第170話 紺色のブレザー

あっけにとられていた阿部先生は、少し間をおいて口を開いた。

「一体何が起きたのですか。私が昨夜連絡を取った時は元気に電話で話されていたのに」

「ええ、今朝も元気で私たちと一緒に朝食を食べましたが積雪が多くて屋根がきしんでいると言って雪かきをするために屋根に上ったのですが」

「屋根から落ちたのですか」

阿部先生は沈痛な表情で尋ねた。

「打ち所が悪かったようで、救急車で運ばれるときには息がありませんでした。もうすぐ夫が浩二を連れて帰ってくるので、私が準備のために先に戻ったのです」

彼女は気丈な人らしく取り乱した様子はないが、時折ハンカチで目頭を押さえて涙をこらえている様子だ。

「謹んでお悔やみ申し上げます。お取込み中のようですので私たちはこれで失礼いたします」

阿部先生は深々と頭を下げ、僕たちもそれに倣った。

松村さんのお宅を出た僕たちは無言で阿部先生の自動車まで歩いた。

「私はもう一人の依頼者の岡田さんに連絡を取ってみますので、少しお待ちいただけますか」

阿部先生はスマホを取り出すと、岡田さんと連絡を取り始めた。

僕は少し離れた場所で通話する阿部先生を見ながら山葉さんに言った。

「考えてみたら、飲酒運転で交通事故を起こして最も過失責任が重いのが岡田さんなんですよね」

「私もそれを考えていた。何者かが交通事故の加害者を呪詛しているとしたら彼が一番危険だ」

他の二人が不慮の事故で死んでいるのだから岡田さんはそれ以上に危険というのもおかしな話だが、僕と山葉さんは阿部先生の通話の結果を待ち受けた。

「岡田さんは松村さんの訃報を聞いて収容先の病院にいっているそうです。今から私と長野市役所の駐車場で待ち合わせることになりました。とりあえず行ってみましょう」

阿部先生は通話を終えて僕たちに告げる。

「岡田さんが誰かに呪詛されているとしたら一刻も早く解除する必要があります。急ぎましょう」

山葉さんにせかされて、阿部先生は慌てて車のエンジンをかける。

阿部先生がカーナビゲーションを設定して車を走らせると、待ち合わせ場所の長野市役所の駐車場には10分ほどで到着した。

「しまった、有料駐車場だったのか」

阿部先生はブツブツ言いながら駐車場のゲートで機械から出てくるチケットを受け取っている。

「岡田さんが自動車で来るとして、車種とか聞いていますか」

僕は阿部先生に聞いた。知らない相手と自動車に乗って待ち合わせる時には、相手の車種を聞いておくと手っ取り早い。

「彼はモスグリーンのSUVタイプの軽自動車で来るらしい。一応僕も自分の車の特徴を言っておいたよ。」

「どっちの方向から来るんでしょうね」

「そうやな、僕もこの辺は土地勘がないから彼がどちらから来るかはわからないな」

僕たちが何気なく会話をしていると、目の前にある交差点にモスグリーンの車が侵入してくるのが見えた。

その交差点は東西に走る幹線道路に南方向からの道路は直前でカーブしながら直交しているが、北側は浅い角度で交わる変則の交差点だ。

モスグリーンの車は南側の道路から早い速度で侵入してきたが、交差点の赤信号に気付いて急ブレーキをかけた。

しかし、モスグリーンの車のドライバーは交差点に進入するためにステアリングを切っていたため、あっさりとリア側のタイアが流れてスピンを始めた。

「あ」

僕が思わず声を漏らした時、モスグリーンの車はスピンしたまま止まり切れずに交差点まで飛び出していた。

交差している幹線道路は緩やかな下り坂から交差点を経てガード下に入って行く立体交差につながる場所だ。

東側から交差点に侵入してくる車はなかったが、西側から交差点に侵入してきた大型の保冷車は信号が青なので、法定速度の上限程度で走行していたようだ。

保冷車のドライバーはスピンしながら飛び出してきた車を認めて急ブレーキをかけたが、荷物を積んだ大型保冷車は慣性重量が大きい上に、下り坂で圧雪の路面状況などの悪条件が重なって止まることができなかった。

鈍い衝撃音と共に保冷車とモスグリーンの車は衝突し、モスグリーンの車は僕たちの視界から消えた。

「今の車もしかして岡田さんが運転していたのではないでしょうか」

「即断はできんが、見に行ってみよう」

僕と山葉さん、そして阿部先生は駐車場に置いた車を降りると、事故現場に向かった。

衝突した保冷車は斜めになって止まり、東進する2車線を完全にふさいでいる。後続車は次々に停車して幹線道路は渋滞し始めた。

保冷車のドライバーは怪我もない様子で自分のスマホを使って緊急通報していたようだが、通話が終わってから事故車両の様子を見ると、頭を抱えて座り込んだ。

衝突したモスグリーンの車は原形をとどめないほどひしゃげて、保冷車の前部に張り付いていた。

「やっぱり、SUVタイプの軽自動車みたいですね」

僕は保冷車と衝突してひしゃげた車体から原型を推定しようと試みたが、軽自動車にしては大きめのタイヤが付いているのでSUVタイプではないかと思う程度で車種まではわからない。

車体のひしゃげ方から推測して、運転していた人が生存できるスペースは残っていないように見えた

事故現場の近くに消防署や警察署があるらしく、緊急車両のサイレンが聞こえ始めていた。

「関係のない車かもしれないから、僕は岡田さんに電話をかけてみるよ」

阿部先生は、スマホを取り出して岡田さんと通話しようとするが、僕は事故車両の中から微かに電子音が聞こえることに気が付いた。

「阿部先生、あの中から着信音が聞こえてくるみたいですよ」

僕が指摘すると、阿部先生はスマホの切断ボタンを押した。わずかなタイムラグの後に事故車両の中からの電子音も止まる。

「やはり岡田さんの車だったのか」

阿部先生は青い顔をしてつぶやいた。到着したパトカーから降りた警官は対向車線を一車線使って渋滞した車両の通行を確保し始め、同時に事故車両に群がる野次馬つまり僕たちを排除し始めた。

「関係の無い方は歩道まで下がってください」

救急隊員が事故車両をのぞき込む横で、若い警察官が両手を広げて僕たちを車道から排除しようとした時、阿部先生はおずおずと言った。

「あの、私はその車の運転者の知り合いなんですが」

横で見ていた年かさの警察官は阿部先生に近寄ると、柔らかい物腰で言った。

「こちらに来て話を聞かせていただけますか?」

警官が阿部先生を誘導したのは彼が乗ってきたパトカーの中で、事情を話した阿部先生は警察署まで同行を要求されたようだった。

結局、僕たちは事故の状況を説明したうえで必要な場合は事故状況の証言をすることを約束させられた。

「あの、岡田さんの具合はどうだったのですか」

阿部先生が遠慮がちに尋ねると、対応していた警察官は言われて気が付いた様子で別室にいくと、5分もしないうちに戻って来た。

「搬送された時には心肺停止状態で、病院で全身打撲による死亡と確認されました」

警察官は阿部先生に告げてから5センチ四方くらいのメモ用紙を渡した。

「死亡された方の搬送先の病院です。その方のご両親も病院に来られているそうです」

阿部先生は警察官に礼を言って警察署の建物を出た。

「気が重いが岡田さんのご両親に会ってみましょう。お二人は無駄足になってしまって申し訳なかったですね。」

「いいえ無駄足というわけでは」

山葉さんが小声で答える。

「今回の経費と謝礼については私がお支払いします」

「いえ、私が何もできないうちに依頼者が死んでしまったのですから先生がそんなことをされなくても」

山葉さんは断ろうとするが、阿部先生は途中でさえぎった

「私が話を持ち掛けたのだから責任上支払いは私がします」

阿部先生は律義に僕たちに約束し、依頼者が立て続けに死んだ今、僕も山葉さんも無言でうなずくしかなかった。

警察官が教えてくれたのは市内の大きな総合病院だった。

受付で案内された部屋に行くとベッドの上に白布に覆われた遺体が横たわり、その横で岡田さんの母らしき夫人が泣き崩れている。

その横にいた男性は阿部先生の顔を見ると、椅子から立ち上がった。

「俊二の父です。あなたも巻き込まれたのではないかと心配しておりました。ご無事で何よりです」

彼は事故の裁判の際に阿部先生と面識があった様子で、俊二さんが僕たちに会うことも聞いていたらしい。

「なんと申し上げたらいいのか、お悔やみ申し上げます」

阿部先生はしんみりとした雰囲気で言う。岡田さんの父親は少し迷ってから切り出した。

「私は俊二の世迷いごとだと思っておりましたが、こうなってみるとあいつが起こした事故の被害者の方の祟りのような気がします。故人の遺志と思って被害者の遺族の方に裁判の時の賠償金に相当するお金を支払いたいと思うので、申し訳ないですが先生に遺族の方に取り次いでいただけませんか」

「私はもともとそのために来ていましたので構いませんが、支払するお金はどうされるのですか」

「俊二が加入していた生命保険の受取人が私になっています。保険の支払金をそれにあてます」

阿部先生は無言で考えていたが、岡田さんの父親に言う。

「わかりました。あなたの代理人として連絡にあたります。遺族の方の連絡先はご存知ですか」

「確かメモがあったと思います」

岡田さんの父親は自分のカバンを探してメモ帳を取り出すとその一ページに走り書きをしてから破いて阿部先生に手渡した。

岡田さんが安置されている部屋を出た阿部先生は連絡を取ってみると言い残して病院の建物から出た。

病院内はスマホ等の使用を禁止する旨の張り紙があったからだ。

「なんだか事態の推移についていけませんね」

僕は疲れた気分で山葉さんに話しかける。

「私は、何者かに逐一先回りされているみたいでどうも気に食わない。カギを握っているのは今から会うことになる遺族のような気がするな」

山葉さんは物憂げに総合病院の病棟の窓から見える山々を眺めた。天候が良くなり青く晴れた空の下には雪を頂いた山が連なっている。

しばらくして阿部先生は僕たちの所に戻って来た。

「事故被害者の遺族の方と連絡したところ、事故で亡くなったご夫婦の父親と連絡が取れました。その方のお孫さんが事故で入院している姉さんの様子を見にこの病院に来ているので、連絡をしておくから今から会ってくれというのです」

山葉さんが驚いた様子で尋ねる。

「この病院にいるのですか?それに、2年前の事故で今でもこの病院に入院しているということですか?」

「交通事故の際に亡くなったご夫婦と同乗していた娘さんが意識不明の状態で今もこの病院に入院していて、その日たまたま別行動していた妹さんが無事で、お姉さんの様子を見に来ているということですな」

阿部先生が話し終わるのと同時にスマホの着信音が鳴る。阿部先生は慌ててスマホを取り出して通話し、通話を終えると僕たちに告げた。

「その妹さんがこの病院の上のフロアで待っているそうです。私だけで行ってきますのでここでお待ちいただけますか」

「いえ、差支えがなければ私たちも同行させてください」

山葉さんの申し出を阿部先生は了承し、僕たちは指定された病室に向かった。

ノックをして病室に入ると待ち受けていたのはショートカットの若い女性だった。

彼女が着ているのは紺のブレザーとスカートの上下、そして胸もとにはブルーと白のリボンが付いており高校の制服のようだ。

「どういったご用件ですか」

その女性は端正な顔を無表情に保ったまま、冷たい口調で尋ねた。

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