第89話 平仮名のフェネティックコード
「それでは、師匠は風邪気味ですので退出させてもらいたいのですが、迎えの車に送り届けてくるまで少しお持ちいただけませんか」
松崎さんが遠慮がちに僕たちに告げた。
どうやら佐々木さんは体調が悪いのをおして僕たちと面談してくれたようだ。
栗田准教授が返事をしかけた時に、山葉さんが割り込んだ。
「あの、お体の具合が悪いときに申し訳ないのですが、私の祖母の言葉を聞かせてくれませんか」
山葉さんは普段なら相手の体調を気遣うタイプなので、僕は彼女が無遠慮に頼んだことに驚いた。
松崎さんは困惑したような表情を浮かべたが、佐々木さんは立ち上がりかけていた腰を下ろして、松崎さんを呼び寄せた。
「そこに居るのがわかっていても話が聞けないのはもどかしいだろう。後で私の弟子に口寄せの仕方を教わるとよい。でも今日は、気がかりなことがあるようだし、そこに居る人の言葉を伝えてあげるからこっちに来なさいと言っていますよ」
「ありがとうございます」
山葉さんはお辞儀をしてから、佐々木さんの前の椅子に座った。
佐々木さんは顔を上げると何かを凝視するようによく見えないらしい目を山葉さんの横の虚空に向けた。
「聞きたいことは何ですか」
佐々木さんの声が始めて僕たちの耳に届いた。
風邪気味なのかひどくかすれた声だ。
「私は今、岐路に立って悩んでいます。新しい道に足を踏み出すか、それとも人外の世界に身を置くことを選ぶか迷っているのです。祖母に助言をもらえたらと思っていたので、無理を言ってしまいました。すいません」
佐々木さんは微笑を浮かべて話し始めたが、咳き込んでむせ始めた。
松崎さんが慌てて駆け寄って背中をさすり、無理に声を出さないようにと囁いた。
結局、佐々木さんが囁く声を松崎さんが聞き取って僕たちに伝えてくれた。
「お前はいつも人に気を使いすぎて自分をないがしろにする。私たちの里は余分な食い扶持を賄えるほどの余力はなかったから神職と言っても土にまみれて働き、時に乳飲み子を抱えて御幣を振ったものだ。何も気にすることはないから好きなように生きなさい」
「ばあちゃんなのか」
山葉さんの口から、飾り気のない言葉が漏れた。それにこたえるように囁いた佐々木さんの言葉を松崎さんがおかしそうな顔をして伝えた。
「病気の年寄りに無理に頼んでおいて信じていないとは酷い子だ。私にお迎えが来た時、お前はあれを追い払おうと強い気を発したものだから、しばらくの間は近隣はおろか谷向こうの山までシカやイノシシはおろかタヌキ一匹いなくなったと聞く。自然の摂理に逆らうとそんなことになるが、お前は今どの道を選ぶのが自然の摂理にかなっているか考えてみるといい」
山葉さんは伝えられた言葉をかみしめるように自分の前の床を見つめていた。
「聞きたかったことはそれだけですか」
松崎さんが優しく問いかけると、山葉さんはハッとして我に返った。
「お引止めしてすいませんでした。でも本当に祖母の言葉だったんですか。私はやりたいことをしてもいいのですか」
佐々木さんはやれやれと言いたげな表情で松崎さんを呼び寄せ、松崎さんに何かを囁く。
松崎さんは神妙な顔で山葉さんに告げた
「あなたのおばあさんからの言葉です。ひらがな三文字で『かまん』だそうです」
山葉さんは、椅子から立ち上がって佐々木さんに歩み寄ろうとしたが途中で思いとどまったように立ち止まった。
霊が伝える言葉は難解だ。
しかし、山葉さんには祖母の霊が伝えようとした意図は伝わったようだ。彼女の頬を涙が伝い落ちるのが見えた。
山葉さんが深々と頭を下げる前を佐々木さんは松崎さんの肘をつかんで歩きながらもう片方の手を振って見せる。
そして佐々木さんは僕の前に来ると手を差し伸べてきた。
僕は何の気なしに手を握ると彼女はしっかりと握り返してきた。その手はほのかに暖かい。
握手を終えたときに、松崎さんは僕に言った。
「大丈夫ですか」
「へ?」
何を言っているのかわからなくて僕は松崎さんの顔を見たが、彼女は茶目っ気たっぷりに続けた。
「師匠は若い男の子の手を握ると長生きできそうな気がするとよく言っています。何か吸い取られたのではありませんか」
「はあ?」
もちろん冗談なのだろう。
佐々木さんは会議室の出入り口で僕たちの方を振り返ると会釈して松崎さんに付き添われて帰っていった。
松崎さんが戻るのを待つ間、僕たちは所在なく雑談していた。
「私たちの曽曽祖父が内村さんにとり憑りついているのは本当だったんですね。すいませんご迷惑をおかけして」
「いえ、大丈夫ですよ。よくあることですから」
会話の内容が世間の常識から次第に逸脱していく気がするが、もはや僕は気にしていなかった。
僕は山葉さんに近寄ると、気になっていたことを尋ねた。
「佐々木さんが伝えてくれた言葉の意味は何だったんですか」
僕は、佐々木さんがひらがな三文字だと言って告げた言葉の意味が気になっていたのだ。まさか、こちらに来なさいという意味の英語ではないだろう。
「山葉さん、先ほどの口寄せで伝えてもらった内容に、あなたのおばあさんでないと知りえない情報が含まれていたのですね」
栗田准教授も手帳にメモを取りながら山葉さんに質問している。
「かまんとは私の故郷の方言です。何かをしてもいいという意味で使うことが多いのですが、さっきのは、私の質問への答えと同時に、祖母本人だと示すサインのつもりでその言葉を使ったのかもしれない」
「本当ですか?。東北北部の人が四国の方言をタイムリーに使いこなせるとは思えないから、口寄せの信憑性が高まる話ですね」
栗田准教授は興味津々と言った表情だ。
「それだけでなくて、祖母が病気で死期が迫ったころに私が死神だと思っている存在を追い返そうとしたことを話していました。この話は栗田先生には話したことはありません」
「僕はどこかで聞いたことがあるとおもいます」
僕はその話が記憶のどこかに引っかかっていたので、口をはさんだ。
話に水を差すようだが事実は事実だ。
「そんなことがあったんですか。それでは、あなたがおばあさんに聞きたいと思っていた事を答えてくれたんですね」
「はい」
栗田准教授の言葉に山葉さんはゆっくりとうなずいた。
しばらくして松崎さんが僕たちが待つ会議室に戻ってきた。
「遠くからおいでなのにお待たせしてしまってすいません」
松崎さんは入り口から小走りに入ってきて、息を切らせている様子だ。
「いいえ、こちらこそ佐々木さんの体調が悪いのに無理を言ってすいませんでした」
一同を代表するように栗田准教授が応えたが、山葉さんはドキッとして首をすくめたように見えた。
「それでは、私の師匠の言いつけ通りに皆さんに「いたこ」の口寄せの方法を解説いたします」
佐々木さんも松崎さんも、僕が抱いていた恐山のいたこのイメージと違ってカラッとした陽性のオーラを放っている。
ステレオタイプの先入観を持ってはいけないようだ。
僕たちがスクール形式に並べた長机に座った前で、松崎さんは口寄せの講義を始めた。
「いたこの口寄せとは、依頼してきた方の既に亡くなった身内や知り合いの霊を呼び寄せて、私たちいたこが霊の代わりに喋って、会話をしたり、先ほどの山葉さんのように聞きたかったことを伝えることです。ここまではご存知ですね」
僕たちはめいめいがうなずいた。
「それでは、あなた方が口寄せをしようと思ったらまず最初に何をしますか。内村さん答えてください」
まるで学校の先生である。
ちなみに僕は学校の授業中にこのスタイルであてられるのがすごく苦手だ。
心の準備ができていないから、うまく答えられないし第一心臓に悪い。
「まず、耳を澄まして霊の声を聴こうとすると思います」
「ブブーッ、その時点ですでに口寄せすることは無理です」
松崎さんはご丁寧にクイズ番組の不正解の時のブザー音を声帯模写してくれた。
それも、マイナーコードの和音っぽくてすごく似ている。
「霊というのは体がないから声を出すことはできません。それゆえ、耳を澄ましても絶対に霊の声は聞こえてきません。これはお分かりいただけますよね。そんなことをずっと続けていたら耳鳴りがしてきますよ」
どうせだしに使われるとおもってたので、僕は顔には出さずに心の中でむくれていた。
「ではどうしたらいいか。例えば内村さんは私にいきなり指されたから、うまく答えられなかったと思っているかもしれません」
僕以外の4人がうんうんとうなずいている。僕は自分のリアクションがそんなにわかりやすいのだろうかと内心ショックだ。
「ここで内村さんの心を読んで、『俺をだしに使いやがって』とか『俺ってそんなにわかりやすいのかなあ』と代わりに喋るのがいたこの仕事です。本番では内村さんではなくて依頼者が話を聞きたがっている霊の気持ちを代わりに喋ってあげるわけです」
僕は思わずむせた。
びっくりして気管に液体が入ったのかもしれない。
「あら、本当にそんなこと考えていたの」
松崎さんがあきれたように僕の顔を見たので、僕は涙目になりながら首を振って見せた。
「でも、実際に口寄せをするときは代わりに喋ると言われても感覚的に分かりにくいのですが」
山葉さんがもっともな質問をした。
技というものはそう簡単に伝えることはできないはずだ。
「それはね、私たちは口で話す前に頭の中で言葉を思い浮かべていますよね。でもその前の段階の何だかもやっとした想念から言葉を紡ぐときにちょっと意識してスイッチを押しているのです」
「脳の言語領域と前言語的思考のことだ。」
栗田准教授がつぶやいた。
「目標の霊を依り憑かした状態で同じようにスイッチを押すと自分が考えそうなのとは違う言葉が出てくることがあるのです。それをまとめて伝えてあげるのが口寄せです」
「それでは、自分の考えと霊から伝わった言葉をどうやって区別するのですか」
今度の僕の質問はツボを押さえていたようで、松崎さんが笑顔を向けてきた。
「そこが難しいところです。自分に欲があるとそれが強く出てしまいます。悪気はなくても依頼者の希望に沿おうと思ったら相手が喜びそうな答えを自分で考えてしまうかもしれません。一番いいのは自分自身が空気みたいに何もない人間になることだと私の師匠は言っています」
難しい話だった。無私無欲でないと自分に都合の良いことを言ってしまうかもしれないと、暗に示唆している話ぶりだ。
その時、山葉さんが松崎さんに尋ねた。
「さっき、私に平仮名三文字の言葉だと伝えてくれたのはどうやって言語化できたのですか」
山葉さんの問いに、松崎さんは感心したように答えた。
「ご指摘のとおり、私たちは自分の言葉で霊のメッセージを伝えるので、大阪で生活していた人のメッセージを津軽弁のイントネーションで伝えることになってしまいます。でもあなたのおばあさんは、年配の日本人には通じる、ひらがなを伝える符牒を使ったようなのです」
「それは『新聞紙のし』みたいな言い方ではありませんか?。アルファベットのフェネティックコードみたいなものがひらがなにもあるんですね」
栗田教授の言葉に松崎さんがうなずいている。
「フェネチティックコードって何ですか」
僕はこっそり山葉さんに訊いてみた。
「ABCDをアルファ、ブラボー、チャーリー、デルタみたいにコードを付けて呼ぶことだよ」
山葉さんがひそひそと答えるが、横から聞いていた西山さんが感心したように言った。
「それ聞いたことありますよ。デルタの後はなんでしたっけ」
山葉さんは困ったような顔をしたが、続きを言った。
「えーと、イプシロン、ゼータ、イータだったかな」
「すごい、陰陽師さんて博識なんですね」
山葉さんは照れ笑いをしたが僕は気づいていた。
彼女が口にしたのはデルタに続くギリシャ文字のアルファベットでフェネティックコードとは異なるが、僕は彼女の威厳を保つために、何も言わないことにした。
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