第169話 黒龍と姫
覚醒夢というのは、自分が夢を見ているという自覚がありながら夢の中の出来事を見ている状態のことだ。
今の僕がまさにその覚醒夢状態に違いない。
雪深い山の斜面を踏み跡を頼りに下りながら僕は周囲を見渡した。
山の斜面に生えている木はほとんどが落葉しているが時折もみの木のような針葉樹も混じっている。
雪に覆われた急峻な山々が連なった様子は、東京の街中とは別世界のようだ。
「おわっ」
背後で足を滑らせたような物音と声がしたので、僕は慌てて振り返った。
「大丈夫ですか山葉さん」
僕が気遣うと彼女は口を尖らせた。
「大丈夫じゃありませんよ。私はこんな寒いところは嫌いだから早く家に帰してください」
僕の夢に登場する彼女はなぜか高校生ぐらいの風貌になっており、日常の記憶も失っていることが多い。
今回もその例に漏れないようだ。
「僕と一緒に長野市に向かう途中だったのを覚えていないのですか」
「どうして私があなたと旅行しなければならないのですか。私は女子高に通っているのですよ。青少年保護育成条例違反で逮捕されますよ」
話がかみ合わないのも甚だしいが、僕はこの先彼女に協力してもらう必用もあると思い、話を合わせることにした。
「家に帰りたいなら、この場を切り抜けないといけない。僕が頼んだら手を貸してくれますね」
彼女は立ち止まったままつぶやいた。
「そんなことを言われても、状況もわからないのに闇雲に力は貸せません」
「成り行きを見ていて納得してくれたらでいいですよ。とりあえずこの下の池まで行ってみましょう」
僕は彼女を促して再び斜面を降り始めた。
池のほとりまで行くと、意外と大きな池だったことがわかる。池の水は青空のような不思議な色で、水没しかかった赤い鳥居が水面から覗いている。
池の周囲には雪に埋もれていない小径が続いており、小径の沿って歩いていくと前方に二人の人影が見えた。
それは、池を眺めながら笑いさざめく男女だった。
二人が着ているものは現代の衣服ではなく、男性が着ているのは狩衣と呼ばれる装束で、女性は緋袴と白衣の上に千早を羽織った巫女姿をしている。
やがて、僕たちの存在に気付いた女性は僕たちの方を振り返り、千早の袂で顔の下半分を覆った。
「何か臭いと思ったら、人が入り込んでいる。生身の人の分際でここに立ちるとは身の程を知らぬこと」
ホホホと笑ってはいるが、彼女は僕たちに対して嘲りの念をかくそうともしない。
「私たちが臭いですって」
背後から山葉さんが一歩出て僕と並んだ。彼女にとって臭いと誹られるのは相当に嫌な気分にさせられるようだ。
「おぬしたちが援助しようとする相手が何をしたかわかっているのか?その上で肩入れすると言うなら同類とみなして排除させてもらおう」
女性は顔を露にすると、剣のある表情で僕たちに告げる。
その顔は亡くなった和幸さんの霊が恐れて逃れようとしていた巫女姿の女性とは異なっている。
「僕たちの素性も目的も知ったうえで、邪魔をしようとしているのですね」
僕が答えると、女性は蔑むような目つきで言い放った。
「そのとおり。何の罪もない家族を不幸のどん底に突き落として反省の念もない輩を手伝うと言うならおぬし達も生きたままでは返さぬ」
女性の言葉を聞いて、僕の横の山葉さんは小声で祭文を唱え始めた。
「そこの娘、得体のしれぬ呪文で山の神様を呼ぼうとしているが、我らは山の神様の眷属じゃ、我らの主を呼んで何をするつもりぞ」
山葉さんがビクッとして沈黙する。
「ちょっと待ってください。僕たちは依頼者が反省していて被害者の方に補償のためのお金を払うと言うから出かけていくのです。それほどあしざまに言われる覚えはありません」
「そのような事、口先だけで何とでもいえるではないか」
巫女姿の女性が目をつり上げたとき、晴れていたはずの空が一気に厚い雲に覆われた。
麓の方から吹き上げる突風が降り積もった雪を巻き上げて吹雪のようになり目も開けられないほどだ。
「小娘、一体何をした」
僕は天候の急変は巫女姿の女性が引き起こしたものだと思ったが、それは山葉さんの仕業だったのだ。
「高田の王子を呼んだ。山の神とは何の関係もないはずだ」
高田の王子とは彼女が儀式に使う式王子の一つで、儀式の前に邪霊や妖を排除する強力な使い魔のような存在だ。
山葉さんが小声で答えるのと同時に、僕の耳に遠くから地響きが聞こえてきた。連続して響くそれは巨大な何かの足音のようだ。
巫女姿の女性の傍らにいた狩衣姿の男性は表情を険しくすると姿を変え始めた。
男性はあっという間に巨大な黒い龍に変化し宙を舞った後、再び降りてきて巫女姿の女性に頭を寄せる。
「自らの行いには責任を持つことだな」
巫女姿の女性は僕たちに言い捨てると龍の頭に乗り、竜と共に空に舞い上がる。
龍と女性が飛び去り地吹雪の彼方に見えなくなると、山葉さんがつぶやいた。
「勝った」
僕が振り返ると彼女は無邪気な笑顔を浮かべて微笑んでいた。
地吹雪は止まず僕は寒さに身震いしたが、自分の動きで僕は夢から覚めた。
僕は阿部先生の自家用車の後部座席で毛布にくるまってうたた寝しており、隣では山葉さんが同じように毛布にくるまって寝息を立てている。
エンジンを止めて停止している車内は容赦なく気温が下がっており、僕はその寒さで目が覚めたのだ。
自動車の外は既に雪が止み、夜が明け始めている。
その時、僕は道路の前方に連なっている車の列の前の方でライトがともり始めたのに気が付いた。
車の列ははるか向こうに見える曲がり角の手前辺りから動き始めていた。
「阿部先生、起きてください。渋滞が解消し始めたみたいです」
僕が肩をゆすると阿部先生はいびきが中断された「フゴッ」という音を立てて目を覚ました。
先生は少しボーッとしていたが状況を把握してエンジンをかける。
やがて、ゆっくりとだが渋滞していた車の列は動き始めた。
寝息を立てていた山葉さんも、車の動きで目を覚ます。
「よかった、動き始めたのだな」
彼女は明るくなり始めた外の景色を見ながら微笑を浮かべる。
「さっき、綺麗な池のほとりで黒龍と姫様に難癖付けられる夢を見ていたのだ。頭に来たので高田の王子をけしかけて追い払ってやった」
「僕もそこにいたのを覚えていますか」
彼女は驚いたように僕の顔を見つめた。
「そういえばいたような気がする。なんだかかっこよくて頼りにできる雰囲気だったけれど」
彼女は夢の中では現在のことを忘れているが、夢の中で自分がしたことは覚えているのだ。
「山葉さんは夢の中では高校生ぐらいの年恰好で現れるんですよ。そのために、今問題になっていることは忘れているみたいですけどね」
山葉さんは慌てた様子で僕の顔を見返した。その顔は見る間に紅潮していく。
「高校生の頃の私の姿を見られるくらいなら死んだほうがましだ。顔なんかパンパンに太っていたのに」
「もう見ちゃいましたよ。ふっくらした感じでかわいかったですよ」
僕の言葉を理解すると彼女はドライバーズシートの背もたれに手をかけて呆然とした様子で動かなくなった。
そんなにショックなことだろうかと、僕は自分の理解が及ばない女性の心理に驚かされるばかりだった。
国道の坂道をしばらく登ると、片側交互通行にして除雪車が忙しく動いているエリアがあった。きっと一晩中作業して通行可能にしてくれたのだろう。
山葉さんはその時点でやっと立ち直ったらしく、キリッとした顔つきに戻ってつぶやいた。
「あの姫様は自分の行いに責任を持てと言っていたが、依頼者に会うのが楽しみだな」
それは僕も考えていた事だった。僕は彼女にうなずいて見せるしかなかった。
僕たちは、立ち往生が発生した峠を過ぎると順調に走ることができた。諏訪湖からは高速道路に復帰し、午前中のうちに長野市に着くことができた。
長野市内でも雪は相当に降り積もったようだ。東京都内なら完全に交通がマヒするほどの積雪量だが、雪慣れした地方では平気で自動車が走っている。
「やっと着きましたね。とりあえず朝ご飯でも食べましょうか」
阿部先生は郊外にあるファミリーレストランに車を止めて言う。
僕たちは思い思いにオーダーして朝食をとった。
「山葉さんと内村君が朝食に和定食セットを食べるのってちょっと意外やね」
阿部先生はベーコンエッグとトーストにコーヒーのセットを選んでから僕たちに尋ねる。
「私は自分が朝ごはん作るときは、野菜を沢山入れたやぼったい雰囲気の味噌汁が基本です。それに納豆があれば上出来かな」
「それもあり合わせの野菜で作るから何が出るかわからない的な面白さがありますよね」
阿部先生はトーストをかじりながら言う。
「そうか、そんな朝ごはんが一番体にええのやろうな」
阿部先生は感慨深そうだが、僕は味噌汁よりもっと気になることがあった。
「今日の依頼者の方とはどこで会う予定なのですか?」
最初の依頼者の中村さんが、待ち合わせをしていた新宿駅で列車事故に遭ったこともあり、なんとなく気になっていたのだ。
「今日は最初に松村さんのお宅に行き、松村さんを乗せて岡田さんのお宅に行って祈祷をしてもらおうと思っています」
「ご自宅で待っていてもらえば、事故に遭う可能性もありませんね」
ぼくが気にかかっていたことを口にすると、山葉さんが微笑する。
「皆思うことは同じだな。私も夢であった姫君の言葉のおかげで心配していたところだ」
「私もぬかりないでしょう」
阿部先生が得意そうな表情を浮かべ、僕たちは朝食に取り掛かった。
食事の後、阿部先生は長野市の郊外にある依頼者の1人、松村浩二さんのお宅に向かうためにカーナビゲーションを設定してから車を発車させた。
阿部先生はナビゲーションを頼りに車を走らせ、木地基地の近くまで来たが、そこでカーナビゲーションは突然アナウンスした。
「目的地周辺に着きました。現地の交通状況に注意して目的地をお目指し下さい」
「おい肝心なところでやめたらあかんやないか。最後まで案内してくれると困るんや」
阿部先生はカーナビゲーションに文句を言いながら、ドアポケットから住宅地図を引っ張り出している。
「先生、私が地図を見て案内しますから、運転に専念してください」
山葉さんが地図を取り上げて案内し、僕たちはどうやら目的地にたどり着いた。
松村さんのお宅は大きな庭のある一軒家で、庭や道路には数台の自動車が停車して、何かザワザワした雰囲気だ。
僕たちは阿部先生を先頭に玄関にはいると、五十歳前後に見える夫人が僕たちを迎えた。
彼女は阿部先生と面識があるようで手にハンカチを持って話し始めた。
「交通事故の裁判の時の先生ですね。息子が来ていただくと話しておりました」
「弁護士の阿部と申します。朝お会いする予定でしたが雪のせいで少し遅くなりましてね。浩二さんはどちらにおいでですか」
阿部先生が尋ねると夫人はハンカチで目頭を押さえた。
「息子の浩二は今朝亡くなりました」
僕たちは言葉を無くして立ちすくみ、開けたままの玄関から吹き込む風がとても冷たく感じられた。
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