第186話 美咲嬢本領発揮
数日後、僕と山葉さんは黒崎氏が運転するミニバンに乗り込み、児童虐待が疑われる家庭を訪問することになった。
車内には美咲嬢とツーコさんも乗り込んでおり、訪問先では僕たちも美咲嬢のスタッフとして紹介される予定だ。
黒崎氏の運転するミニバンは都心方面に向かい、なだらかな傾斜地に立地する高級住宅街に乗り入れていく。
「この辺は路上駐車している車が高級車ばかりだね」
二列目シートに座った山葉さんがつぶやくと、運転している黒崎氏が微笑を浮かべる。
「確かにドイツ製高級セダンとか、イタリア製スポーツ車の類が多いですね。日本の富裕層が住んでいるのですよ」
路上駐車が多くて走りづらそうだが、黒崎氏はスムーズに住宅地に侵入し、大きな洋風建築の個人住宅の前に止まった。ガレージの前に余剰スペースがあって大ぶりなミニバンを置いても駐車禁止で取り締まられることはなさそうだ。
「お二人が目撃した光景の話は大変参考になりましたわ。今宵は児童虐待の件について真相を明らかにし、対策を立てられそうな気がしますの」
美咲嬢は機嫌よさそうに山葉さんに話しかけ、その間に黒崎氏は玄関のインターホンで通話して、入り口を開けてもらったようだ。
門をくぐり、都内にしては贅沢な広さの庭を眺めると、僕は既視感を覚えた。
「ウッチー、なんとなく見覚えのある情景だと思わないか」
「僕も今そう思っていたところです」
玄関口でも黒崎氏はインターホンで通話してロックを解除してもらったが、家人は出迎えに来ていなかった。
僕たちは黒崎氏を先頭に広い廊下を歩いた。
玄関から延びる廊下は吹き抜けのエントランスを抜け、突き当りで直角に曲がっていた曲がり角を過ぎたところで、窓から庭を見た僕は先ほどの既視感の理由がわかった。
「山葉さん、この情景に見覚えがありますよね。」
「うむ。この間夢の中で見た庭にそっくりだ」
そこには、僕たちが明菜ちゃんが駆けて行くのを見送った時とそっくりの庭が広がっていたのだ。
「二〇年の歳月の間に何が起きたのか定かではないが、彼女が生き延びてこの家に住んでいるとしたら喜ばしいことだな」
山葉さんは静かに語るが、僕はツーコさんたちに聞いた児童虐待の疑いがあるという言葉が再び心に浮かんでいた。
案内されたリビングには見覚えのあるローテーブルが置かれていたが、ソファの形は僕の記憶とは異なっていた。
この家の奥様である明菜さんは娘を伴って現れた。
「お疲れ様です。今日は明日香の機嫌もいいですからカウンセリングもやりやすいはずです」
明菜さんは落ち着いた口ぶりで話す。
彼女の容貌を見ると、整った顔立ちの中に夢で見た明菜ちゃんの面影が残っているように感じる。
僕はとりあえず、明菜ちゃんが無事に誰かに保護されて生き延びていたことに安堵した。
明菜さんは僕たちに座るように促した。
娘の明日香さんは大勢の大人に取り囲まれて少し怯えたような表情で立ちすくんでいる。
明日香ちゃんは、ちょうど油彩画に描かれた少女と同じくらいの年齢に見え、顔立ちも僕たちが夢で見た明菜ちゃんによく似ている。
「油絵をお返しします。霊感があるという噂の人たちに見てもらったのですが、例の二人の幽霊の手掛かりは得られませんでした」
「それは残念です。私にとって長年の疑問が解けるかと思っていましたのに。」
明菜さんは、笑顔を浮かべてツーコさんが差し出した油彩画を受け取ると片付けるために別室へ向かった。
僕は残された明日香さんが知らない大人に取り囲まれた形で不安を感じるのではないかと思ったが、彼女ははにかんだような笑顔を浮かべた。
「お母さんはいつもその絵から幽霊が出ると言うから、私は絵が駆けられている廊下を通ってトイレに行くのが怖いの」
「この人たちが、調べてそんな幽霊はいないと分かったから、もう安心していいですわ」
美咲嬢が宣言すると明日香ちゃんの表情が明るくなった。
「よかった、これでお母さんにぶたれる回数が少し減るかもしれない」
彼女が何気なく漏らした言葉で、僕たちは凍り付いた。
「明日香ちゃん、今お母さんにいつもぶたれていると言ったように聞こえたけど」
ツーコさんはしゃがみこんで彼女と同じ目線の高さで話しかける。
「うん、そうだよ」
「明日香ちゃん、よかったらお背中を見せてもらっていいかな」
美咲嬢が尋ねると、明日香ちゃんは屈託のない表情で答える。
「いいよ」
明日香ちゃん了承を得て、美咲嬢が彼女の背中をめくりあげると、そこには無数の痣が残されていた。
「あなた達、何をしているの」
別室から戻って来た明菜さんが、鋭い声を上げるが、美咲嬢は臆することなく言った。
「この痣は外から見えないように衣服で隠れる部分に集中しているようですわ。私はこれから児童相談所に通報させていただきます」
「待って、どうしてそんなことをするの。明日香と私は仲良く暮らしているのに」
明菜さんは否定するが、明日香さんの体の痣は何物にも代えがたい証拠だった。
黒崎氏はいち早く児童相談所に連絡していたが、ほんのわずかなタイムラグで、玄関からのインターホンの呼び出し音が聞こえていた。
どうやら、美咲嬢たちは今日を明日香さんを保護するためのXデイとして関係機関と調整し、家の最寄りの場所で児童相談所の職員が待機していたようだ。
「抵抗されると、警察を呼ばなければなりません。どうかおとなしく明日香ちゃんを引き渡してください」
明日香ちゃんを取り返そうとした明菜さんは、美咲嬢の言葉で凝固した。
駆け付けた児童相談所の職員は、明日香ちゃんを確保すると手を引いて外へと促した。
明日香ちゃんは振り返って母親である明菜さんの顔色を窺いながら、職員に手を引かれて出て行った。
「どうしてこんなことをするのですか。明日香は私にとって唯一の生き甲斐なのに」
明菜さんは頬に涙を伝わらせながら美咲嬢に向かって詰るが、明日香さんを取り返すために抵抗するそぶりは見せなかった。
「明菜さん、この二人の顔をよく見てください。見覚えはありませんか?」
ツーコさんは温和な雰囲気で、明菜さんに僕たちを指し示して見せた。
明菜さんは、僕と山葉さんの顔をじっと見つめていたが、やがて驚いた表情で後ずさる。
「そんな、この二人はあの時の幽霊にそっくりです。いったいどうしてなのですか」
彼女の問いに美咲嬢は微笑さえ浮かべながらゆっくりと説明を始めた。
「この世界は何一つ無駄なものはなく精緻に形作られているといわれています。この二人は偶然過去に跳んであなたを助けたようですが、それは決して偶然ではなく、今この場に至るための必然だったのですわ」
明菜さんは訳が分からないと言うように首を横に振るばかりだったが、美咲嬢はさらに言葉をつづけた。
「この二人は肉体を持たない存在として過去に跳び、そこであなたが母親に虐待を受けている場面に遭遇しました。それも一度だけでなく二度です。しかも二度目はあなたが重い火傷を負って命が危険だと判断したのであなたを導いて外に逃がしたそうです。それはこの世界があなたに生きるように仕向けたのだと私は思いますわ」
明菜さんは僕たちの正面にある一人掛けのソファーに座ると顔をゆがめて泣き始めた。
「私は施設で育ち苦労したけれど、成人してから母親と和解したの。結婚して明日香も生まれたけれど夫は癌で亡くなり、母が持っていたこの家に身を寄せたら、今度は母が病死したの。私には明日香しか残されていないわ。それなのにどうして取り上げようとするの?」
明菜さんの話を聞いていた美咲嬢はゆっくりとうなずくと、明菜さんの手を取った。
「それほど大事な娘さんなのに、どうして痣が付くほど暴力をふるうのかしら」
「明日香が一人でも世の中で生きて行けるように躾なければいけないと思ったからです」
美咲嬢は目を閉じて大きなため息をつくと、優しく明菜さんに語り掛けた。
「あなたは自分自身が子供の時に受けた虐待のために、心が歪んでいるのです。それを直すのが私の仕事。どうかこれから私の元でカウンセリングを受けていただけませんこと?」
明菜さんは涙でぬれた顔のままでゆっくりとうなずいた。
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