第187話 残された想い

美咲嬢は明菜さんが少し落ち着いたのを見計らってしばらくの間、明日香さんを施設に預けることについて了承を得た、そしてスマホで児童相談所の職員に連絡を取り、そのことを伝える。

その上で、明菜さんと向き合って面談を始めた。

「明菜さん、あなたは娘の明日香さんが可愛いでしょう。それなのに何故暴力をふるってしまうか考えたことはありますか」

美咲嬢の質問に明菜さんは困ったような表情を浮かべた。

「可愛くないわけがありません。だからこそ明日香が困らないように躾てあげなければと思うのです」

明菜さんは真剣な表情で答える。美咲嬢はクスクスと笑うと明菜さんの手の上に自分の手を重ねた。

「それではお聞きしますわ。あなたは明日香ちゃんをぎゅっと抱きしめてあげたことがあるかしら。そして柔らかくてふくよかなほっぺにスリスリしたことはおあり?」

明菜さんは唇をかんでうつむくと、ボソボソとつぶやいた。

「確かに私はそんなべたべたした可愛がり方はしたことがありません」

「それは少し違います。あなたが虐待の嵐の中で育てられたから、子供の可愛がり方を知らないというのが、真相なのです」

美咲嬢の言葉に、明菜さんは驚いたように目を見開いた。

「そんな、私だって子育ての方法とか本も読んでいるのに」

「人は本で得た知識よりも、自分の体験から得たものの方がより強く心に刻まれているのですわ。あなたの場合は施設に保護されるまでの体験がトラウマとなっています。、それ自体は記憶の表面には浮かばなくなっているかもしれないませんが、いざ自分が子育てをするときには自分が受けたことを無意識のうちに繰り返しているのかもしれません」

明菜さんはどうしたらいいのか分からないように首を左右に振るばかりだった。

「あなたには私の研究所でカウンセリングを受けていただきますが、同時に育児教室の様子を見学していただきます」

美咲嬢は言葉を切ってから、彼女を目をのぞき込むように語り掛ける。

「状況が改善されたら、明日香ちゃんをあなたの元に戻すことも可能になります。しばらくの間、私たちにお付き合い願いたいものですわ」

「本当なんですか」

明菜さん問いかけに、美咲嬢はうなずいた。そして明菜さんは全てを委ねることを決めたように、美咲嬢に深く頭を下げた。

その日、美咲嬢と黒崎氏と別れた後、僕たちはカフェ青葉に戻ると、カフェの新メンバーを待ちながら、やりきれない思いを持て余していた。

「明菜さんの件は何だか釈然としませんでしたね」

僕はため息が出るような思いでつぶやいた。親の虐待によって命まで危険にさらされていた明菜さんが自分の子供にも虐待をすることが受け入れがたかったのだ。

「私は概ね美咲嬢の言った通りだと思う。今回はカウンセリングのプロである彼女に任せた方がいいかもしれないね」

山葉さんは、物憂い表情でつぶやく。僕も山葉さんも自分たちが無力であると思い知らされてひどく気落ちしていた。

その時、カフェの出入り口に設置されたインターフォンが鳴り響いた。

「小沼さんかもしれませんよ。今日の夕方に着くと言っていましたから」

「まだ夕方には早いが様子を見てみよう」

山葉さんはインターフォンのカメラを操作して、外にいる人に確認を試みた。

「彼女のようだ。早く入れてあげないと」

僕は慌てて階下に駆け降りると、セキュリティーサービスを外しカフェの内側から出入り口のロックを外した。

「こんにちは内村さん。いくら呼んでも返事がないので、お店を閉めてしまったのかと思いましたよ」

「ごめん、2階でオーナーと話し込んでいたから気付くのが遅くなったんだよ」

小沼さんは、店の中に入ると、周囲をぐるり見渡したが僕の足もと辺りで目を止めた。

「ん?」

彼女は僕の足の後ろあたりに視線を投げている。僕は嫌な予感にとらわれながら彼女に尋ねた。

「僕の足もとに小さな女の子が見えるとか言わないでくれよ」

「ピンポン、その通りです。何か思い当たることでもあるのですか」

僕は自分のスマホを取り出すと、ツーコさんが持ち込んでいた油絵の画像を呼び出して、無言で小沼さんの前に差し出した。

「そうそう、こんな感じの女の子で、この絵にすごく似ていますよ。どうしてこんな絵の写真があるのですか」

僕は絵が持ち込まれたきっかけから、僕たちが夢の中で絵を通じて過去に跳んだことを話した。

夢で見たような取り留めのない話なのだが、小沼さんはきちんと理解してくれたようだった。

「おかしいですね。内村さんの話が正しいとすれば、その子は成長して大人になったはずです。子供の姿でうろうろしているのは何か理由があるのではありませんか」

「そうだな。彼女の人格の一部が抜け落ちて我々と共に時間を超えていたとすると、現在の明菜さんの精神状態が不安定な一因となったのかもしれない」

いつの間にか、階下に降りてきた山葉さんが話に割り込んだ。

「ウッチー、美咲嬢に連絡を取ってくれ。子供のころの明菜さんの意識のかけらを元に戻してあげなければならない。いざなぎ流の祈祷でどうにかできるはずだ」

「でも、どうしてそれは僕たちには見えないのでしょうか」

「内村さんそれは、あなたの真後ろにくっついているからですよ。」

小沼さんがクスクスと笑った。

僕が連絡を取ると、美咲嬢は僕たちが彼女の研究所を訪れることと、僕に張り付いている明菜さんの子供時代の意識のかけらを元に戻すことを了承した。

山葉さんはそもそもカフェの定休日なので時間はある。

僕たちは美咲嬢の住居兼職場となっている七瀬カウンセリングセンターに向かった。

七瀬カウンセリングセンターでは美咲嬢の好意で一室を自由に使えることになり、僕たちは祈祷の準備を行った。

美咲嬢たちがミーティングに使っている瀟洒な洋室に僕たちは和テイストの祭具を持ち込み祈祷の準備をする。

「あの、一体何を始めるのですか」

美咲嬢に連れてこられた明菜さんは僕たちの様子を見て怪訝な表情で尋ねる。

「あなたのために行う、お祓いの儀式です。子供に手を上げてしまう元凶となる悪しきものを取り祓うという暗示効果で今後のカウンセリングにプラスに働きます」

「そうですか」

明菜さんはおとなしく、祈祷を受けることにしたようだ。

部屋の中央にはいざなぎ流の「みてぐら」が設置され、その隣に座った明菜さんの周りを巫女姿の山葉さんが祭文を詠唱しながら華麗に舞う。

彼女は詠唱を終えると、気を込めて祈り何かを捧げ持って明菜さんに振りかける仕草をした。

「どう、その女の子まだ見えてる」

僕は小声で小沼さんに尋ねる

「いえ、山葉さんの祈祷の最後の瞬間に急に消えてしまったみたいです」

小沼さんは、部屋の中を見渡して僕に告げた。

祈祷を終えた山葉さんは僕たちの傍らに立つと、落ち着いた口調で説明した。

「あれは彼女の子供時代の家族や家に対する思いを司る部分だったのだ。外部の人間に助けを求める時、彼女はその部分を置いて行かざるを得なかったのだ」

明菜さんは子供ながらに自分が外部の人間に助けを求めたら母親は困ることになると気遣いするような優しい子供だったに違いない。自分が治療を受けるために逃げたことで彼女は深く傷ついていたのだ。

「それが僕たちにくっついてきたという事ですね」

そんなことが実際に有り得るのか、僕にはわからない。

ただ、彼女がいつか娘の明日香さんと仲良く暮らせる日が来ることを祈るだけだった。

「それでは、私は育児中の鬱症状を訴える方の面談がありますので、約束通り明菜さんに手伝っていただきましょうか」

美咲嬢は僕たちをカウンセリングの待合室に案内した、そこには待ち受けている小さな赤ちゃんを抱えた母親が座っており、その横でツーコさんが待機している。

「カウンセリング室にどうぞ。お子様はスタッフがお預かりしますわ」

母親は赤ちゃんをツーコさんに預けてカウンセリングルームに入った。

僕たちは、赤ちゃんを抱えたツーコさんの周囲に集まる形となった。ツーコさんは周囲を見ながら笑顔を浮かべる赤ちゃんを明菜さんに差し出した。

「抱っこしてみますか?」

明菜さんは、壊れ物を扱うように赤ちゃんを受け取ったが、赤ちゃんの笑顔を見るうちに自分も微笑を浮かべ、赤ちゃんをそっと抱きしめていた。

「可愛いでしょう。美咲先生のカウンセリングを受けたら、きっと明日香ちゃんと仲良く暮らせるようになりますよ」

ツーコさんは穏やかな表情で明菜さんに告げた。

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