第68話 透き通った水の中で
翌朝、僕は自分の部屋で目覚まし時計のアラームで目を覚ました。
眠い目を開けてみると時計の時刻は六時を指していて、前夜二時過ぎまで勉強した僕はひたすら眠かった。
日頃勉強しないために試験前日にはあれもこれも憶えなくてはと強迫観念に駆られて夜更かしをするのは身から出た錆としか言いようがない。
目覚まし時計を止めて、せめて後一分間寝たいとむなしい抵抗を試みて寝返りを打っと、横向きになった勢いで両腕を伸ばしたままベットに投げ出す格好になったが、投げ出した僕の両腕の上にもう一本の腕が、ぽてんと乗っかった事に気がついた。
その腕は僕の腕に比べて華奢に見え、目の前に投げ出されているので二の腕に生えている産毛が見える。
この腕は誰のものだという疑問を晴らすためにゆっくりと振り返ると、僕の背中にへばりついてすやすやと寝息を立てるウエポンの姿があった。
「うあああああ」
生身の女の子ならまだしも幽霊によっり沿われていることに気づき僕は絶叫を上げた。
僕の声で目を覚ました彼女は、迷惑そうにつぶやいた。
「うるさいわね。今何時だと思っているのよ」
今朝の彼女は細かい花柄が入った黄色のパジャマを着ている。七分丈のパンツとシャツがセットになったタイプだ。
「そっちこそ、僕の部屋に居着くのは止めてくれ」
「ここを私の休憩所にするって言ったでしょ。ちゃんと眠ったのは久しぶりなんだから」
幽霊に睡眠が必要なのか疑問だが、彼女には必要らしい。
「休憩所を作るなら学校のトイレとかそれらしい場所があるだろ」
「学校のトイレ?私はトイレの花子さんじゃないの。それなりに環境が整った場所に居ついてどこが悪いのよ」
幽霊が相手では理屈は通じず、僕はベッドから起きあがると椅子に座ってウエポンと向き合った。
「昨日、小田急線の東北沢駅の近くでリサチンに会ったよ」
僕の言葉を聞いてウエポンがぴくりと動いた。
「本当?。何であんたがリサチンを知っているの?」
「ウエポンの事故現場で偶然出会った。話してみたらウエポンの知り合いでリサチンだと判ったんだ」
ウエポンは身を乗り出すようにして僕に尋ねた。
「リサチン元気そうだった?。あいつもう高校生になっているの?」
ウエポンは矢継ぎ早に質問し、その様子から推察すると、事故以来リサチンと接触した記憶はないらしい。
僕はリサチンがウエポンに事故を起こさせているという山葉さんの説を聞いて、リサチンがオカルト的な儀式でウエポンを召喚して事故を起こすように命じている場面を想像していたが実際は違うようだ。
「もちろん彼女は高校に進学している。ウエポンの事故現場に花を供えるのを日課にしていると言っていたが、ウエポンが事故死したことが彼女の心の傷になっているようだ」
ウエポンは黙り込んだ。
「山葉さんがリサチンにカウンセリングを受けることを勧めているけど、ウエポンのためにも、彼女を海に連れて行こうかと言っている。ウエポンも一緒に行く気はあるか?」
「行く!」
ウエポンは僕のベッドの上でピョンと飛び上がった。
「どうやったら、一緒に出かけられるの?」
「僕とリサチンを同時に海まで連れて行けば、ウエポンも引っ張られていくことになるらしい」
「そうして!そうして!」
ウエポンはお願いポーズをしながら、ウルウルした目で僕を見詰めている。
「みんなの日程が合ったら出かけるように相談するよ。行き先は山葉さんの実家がある四国の海だ」
「あのババア意外といいところあるのね、見直しちゃった」
彼女はベッドに両足を投げ出して座ると、鼻歌を歌いそうな雰囲気だ。
柔らかそうな足の裏がこちらを向いているのが目に入り、僕は幽霊なのにちゃんと足があるんだなと思いながら、真面目な顔をして彼女に告げた。
「その代わり頼みがあるんだ」
「何でしょうか」
彼女はびしっと正座して答えた。
「もう交通事故を起こすのは止めてくれないか。昨日の夕方も駅の近くで何かしただろう」
僕は昨日、駅の近くで見たパトカーと救急車が記憶に残っていたので、かまを掛けてみたのだ。
彼女はうなずくと、ぼそぼそと話し始めた。
「昨日の夕方も、気がついたらあの通りに立っていたの。そして目の前からはばあさんが運転する軽自動車が来るのが見えた。そのシチュエーションだと車の前に飛び出さないといけないような気がしてくるのよね」
「事故を起こすようなまねをしないでいることは出来ないのか」
「多分、そのままやり過ごすことは出来ると思う」
彼女は自信なげに答えた。
「頑張ってそうしてくれ」
僕が念押しすると彼女はうなずいた。
しかし、彼女はまた誰かに呼ばれたように虚空を見詰めると、次の瞬間にはその姿は見えなくなっていた。
僕は大学に向かう電車の中で山葉さんにLIMEのトークを送った。既に彼女が忙しい時間帯になっていたので暇なときに読んで貰おうと思ったのだ。内容は、ウエポンが現れたこと、そして彼女が海に行きたいという意向を示したことだ。
午前中の試験が終わった時にスマホを見ると山葉さんから返事が来ていた。
『お疲れ様。ウッチーが夏休みに入ったら海に行くよ』
届いた文面の最後には絵文字がたくさん入っており、彼女のキャラクターと雰囲気が違うものの、ウエポンを海に連れて行くことを宣言していた。
その後も試験期間を通じて、ウエポンは断続的に僕の部屋に出現し続けた。
自分の部屋に、何の前触れもなく女子中学生の霊が出現することは僕の神経を消耗させた。
試験勉強をしていて少し休もうと思って後ろを振り返ったら、彼女がベッドに寝転がってポッキーを片手にコミックスを読みふけっており、僕が悲鳴を上げると言ったことが繰り返されたのだ。
僕の試験が終わった翌日、僕は山葉さんと、リサチンこと里沙さんと羽田空港で待ち合わせた。
京浜急行を降りて羽田空港の第2ターミナルのチケットカウンターの前辺りをうろうろしていた僕は背中を叩かれて飛び上がった。
「さっきから手を振っているのに何故気がつかないのだ」
そこには不満そうな顔の山葉さんが佇んでいたが、彼女はプリント地のワンピースにパンプスを履いてサングラスをかけていた。
リゾート風のコーディネートで小さめのキャスターバッグを引いている彼女は観光客の中に同化しており不覚にも見つけられなかったのだ。
近くのおみやげを売っているショップの前でデニム地のスカートにギンガムチェックのシャツと質素な出で立ちのリサチンと会うことができたので、僕たちは搭乗手続きを急いだ。
「チケットは私が押さえておいた。往復で二万三千円だ」
彼女は航空会社名が印刷された封筒を差し出した。僕は財布を取り出しながら首をひねった。
「四国方面の航空運賃ってもっと高かった気がするんですけど」
ネットで検索した時には片道でも三万円を越える金額が表示されていたからだ。
「パッケージツアーとして買うと安くなるんだ」
彼女はこともなげに言った。
僕は手荷物検査を終えてロビーを歩いていると、同じ方向に歩く人混みの中にウエポンの姿を見かけたが、目をこらして見るとその姿は消える。
山葉さんの様子をうかがってみると、彼女も時折、眉間にしわを寄せて周囲を見ている。
搭乗機の出発待ちの間に、リサチンは暇つぶしにロビーを歩き回っている。
「ウエポンが付いて来ているようだな」
山葉さんがリサチンの後姿を見ながらつぶやき、僕は黙ってうなずいた。
「里沙さんのカウンセリングは七瀬美咲に頼んだ。これからもカウンセリングは続ける必要があるが、里沙さんにしてみればウエポンへの思いを話せる相手が出来ただけで随分違ったようだな」
「悲しい思いを一人で抱え込んでいたのですね」
山葉さんはため息をついた。
「中学生の時期の友達は大切な存在だ。目の前で事故死したら心の傷は大きかったに違いないから、周囲の人間がカウンセリングなどの手配をしてあげるべきだったのだな」
リサチンがウエポンの事故の加害者に向ける強い怒りは親友を失った悲しみが形を変えたものだったようだ。
彼女の行き場のない怒りが無意識のうちにウエポンを召喚して無関係な人々まで事故に巻き込んでいたにちがいない。
「それゆえ、リサチンには悲しみを怒りに転嫁するのを辞めてもらいウエポンにも納得して貰った上で来世に旅立って貰わなければならない」
「僕はどうすればいいのでしょう?」
彼女は肩をすくめた。
「とりあえず、予定どおりに海まで行ってみよう。高知空港からの移動はレンタカーを予約してある」
「空港からどれくらいの時間で着きますか」
目的の海岸は去年行った場所だが、どれくらいの距離かは記憶が定かでない。僕の質問に彼女は少し考えてから答えた。
「高速道路も延びたから三時間あれば着くかな」
「三時間もかかるんですか?」
東京が起点なら三時間も高速道路を走ったら、福島県までいけるはずだ。
「道路事情が悪いから仕方がないんだよ」
山葉さんは苦笑した。
羽田からボーイング七六七型機で一時間半のフライトの後、空港で借りたレンタカーの乗って僕たちは西を目指して走った。
運転している僕は高速道路の終点から一般道に入り、カーブの連続する道を少し緊張しながら運転していた。
「里沙さん、対向車のドライバーを見てどんな年齢層が多いか傾向が判るかな」
山葉さんが、リサチンに告げると彼女は通り過ぎる対向車を眺めていた。そしてしばらくしてから口を開いた。
「十台以上見たけど殆どの自動車をお年寄りが運転していました」
「そう、そしてこの辺りは自動車がないと買い物一つするにも大変だ。私たちは高齢者が事故を起こしたからと言って一定の年齢に達したら免許を取り上げるのではなくて、運転に自信の無い人が免許を返上しても暮らしていけるような仕組みを考えないといけないね」
山葉さんが静かに話す。バックミラー越しに見ているとリサチンは無言でうなずいていた。
目的地の入り江に着くと、天気はいいが波が少し高かった。
「私は里沙さんをエスコートして沖に出るからウッチーも適当に付いてきてくれ。浅瀬を抜けるまでは波に気をつけた方がいいよ」
山葉さんはレンタルのフィンやシュノーケルを付けながら言った。今年の彼女は水着の上にラッシュガードやサーフパンツを重ね着していた。リサチンはシンプルなワンピース型の水着を着用している。
僕は、言われたとおりに彼女たちの後を追って沖を目指していたが、シュノーケリングのスポットに到着してテーブル珊瑚に群れる熱帯魚を見ているうちにいつしか二人から離れてしまった。
そこは珊瑚礁が群生する浅瀬から海底が一段深く落ち込んでいる場所だった。
僕は一人で泳いでいるうちに沖に流されていたのだ。
ウエポンは二人の方に行ったのだろうか。そんなことをのんきに考えていたら、突然何者かが僕の足を強く引っ張るのを感じた。
水中眼鏡越しに海中を見ると、ウエポンが水底から僕の足を引っ張っていた。彼女の顔は半分が無惨な傷に覆われ、片手は失われているように見える。そして着ているのは冬用のセーラー服だった。
僕は彼女の手をふりほどいて水面に上がろうとしたが、逆にグイグイと海底に向けて引き込まれていた。
僕の部屋に現れるときの人なつこい雰囲気にすっかり騙されていたが、もとより彼女は死霊なのだ。
やがて僕は耐えられなくなり息を吐き出してしまった。吐き出した空気のかわりに海水が喉から肺になだれ込む。
「山葉さん」
僕はおぼれながら思念で助けを求めたが、その時足を引っ張る力がゆるんだ。
僕は必死で海面まで上がると空気をむさぼった。おぼれかけて肺の中に海水が入ったため、ひどく苦しい。
その横で海面にウエポンの顔が浮かんだ、水面には波紋も起こさず姿だけが見えている。
「やまはさーんだって、何だか情けないな」
ウエポンは屈託無い笑顔を浮かべた、僕の部屋に現れた時のように怪我の痕跡もなく、両手も揃っている。
「僕を道連れに連れて行こうとしたのか」
僕は咳き込みながら彼女に尋ねた。水面に浮いているのがやっとの状態だ。
「テーブル珊瑚ってこんな浅いところにあるのね。熱帯魚も沢山いて綺麗」
彼女は僕の問いには答えずに水面から空を見上げた。
「ここまで連れてきてくれてありがとう」
ウエポンはそう言うと僕にしがみついて唇を重ねてきた。彼女は死霊なのに柔らかい感触とほのかな暖かさを僕の上に残すと何の前触れもなく忽然と消えた。
「ウエポン?」
僕が呼んでも答えはなかった。
「ウエポン」
気管に残った海水にむせながら僕は叫んだ。大きなうねりがふわりと僕を持ち上げ、うねりが通り過ぎるとストンと下がる。
透き通った水の下には深く青い深みが続いているばかりだ。
僕はウエポンと呼ばれていた存在がこの世界から消えてしまったことを悟った。
空は青く沖合には白い雲、コバルトブルーの水平線の方から熱帯性低気圧が起こした大きなうねりがゆっくりと押し寄せていた。
翌日、僕は山葉さんの実家で物憂く考え込んでいた。
彼女の実家は山の上にあり、家の外では東京では見かけない緑がかった透明な羽根を持つ大きなセミがシャワシャワと大きな声で鳴いている。
庭先では百日紅とノウゼンカズラが鮮やかな花を咲かせ、目の前に広がる山並みの上には青い空が広がり白く輝く入道雲が立ち上がっている。
目の前のテーブルには食べ終わったスイカの皮が積み上げられたお皿が乗っていた。
僕は深く考えずにウエポンを悪霊と決めつけてお祓いしようとした自分を恥じていた。
山葉さんの祈祷によってウエポンの魂は来世に送られるかもしれないが、彼女の生前の想いや記憶の大半は消えてしまうに違いない。
それなのに、僕は見つけ出して退治するがごとくに浄霊しようとしていた訳で、山葉さんが私は神ではないからと言っていた意味がわかったような気がした。
「ウッチーさん。ウエポンはもういなくなってしまったんですか」
リサチンが僕に尋ねた。彼女は美咲嬢から僕や山葉さんが霊を見ることが出来ることをそれと無く聞いていたらしいく、僕は黙ったままゆっくりとうなずいた。
「彼女は亡くなる前に、夏になったら格好いい男の子と海に行きたいって、よく話していたんです。昨日私たちと一緒に海まで来ていたのなら、それが供養になったんですね」
僕は彼女にうなずきながら、ウエポンはリサチンと海に行きたかったのではなかったかとぼんやりと考える。
「私はウエポンのことは忘れないけど、彼女のことで人を恨むようなことはしないことにしました。そうしないとウエポンの存在を汚すことになると思ったからです」
リサチンは、自分で考えてウエポンの死から立ち直ろうとしており、それは僕たちの目指していたことなのだが、僕は自分の部屋に現れた時のウエポンの姿を思い出してため息をついた。
その時、襖が開く音がして誰かが部屋に入ってきた。
「さあ、スイカも食べたから今日は川に泳ぎに行こうか」
山葉さんの声だ。
「わあ、この辺の川で泳げるんですか?行きます」
リサチンが腰を上げる気配がした。僕は俯いて畳を見ていた目線をゆっくりと上げてみた。僕の目に入ってきたのは山葉さんのスラッとした生足だった。
慌てて顔を上げてみると、彼女は白いビキニの水着に着替え、その上に大きめのワイシャツを羽織っている。
「ウッチーも一緒に行くか?」
僕はその格好で誘うなんて反則だと思いながら答えた。
「行きます」
僕の答えを聞いて、山葉さんは笑顔でうなずいた。
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