第65話 白いキャミソール

「ウッチー。その手を放すな」

山葉さんが小声で叫んだのと、僕が手首を放り出したのは同時だった。気持ちが悪い物は思わず放り出してしまうものだ。

手首は回転しながら弧を描き空中でフッと消え、その後には何の痕跡も残っていなかった。

山葉さんは舌打ちしながら足早にオープンキッチンから出てくると、歩きながらカフェエプロンを外してカウンターのフックに引っかけている

「すいません」

自分がしくじったことを悟った僕はとりあえず謝った。

「いや、大丈夫だ。この店は美咲嬢が結界を張っていたから簡単に外には出られないはずだ。いざなぎの間に来てくれ」

山葉さんはそう言って店のバックヤードに向かい、僕は慌てて彼女の後を追った。

雅俊と細川さんは霊感がないので何が起きているかが把握できないらしく、ポカンと口を開けてこちらを見ている。

カフェ青葉のバックヤードには和室があり、山葉さんが祈祷を行う際によく使うので僕たちその和室をはいざなぎの間と呼んでいる。

山葉さんは他の依頼者のためにみてぐらを準備していたらしく、既に御幣を手にして祈祷を始めていた。

巫女の衣装に着替える時間が惜しかったらしく、バリスタ用の黒のパンツと白いシャツを着たままだ。

彼女が祈祷を続けるうちに、部屋の中でかさかさと小さな音がし始めた、よく見るとみてぐらにセットしてある式神が小刻みに動いている。

式神は、山葉さんが実家から持ってきた手漉き和紙を日本刀で切り出して作った物だ。

龍の形や、人の形など様々なタイプがあり、それぞれに顔がついていて見ていて飽きない造形だ。

その式神達が次第に動きの幅を大きくしていき、ザアッという音を立てて一斉に空中に舞い上がった。

「うそ」

僕は一年以上山葉さんの祈祷を見てきたが、初めて見る現象に目を見張った。

式神は部屋の真ん中の空中で、瞬時に姿を消した。

しんとした部屋の中で山葉さんが少し息を切らせて佇んでいた。額には汗が浮かんでいる。

「今のは何だったんですか。」

間の抜けた質問だが、僕のボキャブラリーではそれ以外に聞きようがない。

「式神が動いたのだ。」

山葉さんの説明も要領を得ていなかった。彼女も初めて見たという顔だ。

「いつもは力を貸してくれるだけなのに、必要になったから自ら動いたという事だろうか。」

山葉さんは腕組みをしてつぶやいた。やがて部屋の引き戸や廊下に置かれた戸棚がカタカタと音を立て始めた。何かが動き回っている気配がする。バックヤードの奥の方からバタンと何かが倒れる音も聞こえた。

次の瞬間に、山葉さんの足元の畳の上に式神達が忽然と出現していた。そして現れたのは式神だけではなかった。

式神にからみつかれたような形で、僕が捕まえた女子中学生の霊が畳の上に転がっていた。

「ちくしょお。私が何をしたって言うのよ。この変なやつをはずせよ」

彼女は弱々しく身じろぎし、式神達が思ったよりもがっちりと彼女を捕らえていることを窺わせた。

「何をしたかは自分が一番よく知っているはずだ。これ以上交通事故を引き起こすことがないように、来世に送ってやろう」

山葉さんが冷たく告げると、女の子はじたばたと暴れ始めた。

「私はまだやりたいことが一杯あったのに、ブレーキとアクセルを間違えるような耄碌したじじいに轢かれて死んだのよ。それなのにどうしてこんな目に遭わなきゃならないのよ」

彼女は手足の自由がきかないまま、跳ね上がりそうな勢いで暴れている。

部屋の壁は振動し、あちこちでがたがたという音がした。

しかし、式神は紙とは思えない強靱さで彼女を封じ込めたままだ。

「そのことを恨んで行きずりの高齢のドライバーに事故を誘発させているなら見当違いもいいところだ。高齢の方でも、きちんとした運転をしている人の方が多いのだ」

山葉さんは、静かな口調で諭しながら見下ろしている。

「うるさい。高齢者の事故が続発したら運転免許の所持を年齢で制限する法律が出来て、あたしみたいに無駄死にする人が減るかもしれないでしょ。判ったようなことを言ってるんじゃないわよこのばばあ」

「免許所持の年齢制限などされたら私の故郷などあっという間に廃墟しかない集落になるだろうな。高齢者しか住んでいないうえに、自家用車がないと生活が出来ない地域だから」

ばばあと言われてムッとしたわけでもないと思うが、山葉さんは御幣を持ち直して祭文を唱え始めた。

「いやっ。やめて、助けて」

女の子は僕の顔を見た。助けを求めているような表情を見て僕は何だかかわいそうになった。

その時、女の子の霊を封じ込めていた式神が突然力を失ったようにはらりと畳の上に落ちた。

本来の紙細工に戻ったそれは、ぴくりとも動かずに畳の上に落ちた。

女の子の霊は飛び起きると瞬時に姿を消した。後にはよじれた形の五体の式神が残されているだけだった。

山葉さんは祭文を唱えるのを止めると唇をかんで畳の上の式神を眺めていたが、彼女は諦めていなかった。

山葉さんは式神を畳の上に残したまま、御幣を手にして祭祀を再開した。

最初から仕切り直してもう一度捕まえるつもりらしく、彼女はいざなぎ流の神々に捧げる神楽を再開し、祭文を詠唱する。

やがて、畳の上の紙切れに過ぎなかった式神達は再び命を宿したように動き始めた。そしてザァッと音を立てて舞い上がる。今度も霊を捕らえてくるだろうと思って見守っていた僕は、気がついたら畳の上に転がっていた。

「あれ?」

僕は起きあがろうと思ったが身動きがとれない。首を持ち上げて自分の足の方を見ると式神が僕の体に巻き付いているのが見えた。

「ちょっと、山葉さん」

僕の声が聞こえたらしく、山葉さんの詠唱が止んだ。そして彼女は信じられないという表情で僕を見下ろした。

「すまない。私の意識がウッチーに向いたために、式神様が間違えたらしい」

彼女は式神を外そうとしゃがみ込んだが、既に力を失っていた式神ははらりと落ちた。体の自由を取り戻した僕はゆっくりと起きあがった。

「あの子は何処に行ったんでしょうね?」

「遠くには行っていないはずだ。私としたことが一度捕えておきながら逃げられるなどあり得ない失態だ」

山葉さんは肩を落として答え、その表情には憔悴の色が見えた。

「ちょっと休憩しませんか」

僕の言葉に彼女は黙ってうなずいた。

店内に戻ると山葉さんはオーナーの細川さんに頭を下げた。

「忙しい時にすいませんでした」

「あら、いいのよ。そういう取り決めだし」

取り決めというのは、カフェに来たお客が陰陽師の祈祷を頼んだときは山葉さんがお店の仕事を離れて、陰陽師の仕事をしてもよいと決めているらしく、その代償に細川さんは彼女がもらった祈祷料をピンハネしているのだ。

僕や雅俊がアルバイトをしているのは、山葉さんが抜けたときの穴埋めのためでもある。

細川さんが占いの店からカフェに転業した過程で占いの顧客を山葉さんが陰陽師として引き継いだのが起源らしい。

「ランチタイムのお客さんもはけてきたから雅俊君と一緒にまかないを食べなさい」

細川さんが勧めてくれたので僕と山葉さんは雅俊と一緒にお店のバックヤードでお昼を食べることになった。

今日のまかないのメニューはラタトウイユ丼とゴーヤチャンプルーだ。お昼のまかないメニューは往々にして、まとめて作れる物をとりわけて食べる系統が多い。

雅俊は率先して食事を盛りつけしてくれてから僕に尋ねた。

「今日は一体何があったんだ」

「最近この辺で交通事故を誘発していた霊をウッチーが捕まえてきたのだ。店内で逃げられたので祈祷であぶり出したが、浄霊する前に再び逃げられた。私の失態だ」

僕の代わりに山葉さんが答えた。彼女ははラタトウイユ丼をスプーンを使って食べているが、いつもほど食欲がないみたいだ。

「そういえば最近この辺りで交通事故が多いですよね。その霊が事故を引き起こしていたのですか」

雅俊も食事の手を止めて聞いたが、その横で僕はラタトウイユ丼を食べるのに忙しかった。

野菜だけで作ったラタトウイユが意外と御飯に合っておいしい。

「その霊は中学生くらいの女の子だった。彼女はお年寄りの誤操作のために乗用車に轢かれて死んだと言っていた。そのうえ何か現世への未練があるようだ。高齢の運転者の事故が頻発すれば、一定年齢以上の高齢者の免許所持を禁止する法律が出来ると信じて、せっせと事故を引き起こしていたのだな」

「話を聞くと何だかかわいそうですね」

「だからといって放っておく訳にはいかない。早く供養してやらないと、次第に癖が悪くなってたちの悪い悪霊になっていくかもしれないからね」

「それでは、また事故現場を探して、捕まえてこないといけませんね」

僕がラタトウイユ丼をあらかた食べ終えて話に加わると山葉さんは申し訳なさそうに言った。

「すまないがそうしてくれ。ウッチーの方が霊探しの才能がありそうだ」

食事が終わると僕たちは普段どおりに店の仕事に戻った。そういつまでも幽霊探しをしていられないからだ。

夕方になり、アルバイトを終えて僕は自宅に帰ることにした。

そして、店を出ようとした僕を、細川さんが呼び止めた。

「内村君、アルバイトのためだけに通わせるのも何だか気の毒だから、夏休みとか毎日仕事に来るなら二階の開いている部屋に泊まり込んでもいいわよ」

「え、いいんですか」

オープンキッチンの中から山葉さんが振り返るのが見えた。

「いいわよね、やまちゃん」

「オーナーがそう言うなら私は異存ないです」

細川さんの問いかけに山葉さんはしぶしぶといった様子で答えた。

「わかりました。夏休みに入ったら泊まり込みます」

僕は細川さんに礼を言って店を後にした。

週明けから前期末試験で試験が終われば夏休みだ。

僕は夏休みになったらカフェ青葉に泊まり込みでバイトに来ることにしようと考えながら、幽霊のことなどすっかり忘れて、軽い足取りで駅を目指した。

自宅に帰るとさすがに試験勉強もしなければならない。僕は夜遅くまで自分の部屋で試験科目の教科書に目を通していた。

僕はいつもBGM代わりに本棚にスタンドで立てたタブレットで海外のバンドの動画を再生して低音量で音楽を流している。

夜が更けたので音楽を止めようと思って振り向いたときに僕は部屋の光景に違和感があった。

視野の端の方に何かがいるように見えたのだ。

そっとそちらの方を見てみると、ぼくのベッドの上で白のキャミソール姿の女の子が寝そべって寛いでいた。

それは昼間、山葉さんと一緒に浄霊しようとした女子中学生の霊だった。

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