第134話 青木ヶ原樹海

土曜日の午後、僕と山葉さんは下北沢駅で室井巡査と待ち合わせをして竹村さんのお宅に向かった。

竹村さんが住んでいるのは駅から徒歩10分ほどの場所にある世帯用の賃貸マンションだ。

室井さんはマンションの入り口でインターホンを使ってエントランスのセキュリティーを解除してもらい、僕たちをエレベーターに案内する。

「竹村さんの部屋は4階です。今日はお忙しい時に申し訳ありません」

室井さんが駅で会ってから何度目かのわびの言葉を口にした。彼は自分が手掛かりを掴めず、僕たちが調査に乗り出して気きたことが悔しい反面、申し訳ないと思う気持ちが強いようだ。

「そう気にしなくていいよ。私達は謝礼をもらって相談に乗っているのだから。むしろ休日に報酬もなしに対応しているあなたの方が気の毒なくらいだ」

山葉さんはのんびりとした口調で室井さんに応える。彼女は気を付けてかからねばと自分で言った割に緊張感がない。

竹村さんからは、僕たちに調査の報酬として10万円が口座に振り込まれていた。経費は別途支払うし、恵理子さんの行方が分かった場合は成功報酬も支払うという申し出だ。

私立探偵とは結構儲かるものだろうかと僕はいぶかしんでいる。

エレベーターを降りて、竹村さんの部屋に到着すると、竹村さんは部屋着らしいスエット姿で僕たちを出迎えた。

「こんにちは、今日はありがとうございます」

竹村さんは淡々とした様子で僕たちを迎えると居室に案内する

「お邪魔します」

ぼくは小声で挨拶を返すと、室内の様子を伺いながら彼に続いた。

竹村さん宅は不動産業者の表示なら2DKといわれる間取りだ。案内された居間は、この3ヶ月間竹村さんが一人住まいだったためか雑然とした雰囲気だった。

部屋の中央に置かれたローテーブルには金融や保険業者の社名が入った封筒が雑然と積み重なっている。

「これまでに、室井さんが調べたことを教えてもらったら、効率がよさそうだな」

山葉さんが水を向けると、室井さんが口を開いた。

「竹村さんから捜索願いが出された後、竹村さんからの要請もあったので、パソコンのメールや検索履歴、それから郵便物などもチェックしました。インターネットを使った交通機関の路線検索やツアーの申し込み履歴があれば足取りがたどれると思ったのですが、そのような痕跡はありませんでした」

室井さんは簡潔に説明する。

「恵理子さんが出かけたとすれば衣服や荷物が持っていったはずだ。見当たらない彼女の所持品はチェックできているのかな」

山葉さんが尋ねる。

「竹村さんに奥さんの衣類や所持品を竹村さんに確認してもらったところ、アウトドア用のザックや靴が見当たらないことが分かっています」

室井さんの傍らで、竹村さんがうなずいている。

「山登りに出かけて遭難した可能性は無いのですか」

今度は僕が竹村さんに尋ねた。

「恵理子が私と別行動で登山に行くことはありましたが、必ず計画表と帰る日の予定を見せてくれました。今まで私に無断で出かけたことはありません」

竹村さんは少し俯いた。山葉さんは室井さんに質問する。

「アウトドア用の装備を身に着けていたら目立つだろう。防犯カメラの映像とかで彼女の足取りをたどれないかな」

「失踪したのは3日間の間なので、ここから駅までの道や駅構内の画像を調べましたが、それらしい人物は映っていませんでした」

室井さんは少し疲れた表情で生真面目に答える。やはり、警察では僕たちが思いつく程度のことは捜査しているようだ。

「部屋の中を見させてもらっていいですか」

「もちろんいいですよ」

竹村さんがダイニングルームの中を手で示し、僕はさして当てもなかったが調べ始めた。

ローテーブルの上の封書類は消印を見ると、恵理子さんが失踪して以降のものばかリだとわかった。

僕はテーブルの上に置いてあったリモコンから、液晶テレビに接続されたブルーレイプレイヤーの存在に気付いた。

「3月末ごろの録画状況を見て構いませんか」

竹村さんは黙ってうなずく。

テレビとレコーダーの電源を入れ、ハードディスクの録画記録を呼び出した。

録画内容の種別を「全て」にして時系列順に並べるとドラマやスポーツ番組等の録画された内容が一覧にして表示される。

ドラマ等は4月の番組改編期に内容が変わっているが、その他の傾向はあまり変わらないようだ。

3月末の録画内容を詳細に見てもこれといって変わった内容は見みられなかった。

「どうして、録画内容を見るのですか」

竹村さんが静かに尋ねる。

「失踪直前に旅行番組とか見ていないかと思ったのです。手掛かりになりそうなものは見当たりませんでした」

僕は説明しながら、壁際に置いてある小ぶりな本棚に目を移した。

本棚は書棚が三段の作りで、上側の二段にはそれぞれにハードカバーの本や、文庫本が並んでいる。段ごとに作品の傾向が違うので竹村さんと奥さんが分けて使っていたかもしれない。

僕が目を付けたのは、もう一つの一番下側の書棚だった。そこには、旅行用の観光ガイドや登山向けのガイドブックが並んでいる。

観光ガイドは北海道や沖縄などの日本の観光地やバリ島とかシンガポールといった海外の観光地も含めて沢山並んでいる。その横の登山用のガイドブックは大雪山や南アルプス、北アルプスと言った標高の高い本格的な山々のタイトルが揃っていた。

「旅行と登山がお好きなんですね」

「私も旅行は好きですが、登山は恵理子の趣味です。結婚してから夏山の登山に付き合わされたのですが、彼女のペースに付いて行くのが大変でした。彼女も自分が山に登る機会全てに私を付き合わそうとは思っていなかったようですね」

竹村さんは、奥さんの山登りに同行した時のことを思い出したのか目を細める。

その時、山葉さんが口を開いた。彼女は僕たちの会話の間、ローテーブルの上の封書を調べていたのだ。

「この手紙は生命保険会社からの保険契約の成約通知ですね。被保険者が奥さんで高額の保険金が掛けられているうえ、受取人があなたになっている。申込日は3月中旬なので、奥さんが失踪される直前に申し込みしたということですね」

不意を突かれたのか、竹村さんは一瞬口ごもった。

「それは、彼女が登山中に不慮の事故に遭った時のためだと言って契約したのです。彼女はヒマラヤトレッキングに行く計画も持っていたみたいですし、国内でも登山中に行方不明になったら膨大な捜索費用が掛かるから僕に迷惑をかけないよう保険に入ると言っていました」

「室井さん、この保険会社には契約時の恵理子さんの様子とかを問い合わせされましたか」

僕が尋ねると、室井さんは落ち着いて答えた。

「その件は私達も保険会社に確認を求めたのですが、この会社はネット系の生命保険会社なので、直近の健康診断書類があれば書類の郵送だけで申し込むことができます。そのため、申込時の彼女の健康状態や精神状態については確認されていません」

僕と山葉さんは無言で目線をかわす。調査に乗り出してきた僕たちだが、既に手詰まりを感じ始めていた。

その時、僕は登山用のガイドブックの一冊が同じサイズの他のガイドブックより手前にはみ出していることに気が付いた。

それは並んでいる本から、一冊だけ抜き出して拾い読みをして元に戻した時にありがちな現象だ。

僕がその本を引き出してみると、それは富士山のガイドブックだった。

ガイドブックの目次を見ると、富士山山頂に向かう主要な登山ルートの解説の他、周辺の山の散策ルートも掲載されている。僕がページをパラパラとめくっていくと、ページに挟まれていたメモがはらりと床に落ちた。

拾い上げてみると、それには手書きで、旅行行程が書いてあった。

僕が見ていると居合わせた皆がのぞき込む。

「JR中央線経由で富士急行線に乗って河口湖駅まで行く。そこから路線バスで西湖コウモリ穴で降りる行程になっています。行程の最後に書いてあるのは富嶽風穴ですね。富士山に登るつもりだったのかもしれませんね」

僕は工程表を自分のスマホで写真に撮りながらつぶやいた。室井さんと山葉さんもそれぞれに自分のスマホを持ってくるので、僕は写真にとりやすいように工程表のメモを掲げて見せる。

「3月末に富士山登頂するなら、本格的な冬山装備が必要だし、山頂に向かうなら河口湖まで行かずに手前の富士山駅で降りるはずだ」

山葉さんは、自分のスマホで電車の路線図を眺めながら話す。

「富嶽風穴と言うと、富士五湖の一つの西湖や青木ヶ原樹海の辺りになりますね。」

室井さんがつぶやくと、竹村さんの表情が目に見えて青ざめる。

「青木ヶ原の樹海と言えば自殺の名所として有名じゃないですか」

メモを見つめて立ちすくむ竹村さんの表情を見ながら、山葉さんが尋ねた。

「このメモの筆跡は奥さんのものですか。」

竹村さんは、大判のポストイットに書かれた行程メモの文字をじっと見つめてからつぶやいた。

「はい、これは恵理子の筆跡です。」

竹村さんは硬い表情のまま凝固したように動かない。山葉さんは彼を力づけるように言った。

「このメモを書いたのが、失踪した時だとは限りませんよ。」

しかし、竹村さんは力なく首を振った。

「私はこれから青木ヶ原樹海まで行ってみようと思います。そこに行けば恵理子がいるかもしれませんから。」

竹村さんの言葉を聞いて室井さんは僕たちの顔を見た。

「青木ヶ原樹海まで自動車なら中央高速経由で2時間足らずで行けるはずです。」

山葉さんは少し緊張した表情で言う。

「もし出かけるのならば、私たちも同行しますよ。」

竹村さんは焦点の定まらない目つきをしていたが、それでも言った。

「私の車ですぐに出かけましょう。一緒に行っていただけるなら大変助かります。」

僕たちは互いの顔を見ながらうなずくしかなかった。

竹村さんは、ひょっとしたら山林に分け入るかもしれないからと着替えてくると、押し入れから大きな鉈や方位磁石を取り出したが、持っていく荷物はそれだけのようだ。

結局、10分も経たないうちに僕たちは竹村さん所有の外国製のワゴンタイプ乗用車に乗り込んで出発していた。

乗用車のステアリングは、室井さんが握った。竹村さんが運転に集中できないかもしれないからと室井さんが運転を買って出たのだ。

一同が乗り合わせたワゴンは比較的空いている中央高速に乗ると、西に向かって走り始めた。


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