第157話 助けを求める手

足もとに目を移すと、やせ細った手が僕の足首をしっかりと握りしめているのが目に入った。

僕の足首を掴んでいるのは、70歳前後に見える女性だ。リビングにはカーペットが敷かれ、ソファーも置いてあるが女性はソファーの前にうつ伏せに倒れた状態だった。

倒れていた場所から必死に手を伸ばして僕の足首を掴んだ。そんな雰囲気だ。

女性はパジャマ姿だが、パジャマはあちこちが汚れ、カーペットの上には汚れ染みが隣の部屋から続いていた。

彼女は会話もままならないようで、やせ細った顔の目を見開いて僕を見つめていた。

言葉がなくても彼女が体に不調をきたして助けを求めているのは明らかだった。

彼女は隣の部屋で動けなくなり、わずかに動かせる部分を使ってリビングまで這い進んできたようだ。

僕は後藤さんや山葉さんに知らせようと思って顔を上げて愕然とした。

リビングルームの家具は様変わりし、先ほどまでよりも、雑然とした雰囲気が否めない。

そして、周囲にいた山葉さんやゴトー不動産の人々は姿を消していた。

どうやら僕はアライグマ騒動に気を取られているうちに、異界に足を踏み入れてしまったようだ。

僕はとりあえず、足元の老婦人を助けなければと思い、屈んで手を差し伸べようとしたが、体は思ったように動かなかった。

僕の意志に反して、乱暴に足を振って足首を掴んでいた手を振り払うと、一歩、二歩と後ずさりしたのだ。

そして老婦人がすがるようなまなざしでこちらを見つめているのに、目を閉じて後ろを向いた。

そして、再び目を開けると、猛烈な勢いで駆けだして玄関を目指したのだ。

「どうしたんだウッチー、しっかりしろ」

肩を掴んで乱暴に揺さぶられて、僕は我に返った。

山葉さんが心配そうに僕の顔をのぞき込んでいた。

部屋の様子は元に戻り脚立を押さえていた高中さんも僕の方を見ている。

「今、足元に女性が倒れているのが見えたのです。高齢の方で体調を崩しているようでした」

「ふうん、呼んでも答えないからどうしたのかと思ったらそんなものを見ていたのか。ここで亡くなった方のイメージを見たのかもしれないが、霊の気配はないのになぜそんなものを見るのだろう」

彼女は怪訝そうに足元に目を移すが、無論彼女には老婦人の姿は見えていない。

やがて、点検口から後藤さんが姿を現し、田中さんと害獣退治業者もそれに続いた。

外から戻って来た業者の職員も加わり、皆が思い思いに状況を話しはじめる。

「アライグマの外からの侵入経路は床下の換気口です。そこを金網でふさげばシャットアウトできますよ。この辺りにもセンサーカメラをセットしたことがあるのですが、野良猫に交じってアライグマやハクビシンがよく映っていましたからね」

「天井裏は断熱材を引き裂いてベッドにしていたみたいですね」

「天井材と、壁の断熱材の一部も張り替えないと」

後藤さんは、大きなため息をついてから皆に告げた。

「明日から工事に入る。高中は業者さんに侵入口のふさぎ方をしっかり聞いておいてくれ。今日のところはこれで引き揚げよう」

後藤さんは僕たちに目を移すと僕の様子に気が付いたようだ。

「内村さんどうされました顔色が真っ青ですよ」

「彼が、この家で亡くなった方の姿を見たようなのですよ」

山葉さんが説明すると、後藤さんの表情が曇った。

「やはり幽霊が出る話なのですか。神社のご祈祷では効果がなかったのかな」

「いや一概にそうとも言えない。私たちも霊の気配は感じないので原因を考えているのです」

後藤さんと山葉さんの会話を聞きながら僕はふと気が付いた。

「田中さん、いつもこのソファーを使っているのですよね。ひょっとしてこの辺りに足を降ろすことはありませんか」

僕が、女性の姿を見た時に立っていた場所は、彼女が使っているソファーに座ると足を降ろす辺りのように思えたのだ。

彼女は、ソファーに実際に座って試してくれた。

「そうですね、テレビ見ていて時々体の向きを入れ替える時にここに足を降ろすと思います」

問題の場所に足を降ろした瞬間、彼女は口をつぐんだ。

天井裏に潜り込んだりしていた時でも平穏だった彼女の表情が曇る。

「この感じです。何だかすごく嫌な気分になって、変なにおいもするような気がする。アライグマだけじゃなかったのですか」

どうやら彼女は霊感の類を持っているようで、僕が見た情景の一部を感じ取っているようだ。

僕は自分が見た情景から推測したことを口にする。

「この家で孤独死した女性がまだ生きている時に誰かがこの部屋に来たのです。そこで瀕死の状態の彼女を発見したのですが、その人物は救急搬送の手配などをしないでそのままここを立ち去っている。その場所にはその時の強い印象が染み付いているのです。霊感の強い人は彼女のようにその感覚を拾ってしまうのですね」

後藤さんは肩をすくめた。

「それでは一体どうすればいいのですか。新しく入居した人がそこを通るたびに気分が悪くなるようでは、事故物件の悪名が広まってしまう」

山葉さんは腕組みをして考えながらつぶやく。

「ここで、瀕死の女性を目撃した人が、その体験を引きずっている可能性がありますね。それを解消すれば、この限定的な怪奇スポットもなくなるはずです」

「それでは、一体どうすればいいのですか」

後藤さんは途方に暮れたような顔になった。

「私とウッチーで何か方法がないか考えてみます」

彼女も、即座に対応できることはない口ぶりだった。

現場を目撃した人物が特定できないのでは、事情を聴くことすらできないからだ。

山葉さんは思いついたように業者に質問を始めた。

「アライグマってこんな都会でも沢山いるものなのですか」

「そうですね。この辺は緩やかな丘になっていて、丘の上に動物園や展望公園もあるので、林も残っています。ペットとして飼いきれなくなった人がその辺に捨てて、繁殖したのが、数が増えるにつれて餌を求めて住宅地に入り込んでいるのだと思いますよ」

駆除業者はスマホを取り出しながら話していたが、スマホで動画を再生して彼女に示した。

「これが、センサーカメラに映ったアライグマです。この近所の住宅で被害があった時の画像ですよ」

僕と山葉さんが画面をのぞき込むと、尻尾が縞模様の可愛らしいアライグマがのそのそと民家の庭を歩く姿が映っている。

「どうやってこんな画像を撮影したんですか?」

僕の質問に彼は少し自慢げに説明を始めた。

「野生動物を撮影するために、赤外線センサーに反応があったら、指定した時間だけ自動撮影するカメラがあるのですよ。自治体から調査依頼を受けて公園にセットしたりするとカップルが映り込んだりして困ることもあるんです。」

「住宅地に設置したらプライバシーの侵害とか言われることはないのですか」

僕は近所にそんなカメラが設置されたら自分の動向を逐一記録されそうな気がして尋ねてみた。

「プライバシーの侵害については、防犯カメラの場合と同じで気をつかないといけませんね。我々は害獣の動きを記録したいだけなので、依頼を受けたお家の敷地内以外は映り込まないようにしていますし、人が映った画像があると外部に漏れると厄介なので削除するのが基本です」

どうやら、プライバシーの面では相当神経を使っているようだ。

「とりあえず、今日のところは解散にしましょう。山葉さんと内村さんは下北沢までお送りします」

後藤さんが仕切って、アライグマ対策は日を改めて行われることになり、僕たちは帰ることになった。

高中さんは建物の玄関で後藤さんに尋ねる。

「帰りも運転しましょうか? 」

「いや、帰りは僕が運転する。君は方向が違うからもう帰っていいよ」

後藤さんと高中さんのやり取りに、田中さんも加わる。

「社長、早く私が安心して住めるようにしてくださいよ」

「無論、何とかするよ。高額の買取物件を売り抜けられなかったらわが社にとっても手痛い損害だ、もう少し辛抱してくれ」

後藤さんは意外と社員から信望があるようで、事故物件の履歴をきれいにする件も決して無理強いしていたわけではないようだ。

僕たちが玄関先であいさつを交わしていると、通りがかった近所の人が声をかけてきた。

「こんばんは、この家を取り壊すことにでもなったのですか」

声をかけてきたのは中年の男性でカジュアルだがお金がかかっていそうなブランド物の服装に身を固めている。

「こんばんは市村さん。実は家の屋根裏にアライグマが住み着いていたことが発覚しましてね。侵入防止対策をしてリフォームすることになりそうです。建物自体はしっかりしているのでまだ使いますよ」

「そうですか。うちの母の一件があるので買い手がつかなくて取り壊すのかと心配してしまいましたよ。」

市村と呼ばれた男性は、温厚な笑顔を浮かべると後藤さんに片手をあげて立ち去ろうとする。

しかし、僕の目にはもう一人の人影が彼の後ろに張り付いているのが見えた。

それは、高齢の女性で、外出着らしい質素な和服姿だった。

その顔は平静な表情なので少し印象が違うが、僕がリビングルームで見た瀕死の状態の女性にそっくりだった。

僕は、他の人に聞こえないように山葉さんの耳元でささやいた。

「あの人の後ろに和服姿の女性が見えますか」

山葉さんは眉間にしわを寄せながら、市村さんの背後のあたりを注視する。

「和服っぽい恰好をした女の人なのが判別できる。背後霊の類かな?」

その間に市村さんは歩き去ろうとしている、和服姿の女性もその後ろに続いてゆらゆらと移動していた。

「さっきリビングで見た孤独死した女性と同一人物のようなのです」

「そうか、だが彼はその女性の息子さんだろ。死後しばらくの間子供の行く末が気がかりで見守っている可能性もあるから何とも言えないな」

僕たちは言外に、市村さんが母親を瀕死の状態で発見したのにそのまま放置したのではないかと疑っているのだが、今の状況ではそこまで踏み込むのは無理だ。

害獣退治業者やゴトー不動産の社員たちと別れた後、後藤さんは自分がステアリングを握って、横浜の物件から下北沢まで僕たちを送ってくれた。

玉川インターチェンジが近づくころ、しばらく無言だった山葉さんが口を開いた。

「後藤さん、さっき会った市村さんに話を聞くことはできるだろうか」

「市村さんですか?彼はさっきの家の近くに賃貸マンションを持っていて、管理を私の会社が委託されていますから連絡は取れますよ」

後藤さんは、答えた後で彼女の意図に気が付いたようだった。

「まさか、市村さんが瀕死の状態のお母さんを見殺しにしたと疑われているのですか。彼はお母さんが亡くなられた時、埼玉に住んでいて、普段はめったに会わなかったと聞いていますよ」

「可能性が無いわけではないですよね」

山葉さんは市村さんの背後に霊が取り付いている話などはせずに、物憂げにつぶやくと車窓から外の景色を眺めた。

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