第61話 猫の根付
その瞬間、クラブの中の喧噪が消えて辺りはしんと静まりかえった。ちょんまげの人は僕の肩に手を置いたまま話し始めた。
「あんたの連れのお姉さんだけどな、ちょいと乱暴なんじゃねえか。俺はこいつのご先祖なのに、こいつにまとわりついていた餓鬼どもと一緒にお祓いしようとしやがった」
僕は青くなった。
「すいません。多分気がつかなかったんです」
「まあいいや。あんたがいたからどうにか難を逃れることが出来た」
そう言うと彼はにやりと笑った。
「時にあんたは、物に染みついた記憶を読み取るという特技をお持ちのようだな
ぼくは無言でうなずいた。彼は僕の中に潜んでいる間にあれこれ知ってしまったようだ。
「一之助は感が良すぎる所がある。いつも一緒にいる俺の記憶に影響されて、必要以上に悩んでいるようだ。そこでだ、こいつが持ち歩いている根付けを使って、俺の時代を見せてやって欲しいんだ。そうすりゃあ自分のことと俺の記憶の区別が付くはずだ」
彼の記憶に影響されて一之助さんが悩んでいるという意味がよくわからない。それ以前に根付けというものが何だかわからなかった。
「根付けって何ですか」
「これのことだよ」
一之助さんが招き猫のマスコットを取り出した。キーホルダー代わりにしているらしい。
「そんな由緒があるものを日常に使っていいんですか」
「いいってことよ。子孫が使ってくれるならうれしいことだ」
僕の心配を本来の持ち主が一蹴した。一之助さんは、二代目寛三郎の霊を怖々見ながら僕に尋ねた。
「これをどうしろと言っているんだ?」
「根付けにくっついている寛三郎さんの記憶をあなたに見せるようにと言っています」
「百聞は一見にしかずだ。早くやっとっくんな」
二代目寛三郎さんに促されてぼくはしぶしぶ、根付けに手を触れた。根付けに付着していた記憶が僕の中に流れ込むと、視界が木造の家並みに切り替わった。時刻もまだ日がある夕方のようだ。
「一体どうなっているんだ」
一緒に触れていたために僕の感覚を共有しているらしく、一之助さんが声を上げた。
「バーチャルリアリティみたいなものだから、僕と一緒に追体験してください」
僕が声をかけると彼は黙った。やがて記憶の主の感覚が僕たちの意識を飲み込んでいった。
「兄さんの一座にお役人が目を付けているのは知っているはずです。どうかうちの一座の控櫓として興業してくれやせんか」
二年ぶりに会う弟は丁重に父との復縁を要請してきた。
勘当同然に父の一座を飛び出し旗揚げしたものの、所詮は宮地芝居だ。
弟の言うとおり人気が出て派手な小屋がけをするほどに役人達の目に付く存在になっていたのだ。
「そいつはありがてえな。こちとらも一座を構えた後ゆえ、興業を差し止められた日には一座全員がおまんまの食い上げになっちまう。控櫓として認めてくれるなら渡りに船だぜ」
父との経緯を知っていた弟は兄が素直に要請を飲むとは思っていなかったようだ。
兄の口から想定外の素直な言葉を聞いた彼は破顔一笑した。
「兄さんよくぞ言ってくれました。私はすぐに父に報告してきやす」
「まあ待ちな、折角来たんだ。一緒に寿司でもつまんでいけよ」
「寿司ですか私はそいつは食べたことがないんですよ」
万事、真面目で几帳面な弟は、はやりものなど口にしないようだ。
「寿司てえのはな。上方から入ってきた押し寿司が江戸前風に変わってきたものだ。マグロやエビにコハダなんぞを酢飯に乗せて握ったものを屋台で売っているんだ。遅くまで働いているいなせな職人達がちょいとつまんで明日も働く元気をつけようっていう食い物だから、おめえも一度は食っといたほうがいいぜ」
「わかりやした。ご相伴にあずかりやす」
生真面目に答える弟を連れて、長屋を出ながら、奥にいる女房に声をかけた。
「お凜、出かけてくるぜ。ちょいと遅くなるかもしれねえ」
「あいよゆっくりしといで」
奥の方から顔も出さずに返事の声だけが帰ってきた。興業に向けての衣装の支度を持ち帰って片付けているのだ。
「お凜さんは、元気にしていやすか」
「おう元気だとも、今これだけどな」
下腹を抱える仕草をしてみせると、弟は大仰に喜んで見せた。
「そうですかい。そいつは良かった」
「おまえんとこの貞坊はどうしてる」
「はい。顔見せ興業も済んで時々舞台にも立たせています」
自分が子供の時に受けた厳しい稽古と初めて舞台に立ったときのことが頭に浮かんだ。荒事を主にした演目で名をなした父は芸事には厳しかった。
成功した演目を子孫に引き継いでいこうとする父と新しい演目を切り開かなければ先行きが成り立たないと主張する自分が激しくぶつかったのが二年前。結局自分が家を飛び出したのだった。
時折立ち寄る屋台に着くと、既に握った寿司をずらりと並べて商売を始めたところだった。
ここで食っていくからと職人に告げて、適当に見繕った寿司をつまみながら弟に近況を聞いてみた。
「どうだい。最近の客の入りは」
「それが、この間の赤穂浪士討ち入りの後、時代物以外は実在するお侍の名前や事件を使えなくなっちまって、耳目を引くような演目が作りにくくて客の入りが減っているんです」
「それはこちらも同じだよ」
討ち入りした浪士を処罰したことに対する批判が広がるのをお恐れてのことだが、歌舞伎の世界にとっては飛んだとばっちりだった。
父の一座が客の入りが悪くて経営が危ない話は噂で聞いていた。
弟は珍しそうに鮪の握りをつまんでいた。三貫食べたら腹がふくれるほどの大きさがあり、醤油で漬け込んだ鮪と酢飯の相性がよくて巷で人気のある食い物だ。
「いまな、清の国を舞台にした新作を考えている。歴史物の一種だな。今を去ること一千五百年前の豪傑、張飛が宿敵曹操から逃れようとする主君のために、たった二十騎の手勢で、数万の敵を食い止め、見事主君を落ち延びさせる話だ」
弟は、半分ほどかじった大きな寿司を手に持って目を白黒させた。喉に詰まらせそうになったようだ。
「そいつは面白そうですね。異国が舞台となれば衣装でも目を引けるし、筋書きがうちの芸風にぴったりだ」
「この演目を日本橋の本櫓にかけるってのはどうだい。親父がそうしたいって言えばの話だがな」
「兄さん、いいんですか」
「うちが控櫓として旗揚げするためのお披露目興業にしてくれればいい。互いのためだな」
弟は黙って俯いた。実家が困窮しているというのは本当のことらしい。
「それでは後日あらためて、新作の書き抜きを持って親父に会いに行く。今日の所は寿司でも食え」
弟はうなずいて海老の握りに手を出した。その時、屋台で寿司を握る職人の手元に赤身ではなく脂の乗った鮪の切り身があるのが目に付いた。
「なあ、その脂の乗ったところを握ってくれないか」
職人は目を丸くして答えた。
「旦那いけませんや、これは油がきつくてせいぜい焼いてから人夫衆に出すところです」
「いいんだよ。俺はそいつが食いてえんだ」
本当にこんなものを食うのかと言いたげな顔をした職人は、それでも鮪の腹身を短冊に切って寿司に仕立ててくれた。
手にとって口に入れると、塩のきいた鮪の腹身の油が口に広がった。
「やっぱりうめえや」
「にいさん。そんなもの食べて腹をこわしちゃ大変ですぜ」
弟は変わり者の兄の奇行が始まったと思ったようで心配そうに見詰めていた。
弟と別れた後、機嫌よく長屋に帰ろうとしてしていると、急に咳の発作に襲われた。押さえようのない咳に苦しんでしゃがみ込む、口を押さえていた手にはべったりと血が付いていた。
医者には労咳と言われており、養生してもなかなか良くならない病だと聞いている。
「ちくしょう。もう時間がねえ」
独り言をつぶやいてから長屋への道を急いだ。
長屋に帰ると完成間近の「張飛」の書き抜きの続きを書くことにした。日本橋の父の所に持って行くと言ったからには仕上げなければならない。
「おまえさん、今度の話はどんな筋だい」
お凜がのぞき込むので、手を止めて、取り寄せた出典の資料を引っ張り出した。
「こいつを見な。清の国の一千五百年前の歴史上の英雄の話だ。この辺りがその人の説明だな。姓張名飛、字翼徳乃燕邦郡范陽人也 生得豹頭環眼 燕頷虎鬚 身長九尺餘 聲若巨鐘 家豪大富」
「それは、どんな意味なんだい?」
「姓は張、名は飛、字が翼徳。身の丈九尺、豹のような頭に丸い大きな目、エラが張った顎には虎のような髭があったと書いてある、その御仁が一丈八尺の蛇矛という武器を振るって活躍するんだ」
「何だか化け物みたいだねえ」
「おうよ。そいつが異国の衣装で立ち回りをする訳だ。この張飛という人はな、盟友関羽と共に、主君の劉備玄徳と桃園の誓いといって義兄弟の契りを結んでいるんだ。その主君の劉備は、呂布に破れて曹操の下に身を寄せていたが、曹操が留守の間にこっそり逃げ出すんだ」
「何だか弱っちい主君だね」
「それだけじゃ終らねえ。劉備が逃げたことに気がついた曹操は追っ手をかける。逃げる劉備は奥方も子供も放り出して逃げていく。そこで張飛がしんがりとして曹操軍に立ち向かうんだ」
「どうやって戦うのさ」
「手勢わずか二十騎を引き連れて数万余の曹操軍を相手に縦横無尽に暴れ回る。そして長坂大橋という橋を落とし、川向こうにひしめく曹操軍に向かって、張飛これにあり、死にたい奴は出て勝負しろ!と大音声を発するんだ。それにひるんだ曹操軍が手を出せずにいる間に主君は無事に落ち延びるってえお話だ」
「いいねえ。きっと江戸っ子には受ける話になるよ」
「そうだろう。異国風の衣装を着て蛇のような刃先の矛を振り回すんだ。客は集まると思うぜ」
お凜が自分の用事を始めたので、再び書き抜きを書き始めたが、構成上どうしても必要な間が気になっていた。
張飛が曹操軍を相手に立ち回りを演じた後で、橋を落とすシーンが入るのだが、立ち回りの直後に大見得を切るのに比べてどうにもすっきりしない。
それがために、この芝居は初演で好評を博してもいつか廃れていくかもしれない。そんな気がしていた。
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