第88話 いたこの能力
うたた寝していた僕は話声で目を覚ました。
一瞬自分がどこにいるのか忘れて周囲を見回したが、すぐに栗田准教授のミニバンの中だと思い出した。
金曜日の夜十時にカフェ青葉に集合した僕たちは、二時間程度で運転を交代しながら夜通し東北道を走り、八戸自動車道を経由して下北半島まで到達していた。
下北半島の先端部大間岬は本州の最北端の地で津軽海峡を通過するるマグロの漁獲で有名だ。
目指す目的地は、日本三大霊場と言われる恐山。
運転しているのは西山さんで、助手席に座った景平さんと話している声で僕が目を覚ましたようだ。
「ごめん。起こしてしまったみたいだね」
西山さんは運転席からミラーで僕の様子に気が付いたようだ。
「いえ、いいんですよ。もう朝になってますし」
僕が応えると助手席の景平さんも後ろを振り返った。
「九時間もかけて車で移動すると聞いてびっくりしたけど、どうにか目的地までたどり着けたのね。感動したわ」
僕が座っているのは二列目のシートで隣の席では山葉さんがすやすやと寝息を立てている。三列目シートからは栗田准教授のいびきが聞こえた。
普段なら栗田准教授は高速道路を降りると、一般道は自分で運転するが、西山さんは信頼が厚いらしく目的地までの運転を任されていた。
既に夜は明けて、連休翌週の五月の空は抜けるように青い。
目的地の近くになると道路の幅はぐっと狭くなり、一車線の道路をしばらく走ってやっと恐山菩提寺の駐車場に到着した。
時刻は午前七時前で、僕たちは砂利を敷き詰めた駐車場に車を止めて、お寺に向かった。
「こんな時間から拝観の受付とかしてくれるのですか」
僕が疑問を口にすると、栗田准教授は考え込みながら答えた。
「僕も何も考えずにこの時間に来てしまったが、開館していなかったらどうしようかと思っていたところだよ。とりあえず入り口まで行ってみよう」
僕たち砂利を踏みながら寺の門を目指した。
背後には湖が広がっており、水は青く澄んでいる。
「このお寺はカルデラ火山の火口湖の縁に位置しているのです。周囲に見える山が火口湖を取り巻く外輪山ですね」
辺りには温泉地に特有の硫黄の匂いが立ち込めていた。
寺の入り口に行ってみると参拝受付は六時からとなっており、僕たちは安堵して境内に入った。
「取り合えず、境内を一回りしてみましょう。山葉さんと内村君は何か気配を感じたらリポートしてください」
境内は溶岩の塊が重なり合う荒れった風景が広がっていた。
草木も見当たらないし野鳥の姿も見えない。昔の人はこの景色に三途の川やあの世をイメージしたのかもしれない。
「山葉さん何か感じますか」
僕は自分が何も感じないので山葉さんに訊いてみた。景観は荒れていても、爽やかな天気と明るい日差しのためか、霊の気配などみじんも感じられなかったからだ。
「そうだな、私は強いて言えば温泉に入りたい気分だ」
僕は霊的な気配のことを聞いたのだが、彼女は自分の気分を答えてくれたようだ。
境内には木造建築の温泉の浴場がそこかしこにあったから、彼女の目に付いたらしい。
「でも、さっきのは混浴って書いてありましたよ」
「そ、そうなのか。それでは私は遠慮しておこう」
彼女が慌てて答えるのがなんだか微笑ましい。
次に見えた温泉の浴場は男女別になっているように見えたが、栗田准教授が告げた。
「残念ながら今日は時間が押しているので温泉はまたの機会にしましょう。恐山は霊場として有名ですが、古くから湯治場としても使われていたのです。菩提寺には宿坊もありますから機会があったらそこに泊まってゆっくり温泉に入りましょう」
山葉さんは僕との会話が栗田准教授に聞かれていたためか、きまり悪そうな顔をした。
「そうだな、お寺の方が読経しているのに、のんびり温泉でくつろぐのも申し訳ないような気がする」
「ああ、さっきから聞こえているお経の声ですね。でも仏門の人はお勤めなのだから僕たちは気にしなくていいでしょう」
それは、複数の人が一心に経文を唱えている声だった。
かなりの音量で響いてくるので本堂からスピーカーで流しているのかもしれないと思っていたのだ。
境内をめぐった僕たちは極楽浜という場所に出た。カルデラ湖の宇曽利山湖に沿って白い砂浜が広がっていて、湖の水がすごく澄んでいるのが印象的だ。
湖の深みの色は普通は緑がかって見えるものだが、この湖は青色が強い。
境内の荒れ果てた情景に死後の世界を感じた人々は、この湖を見て今度は極楽を感じたことは想像に難くなかった。
しばらく湖を眺めた後で僕は栗田准教授に訊ねた。
「今回は「いたこ」の方に口寄せを頼むんでしたよね。その方は何処にいるんですか」
栗田准教授は微笑を浮かべて答えた。
「恐山に「いたこ」の方々がいるのは、夏の恐山大祭と恐山秋詣の時だけです。ここに来たのは山葉さんと内村君が霊山でどんな反応を示すか見るためだったのです」
僕は面食らって周囲を見回した。
栗田准教授がわざわざ僕たちの反応を見るために連れてきたというのに、僕は何の気配も感じないし、何も見えなかったからだ。
山葉さんも同じように感じたらしく、申し訳なさそうな顔をして言った。
「私は霊の気配は何も感じませんでした。お寺が読経を流しているせいで霊の類が締め出されているかもしれませんね」
「そうですね、すごい音量でしたからね」
僕も彼女に追従する。ちょっと言い訳がましい感じだが、事実だから仕方がなかった。
しかし、栗田准教授は僕たちの言葉を聞くと表情を硬くした。
「今、お経が聞こえていたと言ったのですか?。私には何も聞こえていませんでしたよ。西山さんどうでした?」
「いや、僕も鳥の鳴き声一つ聞こえなくて静寂に包まれているようだと思っていました」
西山さんと景平さんも怪訝な表情で僕たちを見た。
「私たちにだけ聞こえていたのか」
眠そうな顔をしていた山葉さんの顔がにわかに引き締まった。
「経典の種類はわかりませんでしたか」
「私は経文は詳しくないので、でも、お遍路さんが唱えているのに似ていたような気がします」
お遍路さんとは四国で八十八か所の霊場を巡礼する人のことだ。山葉さんの言葉を聞いた栗田准教授はやおらお経を唱え始めた。
「あ、それだ」
僕は思わずつぶやいた。栗田准教授が唱えたのは先ほどまで聞こえていたお経とほぼ同じに聞こえたからだ。
「お二人に聞こえていたのは般若心経だったようですね。何か気配を感じたら教えてほしいと言っていたのに」
「すいません。大音量なのでお寺が境内全体に聞こえるように放送しているものだと思ったのです」
僕は苦笑しながら栗田准教授に謝った。
「歴史のあるお寺で長年唱えられているために、想念が時間を超えて共鳴しているのかもしれませんね」
山葉さんがつぶやいた。
彼女の話すことは時に難解だが、感覚的にはわかるような気がする。
結局、それ以外の心霊現象には遭遇しなかったので、僕たちは本来の目的である「いたこ」との面会のために八戸市に移動することになった。
「すいません。片道二時間以上の道のりなのに、霊らしきものを見つけられなくて」
山葉さんが、申し訳なさそうに栗田准教授に謝ったが、栗田准教授は手を振って笑顔を浮かべて見せた。
「ちゃんと心霊現象に遭遇したではありませんか。二人とも同じ読経を聞いていたのは大変興味深い事例です」
栗田准教授は上機嫌で自分の手帳に何かをメモしていた。
八戸市に移動した僕たちは八戸市観光協会を目指した。
「観光協会にお願いして会議室を準備してもらいました。「いたこ」をされている方が二名来てくださることになっています」
八戸駅の近くの駐車場に車を預けて、徒歩で移動しながら栗田准教授は僕たちに説明してくれた。
観光協会を訪ねると事務局の木村さんが自分が担当だと言って僕たちを案内してくれた。大人のお約束で栗田准教授富村さんは名刺の交換をしている。
木村さんが案内してくれた会議室には二人の女性が待ち受けていた。高齢の方と四十代くらいに見える方の二人だ。
「こちらが「いたこを」されている佐々木さんと松橋さんです。」
木村さんが紹介すると若いほうの女性が立ち上がった。
「私が松橋です、こちらが私の師匠の佐々木です。一般的な質問については私がお受けして、口寄せは師匠に頼もうと思っています」
「ありがとうございます。今日は調査よりも私の教え子が悩んでいることがあるので口寄せをお願いしようと思ってきたのです」
栗田准教授が西山さんたちを示しながら言った。
「まあそうなんですか。観光協会から大学の先生がお見えになると聞いたのでてっきり何かの調査だと思いましたのに」
「私の調査も兼ねていますからそんなところですね。まずは、彼の先祖の霊の口寄せをお願いしたいと思います」
松橋さんは佐々木さんのそばによると耳元で何か囁いた。佐々木さんの答えを聞き取った松橋さんは部屋の中ほどの椅子に佐々木さんの手を引いて移動させ、栗田准教授に告げた。
「口寄せを頼みたい方を師匠の前にお連れしてください」
僕は慌てて折りたたみいすを二客、佐々木さんの前に並べた。西山さんと景平さんが僕に会釈しながら椅子に座る。
椅子を置いた時に気が付いたが、佐々木さんはほとんど目が見えていないようだった。
佐々木さんは西山さんと景平さんを交互に見比べるように顔を向けたが、やがて口を開いた。早口でつぶやく声を松崎さんが聞き取って、わかりやすく僕たちに伝えてくれた。
「あなた達が口寄せをしたいご先祖はここにはいません。どうも最初に椅子を持ってきた方にくっついているようですが」
皆が僕の方を見たので、僕は佐々木さんの方に進み出た。すると佐々木さんは見えない目を見開いて僕に向けた。まるで見定めているようだ。先ほどと同じように松崎さんが彼女の言葉を伝えた。
「あなたは私たちのように霊を感じる能力をお持ちのようだ。先の二人の先祖の霊もそれを感じ取ってあなたに寄り付いている。私たちの口寄せは霊を私たち自身に寄り付かせて話をさせないとできない技だ。その霊があなたから離れないなら、私は口寄せをすることはできない」
それでは折角ここまで来ていながら全く事態が進展しない。僕は祈るような気持ちで佐々木さんに訊ねた。
「その霊をあなたに呼び寄せるわけにはいかないのですか」
佐々木さんと松崎さんは短い言葉のやり取りをした。そして、松崎さんは僕に向かって告げた。
「さっきから呼んでいるが応じてくれない。あなたが口寄せをしてくれと師匠が言っています。やり方は私が教えますから」
突然いたこ役をせよとと言われて僕は途方に暮れた。
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