緑の海
第133話 室井巡査の依頼
梅雨入りの予想時期が気になり始めるころ、僕はカフェ青葉の店内で食器の片づけをしていた。
もう夕方の遅い時間で、そろそろラストオーダーの時間が近づいている。
山葉さんは細川さんと調理のために厨房に入っていて姿が見えず、店内は僕と沼さんが仕切っていた。
カフェ青葉のオーナーである細川さんは、調理やメニューの決定も山葉さんに任せることが増えていた。
体調が悪いのかとアルバイトスタッフ一同が心配すると、年齢を考えて仕事を減らしているのだと彼女は笑う。
僕が今日は新たなお客は来ないだろうと思っていると、二人の男性客が、通りに面した出入り口から入ってくるのが見えた。
カウンター席に座ろうとする男性二人のうち、一人に見覚えがある。
「あなたは坂田警部の部下の方ですね。」
僕が尋ねると、彼は硬い雰囲気で答える。
「はい、室井と申します。今日は内村さんと山葉さんにお願いがあってまいりました」
「ぼくにもですか」
僕は春先に阿部弁護士に協力依頼された件を思い出した。盗撮犯人をおびき出した時に室井さんも現場に出動して犯人を現行犯逮捕したのだ。
「はい、この方はいま私が相談を受けている竹村さんです。彼の奥さんが半年近く前から行方不明になっていて、足取りがつかめないのです。私どもがあなた達に正規に依頼する訳にはいかないのですが、竹村さんの個人的な依頼と言うことで相談に乗っていただけないかと思いまして」
どうやら、サイコメトラーの能力を使って行方不明者の捜索を手伝えということらしい。
「しかし、僕に相談と言われても何をすればいいかもわかりませんけど」
僕が断りかけた時、竹村さんが口を開いた。
「恵理子は突然消息不明になって、全く足取りがつかめないのです。もしかしたら誰かに連れ去られたのかもしれません。どうか協力していただけませんか」
竹村さんは真剣な表情で僕に訴える。
その時、僕の背後から山葉さんが顔を出した。両手には最後にオーダーを受けた、チキンソテーとオーガニック野菜サラダのプレートを乗せている。
「もうすぐ手が空きますから、少しお待ちください。それまで、何か飲み物でもいかがですか」
山葉さんはプレートを沼さんに渡して、カウンターの内側に入ってきながら二人に告げる。どうやら途中から話を聞いていたようだ。
「それではホットコーヒーをお願いします」
「私も同じものを」
室井さんと、竹村さんが口々にオーダーした。
山葉さんがペーパードリップでコーヒーを入れている横で、僕は室井さんに尋ねた。
「このことは、坂田警部はご存じなんですか」
室井さんは表情を硬くする。
「警部はあまり乗り気ではなかったようですが、竹村さんが頻繁に捜索状況を尋ねに来るのであなた方にお願いしたらどうかと勧めてくれました」
真相は坂田警部が竹村さん不在の時に「ウッチー君にでも頼んでみろ」と言ったのではないかと思ったが、僕はあえて口には出さないことにした。
「彼が非公式とはいえ私たちに依頼を持ってくるとは珍しいな。引き受けてあげたらどうだろう」
山葉さんは淹れたてのコーヒーを注いだカップを二人の前に並べながら温和な表情を浮かべる。
「僕は構いませんけど、お役に立てるかどうかは自信がありませんよ。」
僕は竹村さんと山葉さんを交互に見ながら言う。
さっきから下洗いしていた食器類は業務用食洗機にセットし終えたのであとは今お客さんに出ている食器を回収して食洗機に入れればあらかたの用事は終了だ。
僕はひとまず手を止めて室井さんたちの話を聞くことにした。
「ありがとうございます。きっと手詰まり状況を打開していただけると思いますので是非お願いします」
竹村さんはすがるような表情で言う。
奥さんが消息不明になって半年も経つと言うだけに、彼の表情には憔悴の色が見える気がした。
「奥さんが姿を消した時はどんな状況だったのですか。」
僕は竹村さんの表情をのぞき込むようにして問いかける。
山葉さんが二人の前に淹れたてのコーヒーのカップを並べるのを見ながら、彼は話し始めた。
「私と恵理子は合コンで知り合い、昨年の6月に結婚したばかりでした」
「ジューンブライドだったのですね」
山葉さんが口をはさむ。
「ええ、恵理子の希望でその時期を選んだのです。都内の賃貸マンションに引っ越して一緒に生活を始めたのですが、彼女は3月の末に何の前触れもなく姿を消したのです」
「奥さんが消息不明になった時にあなたは一緒にいなかったのですか」
山葉さんはさりげなく質問する。
「私は仕事で大阪に出張に行っていました。2泊3日の出張を終えてマンションに帰っても、恵理子の姿は無くて、彼女の実家や知人に問い合わせてもだれもその消息を知らなかったのです」
竹村さんは警察関係者にも同じ話を何回もしているようで、よどみなく話す。
その時、僕は店の中で沼さんがふらついてしゃがみ込んだことに気が付いた。
沼さんは僕の後輩の大学生だ。4月からアルバイトを始めて最近は仕事をてきぱきこなしてくれる。
彼女は食事を済ませたお客さんの会計を済ませて、食器を回収して持ってこようとしていたところだった。
僕は山葉さんに目配せをして、沼さんの所に急いだ。室井さんたちは山葉さんに対応してもらうつもりだ。
「大丈夫か」
僕が声をかけると、テーブルのへりに手をかけてしゃがみ込んでいた沼さんは顔を上げた。
その顔色は青白く、汗ばんでいる。
「すいません。急に気分が悪くなってしまって」
彼女は弱々しく答える、持っていた食器はしゃがみ込む前どうにか置いたらしくテーブルの上にあった。
「お客さんも残り少ないからバックヤードで休んでいていいよ。後で駅まで送っていく。」
「ウッチー先輩、今日はお泊りでしょう。わざわざ送らなくてもいいですよ」
彼女は、体調が戻ってきたのか、余計なことまで言いながらゆっくりと立ち上がる。
「路上で倒れたら大変だから送っていく。とりあえず休んでいてくれ」
僕は沼さんを店の奥のバックヤードまで連れて行った。
山葉さんがいざなぎ流の祈祷をしている和室はそもそもが従業員の休憩室なので、そちらに連れて行くと彼女は畳の上に横たわって丸くなる。
「こんなに気分が悪くなったのは初めてなんです。さっきまで何ともなかったのに急に立っていられないくらい気持ちが悪くなって」
厨房で片づけをしていた細川オーナーも手を止めて様子を見に来た。
「お腹が痛いのかい。とりあえず熱を測ってみなさい」
彼女は体温計を持ってきた。沼さんは言われるままに体温計を脇の下に挟む。
「さっきまで吐きそうなくらい気分が悪かったけど、収まってきました。すこし休めば大丈夫ですよ」
「衛生管理上の問題もあるから、今日はこのまま休んでいなさい。帰り道が同じ方向だから、後で私が車で送っていくわ。」
細川さんは、沼さんに有無を言わせず休んでいるように指示してから僕に言う。
「彼女は私が様子を見てあげる」
「すいません。お願いします」
僕は細川さんに礼を言うと、お店の方に戻ることにした。
店内では山葉さんが竹村さんの話の続きを聞いていた。僕が戻ったのを見ると山葉さんは、簡潔に要約してくれた。
「私たちが考え付くレベルのことは、警察が手を尽くしてくれている。この上で新たな情報を得ようと思ったら、サイコメトラー探偵に登場してもらうしかないかもしれないね」
僕は自分を指さして見せた。聞くまでもなくサイコメトラー探偵とは僕のことなのだろう。
「ウッチーがメインだし、竹村さんの立ち合いも必要だから休日の方が都合がいいだろう。今度の土曜日当たり竹村さんのお宅に伺って、恵理子さんの所持品を見せてもらおうと思うのだが、どうだろう」
「僕は土曜日なら大丈夫ですけど、山葉さんも同行するのですか」
彼女はお店のバックヤードにつながるドアをチラッと見てから言う。
「お店はお昼以降なら私が抜けて沼ちゃんたちに任せても大丈夫だ。クラリンか雅俊君が応援に来てくれれば申し分ないけどね。それより彼女は大丈夫だったのか」
「急に気分が悪くなったらしいのですが、大したことはないみたいです。今、細川さんが見てくれています」
室井さんと竹村さんは僕達のやり取りを真剣な表情で聞いておr、山葉さんは竹村さんに告げた。
「今度の土曜日でよろしければ、私たち二人で伺います」
竹村さんの表情が心なしか明るくなった。
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
その横で室井さんは相変わらず硬い表情をしていたが、おもむろに口を開いた。
「差支えがなければ私も同行させてください。紹介した手前、責任がありますので、休日中の扱いで一緒に伺います」
僕と山葉さんは顔を見合わせた。室井さんは上司が坂田警部だけあって相当な堅物のようだ。
店内に残っていたお客さんがいなくなり、室井さんと竹村さんも帰ると、僕は周囲の空気が軽くなったような気がした。
まるで、室井さん達が何か悪い気配を連れてきていたような感じだ。僕は体調を崩した沼さんの青い顔を思い出して、彼女にも影響があったのではないかと思い当たるが、もはや確認することはできなかった。
お店のバックヤードを覗くと、沼さんは既に回復して元気な表情に戻っていたからだ。
それでも、彼女は送っていくと言う細川オーナーを断ることはしないで、おとなしくオーナーの車に乗って帰っていった。
僕がカフェ青葉でアルバイトした日は山葉さんの部屋に止めてもらうのが最近のお約束だ。
先にシャワーを使った僕は彼女のベッドに腰かけて、彼女のシャワーが終わるのを待っていた。
僕の横には、すっかりおなじみになったクマのぬいぐるみが鎮座している。
僕はぬいぐるみを抱えると、竹村さんの依頼の件を考えた。
新婚の奥さんが3ヶ月も前から行方不明になり憔悴した雰囲気の彼を思い出すと力になってあげたい気がするが、何かが僕の意識に引っかかっていた。
しかし、それが何か理解する前に僕はウトウトしてしまったようだ。浅い眠りに落ちた僕の意識はいつしか夢と呼ばれる領域をさ迷っていた。
最初に気が付いたのは自分の首に誰かの手が食い込んでいるということだ。
首を絞める相手は馬乗りになって体重も載せながら強い力で締め付けている。
首にかけられた手の力は強く、呼吸ができないうえに視界が暗くなっていく。
「ウッチーどうしたんだ」
揺り起こされて僕は目を覚ました。
僕を起こしたのは山葉さんだった。
彼女はバスタオルを体に巻いて、頭にもターバンみたいにタオルを巻いている。
「誰かに首を絞められている夢を見ていたんです」
「ほう、それは面妖だな。顔色が真っ青になっているよ」
彼女が頭のタオルをほどくとファサッと髪の毛がひろがった。バスタオルを巻いた胸元の谷間が目に入ると、生きていてよかったという実感が僕の中に広がっていく。
そうだ。ぼくは夢の中で誰かに首を絞められて、死に瀕していたのだ。
山葉さんはベッドに起き上がった僕の隣に腰を下ろした。
「竹村さんの件、引き受けてはみたが気を付けてかかった方がよさそうだな」
彼女は真顔でつぶやいた。
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