」

山葉さんと奈々子さんの会話はおむつを中心に動いているが、僕は他のことが気になった。

「坂田警部が解決しあぐねているのはどんな事件なのですか」

僕の質問を聞いて、奈々子さんは自分の本来の目的を思い出したようだ。

「彼は守秘義務があると言って、私にはあまり仕事のことを話してくれないのだけど」

奈々子さんは面白くなさそうな顔をして、僕に話し始めた。

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