第171話 因果応報
「小沼祥さんですね。私は弁護士の阿部と申します。本日は岡田俊二さんと父の久夫さんの代理としてまいりました」
阿部先生は物静かな口調で用件を告げるが、彼女は鋭い目つきで見返す。
「私の家族を奪った挙句に民事訴訟の賠償請求を自己破産で逃げたような連中が今更何の用があると言うの」
阿部先生はとげのある言葉を投げつけられても動揺しないで話を続ける。
「あなたのご両親とお姉さんを事故に巻き込んだ岡田さんは先ほど亡くなりました。同乗していた中村さんと松村さんもこの二日間に相次いで亡くなっています。」
阿部先生が小沼祥と呼んだ女性は意外そうな顔をしたが、それは一瞬のことだった。
彼女は、やがて冷ややかな笑顔を浮かべてうそぶいた。
「天罰が当たったのね。自分さえよければ法の抜け道を見つけて平気で使うよう奴だからそんなことになったのよ」
阿部先生は彼女の言葉には答えずに続けた。
「松村さんと岡田さんは、事故で亡くなったあなたの家族が夢に現れてうなされていたそうです。そこで、この方々にあなたの家族の慰霊を頼み、その上で民事の裁判で賠償を命じられた金額を少しでも支払おうと考えて私に相談したところでした」
祥さんは肩をすくめて見せる。
「残念ね、死んでしまってはもう払えない。口だけでもそんな話をしたのはどういう風の吹きまわしかしら」
阿部先生と祥さんの息が詰まりそうなやり取りを聞きながら、僕は何気なく病室内を見渡していた。
祥さんの姉が横たわっているらしいベッドの横には、様々なモニターや呼吸を補助する装置が並んでいる。
そして部屋の隅には、禍々しい黒い影がたたずんでいるのが見えた。
「山葉さん、あそこの隅に何かいるのが見えますか」
山葉さんもすでに気が付いていたようで眉間にしわを寄せてその辺りを見つめている。
「例の黒い影のようにも見えるが、どことなく様子が違う」
彼女も小声でつぶやいた。
僕と彼女は死期が近づいた人の近くで黒い影がたたずんでいるのを見かけることがある。
無論、それは常人には見ることはできず霊視ができるく人間だけが感知できる存在だ。
祥さんは僕たちの視線の先にあるものに気づいた様子だった。
彼女は阿部先生が何か言おうとしているのに頓着しないで、何か唱えながら早足で歩き始める。
「伊邪那岐大神筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に禊ぎ祓へ給ひし時に」
「神道の祓い言葉だ」
山葉さんが僕に教えるように小声でつぶやく。
「生り坐せる祓戸の大神等諸々の禍事・罪・穢有らむをば祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと恐み恐みも白す」
祥さんはベッドの横に備えられていた榊の枝を手に取ると黒い影を素早く払う。
部屋の隅に存在していた黒い影は煙を吹き散らすように消えていた。
山葉さんは身動きもしないでその様子を見つめていた。
「信じられない。あの黒い影を消してしまうなんて」
山葉さんの言葉を聞いた祥さんは、あきれたようにつぶやいた。
「あなたが言う黒い影と今のやつは別物よ。私の姉は強い力を持っていたので、意識が戻らない今でも、あわよくばその力を使おうと邪霊の類が寄ってくる」
そこまで言って彼女は改めて僕たちを見た。
「死者を迎えに来る黒い影を知っているあなた方はいったい何者なの」
山葉さんは祥さんが黒い影を消したと思い込んで気圧されていたが、そうではないとわかると素早く立ち直った。
「阿部先生の説明を聞いていなかったのかな。私たちは岡田さんたちの夢枕に立つ事故被害者の霊を慰めてほしいと依頼されてここまで来たのだ」
祥さんは険しい表情を緩めない。
「事故の加害者のくせに勝手なことを。私の両親の霊に悩まされたら霊能者に頼んであっさり除霊してしまうつもりだったの?」
「あなたの言い分はわかるが、彼らの死にざまが尋常でなかった。もしも、山の神を使役し憑依させることによって人を意のままに操るほどの力を持つ者がいるとしたら、その者を捨ておくわけにはいかない」
山葉さんは決然と言い放った。相手の出方次第では戦うことも辞さないつもりだ。
山葉さんが使ういざなぎ流の口伝で呪詛と呼ばれるものは神々を使役して様々なことができるが、それは良い物事のみに使われるとは限らない。
しかし、祥さんは目を伏せると静かに答えた。
「それは私ではない。私の姉ならできたかもしれないけれど、姉は山の神を使って人を死に追いやるようなことをする人ではなかった」
彼女はベッドに横たわる女性に目を移した。
僕も彼女につられてベッドの女性を見る。
気管挿管して人工呼吸器を使っているので顔立ちはわかりにくいが、中村和幸さんの霊が恐れて逃れようとした巫女姿の女性に面影が似ている。
「お姉さんは回復の見込みはあるのか?」
山葉さんが尋ねると、祥さんは自分に言い聞かせるような口調で答えた。
「先生は大脳が広範に損傷していて意識が戻る見込みはないと言っている。昨日から亜紀の血圧が下がってきたと連絡があったので、こうして付き添っているけど、私は絶対にあきらめない」
祥さんはベッドに横たわった姉の手をそっと握った。
「お姉さんは亜紀さんというのだな」
山葉さんは小声でつぶやいた。先ほどから横で様子を伺っていた阿部先生は遠慮がちに口を開いた。
「小沼さん、岡田さんの遺志ですので民事裁判の賠償額相当のお金を受け取っていただけませんか」
祥さんは顔を上げると小声でゆっくりと話し始めた。
「姉の入院費用が必要なのでそのお金はもらいます。何か手続きがいるのですか」
阿部先生はほっとした表情で彼女に告げる。
「手続きなどは私の方でさせていただきます。準備ができた時に振り込み用の口座などを教えていただけたら大丈夫です」
交通事故の加害者3人が呪殺されたかもしれない件はうやむやなまま、事態は収束しそうな気配だった。
所詮、彼らは事故で死亡したのが現実だ。
霊も呪いも現実の世界では認知されない話で、立証することも不可能なのだ。
その時、ベッドの横に置かれたモニターから大きな音で警告音が響き始めた。
祥さんは、青ざめた顔になり、ベッドのヘッドボードに駆け寄るとナースコールのボタンを押す。
「725号室の小沼です姉が急変したので来てください」
祥さんはベッドの横に戻ると姉の手を握って必死に呼びかけ始めた。
「亜紀、亜紀しっかりして。私を一人にしないで」
僕は看護師や医師が早く来ないだろうかと入口の方を振り返り、そこに新たな人影がいることに気が付いた。
緋袴と白衣の上に千早を羽織った姿でゆっくりと近づいた人影は、悲しげな表情で祥さんを見下ろしている。
「山葉さん、その人は」
「うむ、亜紀さんの霊のようだ」
僕と山葉さんが様子を見守っていると、祥さんも僕たちの会話を聞いて自分の傍らに立っている人影に気が付いた。
「亜紀、まだ逝ってはダメ。戻ってきて」
祥さんが涙を流しながら訴えると、亜紀さんの霊はゆっくりと祥さんに向かって手を伸ばした。
二人の手の先が触れた時、まばゆい白い光が辺りを満たす。
気が付くと、僕は昨夜夢で見たのと同じ、青い水をたたえた池のほとりに立っていた。
周囲を見回すと、僕の横には山葉さんが立っている。
彼女は現実世界で着ていたのと同じジャージの上下にオーバーコートを羽織った姿で、見た目の年齢も変わりない。
「ここは夢で見たのと同じ場所のようだな」
山葉さんも周囲を見回しながらつぶやいた。
抜けるように青い空に雪を頂いた山々のシルエットがシャープに浮かび上がっている。青い水をたたえた池は前回見た時よりも水位が下がり、鳥居の下の参道が露になり、その奥には小さな社が見える。
池のほとりでは紺色のブレザータイプの制服を着た祥さんと巫女姿の亜紀さんが何かを話していた。
僕たちが近づくと、亜紀さんは柔和な表情で僕たちに話しかける。
「あなた達には迷惑をおかけしました。私の家は代々この池の主である黒龍を神体とした神社に仕える一族なのです」
僕と山葉さんは顔を見合わせた。
「あの龍がご神体?」
「そうです。私たちが騒々しくしたから彼が様子を見に来たようですよ」
僕が顔を上げると、見覚えのある狩衣姿の若者と巫女姿の姫君が仲睦まじい様子で鳥居をくぐって僕たちのいる場所に来ようとしている。
「待ってください、あなたが彼らの力を借りて岡田さんたち3人を死に至らしめたのですか?」
山葉さんが厳しい表情で尋ねると、亜紀さんは動きを止めた。
「いいえ、違います。私は黒龍様の力で彼らの夢の中に姿を現して脅かし補償金を支払うように仕向けるつもりでした。彼らが任意保険に入っていなかったために祥は生活費に事欠く有様でした。祥は私の入院費用を支払うために家族が住んでいた家を売り、祖父の下に身を寄せていたのです」
彼女は厳しい表情で祥さんを見つめる。
「それでも私の入院が長期にわたったので、貯金が底をつき、祥はいかがわしいアルバイトに手を出そうとしていました。私は現実世界では意識を回復する見込みもなく指一本動かせませない状態でなすすべもなく心配していたら、黒龍様が手を貸してくれたのです」
「それではなぜ彼らは立て続けに死んだのだろう」
山葉さんは納得がいかない表情で尋ねた。その間に狩衣姿の若者と巫女姿の女性は僕たちの傍まで来ていた。
祥さんは若者の姿を食い入るように見つめるが、狩衣姿の若者は温和な表情で見返している。
「我らが現世に関わるとき、周囲のものの心の声も拾ってしまうのじゃ。亜紀殿の妹君や我らに異形の者をけしかけた巫女殿の猛々しき思いが彼の者たちに災いを呼び寄せたのかもしれぬの」
山葉さんが姫様と呼ぶ巫女姿の女性が僕たちに語りかけてクスクスと笑う。
「私にも責任があると言うのか?」
山葉さんは愕然とした表情で黒龍の化身である若者と巫女姿の女性を見つめる。
「そうは申しておらぬ。呪詛により人一人を死に至らしめるのは並大抵のことではない。半ば以上狂ったようにせねば自ら命を絶つようにはできぬのじゃ。彼の者たちが立て続けに死んだのは不運な事故を自ら呼び寄せたようなものじゃ」
巫女姿の女性は機嫌よく説明するがその理屈は人である僕には理解しがたいものだ。
「責任を問われるとすれば全て私に帰する話。祥の生活費を確保するという目的を遂げたからには私はもう逝かねばなりません。責の全ても私が負いましょう」
亜紀さんは山葉さんに告げると、呆然としている祥さんに振り向いた。
「祥、あなたは大きな力を持っていますがそれはまだ開いていません。自らが力を御せるようにその方に師事して修業しなさい」
「師事と言ってもこの人は流派が違うし、私はまだ亜紀に生きて欲しい」
祥さんは両頬に涙を流しながら姉の亜紀さんに訴えるが、亜紀さんはゆっくりと左右に首を振った。
「黄泉平坂を一度超えたものは、人が知ってはならぬことを知るのです。私はもう現世には戻れぬ身。その方の下で修業した暁には爺様の後を継ぎなさい」
亜紀さんは僕たちの前を通りながら妹をよろしくと微かにつぶやき黒龍の化身の若者と巫女姿の女性に近づいた。
そして、狩衣姿の若者にうなずきかけると巫女姿の姫君と並んで社を目指して歩き始めた。
「待って亜紀、行っちゃだめ」
祥さんは後を追おうとして転んだ。
僕と山葉さんが祥さんを助け起こして池の社を振り返ると、いつの間にか池の水は水嵩を増して半ば沈んだ鳥居が池の水面から覗いていた。そして、参道も社も青く澄んだ水に覆われて見えなくなっていた。
「亜紀」
祥さんがひときわ大きく叫んだとき、僕の耳に医療用モニターの警告音が飛び込んできた。
我に返った僕が周囲を見回すと、先ほどまでの病室に、いつの間にか医師と看護師が来ており、医師はベッドに横たわった亜紀さんの瞳にペンライトを当てている。
「ご臨終です」
医師が言葉少なく告げると祥さんは泣き崩れた。
「山葉さん今の」
僕が小声で山葉さんに尋ねようとすると、彼女は人差し指を口の前に持ってきて黙るように促した。
彼女も今しがたの池のほとりの情景を見ていたらしい。
やがて、祥さんは嗚咽をこらえながら僕たちに振り返った。
「今日はお引き取りください」
それはもっともな話だった。阿部先生と僕たちは口々に弔いの言葉をつぶやきながら病室を後にした。
「なんとも今回はすいませんでしたね。後のことは私が片付けますのでお二人はもうこの件には関わっていただかなくても結構ですよ」
駐車場の車に戻ると阿部先生は僕たちが垣間見た池のほとりの情景を知る由もないので、恐縮しきった声で僕たちに詫びる。
「いいえ、私たちこそお役に立てませんでした」
山葉さんが明るい声で答えると、阿部先生はほっとしたようだ。
「昨夜は車中泊になってしまいお疲れでしょう。今夜は温泉付きの宿をとってありますから早めに宿に入ってゆっくりしていただきましょうか」
「ほう、それはいいですね」
阿部先生と山葉さんは仕事を終えた雰囲気で今夜の宿でどんな料理が出るかを互いに予想し始めた。
僕は車の窓から彼方に連なる白い峰々を眺めながら、あの山のどこかに青い水をたたえた不思議な池が存在するのだろうかと考えていた。
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