第62話 クマのぬいぐるみ

久しぶりに足を向けた日本橋界隈は相変わらず繁華な場所だった。日本橋の袂から富士山を望むと、家に帰ってきた気分だ。

足を進めていくと瓦葺きのひときわ大きな建物が目にとまる。そいつが父親が歌舞伎をやっている芝居小屋だった。小屋と言っても三層の作りで、回り舞台や奈落を備えた大きな建物だ。

「兄さんこちらです」

「そんなに手を振って呼ばなくても芝居小屋の入り口ってのは一つしかねえからわかるよ」

けちくさい話だが木戸銭を取りっぱぐれないように、芝居小屋には出入り口を沢山作らないのがおきまりだ。風呂敷包みを片手に木戸をくぐると、緊張した表情の父親が待ち構えていた。

「よく帰ってきたな」

ぶっきらぼうな言葉が飛んできたが、別段嫌味で言っているわけではなさそうだ。

「おう、帰ったぜ」

似たような言葉を返すと。それで安心したのか役者連中がわっと取り囲んできた。

「龍吉さん。おひさしぶりでやす」

「ご無沙汰しております」

寄ってくる見知った顔の役者達は、共に暮らしていたも同然であらかた身内みたいなものだ。

「何だよみんな不景気な面をして。役者がそんな面をしていたら客が逃げちまうぜ」

軽口を叩きながら、抱えてきた風呂敷包みを開くと、仕上がった書き抜きを父親に差し出した。

「仕上げたばかりの新しい書き抜きだ。こいつをこの小屋でかけてみな」

父は受け取りながら、曰く言い難い顔をした。

「自分の一座のために書いていたんだろう。いいのか」

遠慮しているのだ。

厳つい表情しか記憶にないので妙に似合わない感じがする。

「いいってことよ。また新しいのを書くさ。官許座の控櫓の名を頂くからには、本櫓には繁盛してもらわないとな」

湿っぽい話は性に合わないので、軽く受け流してから父親や一座の人間と共に楽屋に向かっていると、足元から声が聞こえた。

「龍にい」

弟の息子の貞坊だった。ひょいと抱き上げたが思いの外重い。

「貞坊大きくなったな、俺のことをよく憶えていたな」

「忘れるものか。台詞覚えだっていいんだぞ」

子供は可愛らしいものだ。

自分の子が生まれたらこの子のように育つだろうか。

抱えた重さを感じながらそんなことを考えていた。

楽屋に行き書き抜きを読み終わった父親は一献傾けて行けと、食事に誘ってくれた。

弟と主立った役者数人が加わり、茶屋に出かけることになった。

芝居小屋の周辺には歌舞伎の見物客が夕刻に流れて行く茶屋が立ち並んでいる。そのうち一軒に席を構えていたようだ。

日本橋から江戸橋にかけての魚河岸には目の前の海から上がった新鮮な魚介類が並ぶ。日本橋界隈の茶屋にはうまいものが揃っているのが道理だ。

「龍。お役人には話をしておいた。直にうちの控櫓として興業が打てるはずだ」

会席が始まると父が耳打ちした。

「そうか、ありがてえな、実はそろそろ本格的な舞台装置が欲しいと思っていたんだ。宮地芝居のままでは、本格的な小屋がけすら出来ねえからな」

廻り舞台が有れば素早く舞台の切り替えが出来るので幕間の間を少なくすることが出来る。一事が万事で、見に来てくれる客のために、しっかりした芝居小屋を立てたいと思っていたところだ。

役人に認められた官許座とその控櫓以外は屋根がけした芝居小屋の建設は認められていなかったので、父の申し出は自分にとって渡りに船だった。

「龍さんの一座はそんなに流行っているんですかい」

役者の一人があけすけに聞く。

「まあな、浅草だって門前町で賑わっている。いい本を書けば客の入りは悪くないよ」

「いいですね。うちは最近新作が振るわなくてさっぱりなんです」

そこまで言うと、そいつは座長の父がいるのを思い出したらしく慌てて口をつぐんだ。

「うちは赤穂浪士の討ち入りの一件のあと、当代の現実の人名を使ってはならねえとお達しがあったので、得意にしていた演目が殆ど使えなくなってしまった。ここを飛び出す前におまえが言ったとおりになったよ」

「成り行きだからしょうがねえ。俺はむしろ親父が作った演目の良さが判ってきたところだ。芸に磨きをかけて子に引き継がせようというのは間違っちゃいねえよ」

「そう言ってくれるか。おめえも丸くなったな」

父は嬉しそうに酒を注いでくれた。しかし、今の言葉は自分が労咳にかかったからこそ口から出た言葉だった。

自分の命はもう長くないと思っており、父や弟と関係を修復して、妻や生まれてくるはずの子供の後見を頼めるようにしておきたかったのだ。そして、成功した演目を子供に引き継がせたいという思いも身にしみて判るようになっていた。

「時に、今日の書き抜きだが異国の歴史物とは考えたものだな」

気を取り直したように父が水を向けた。

「おうよ。あちらの国でも平家物語よろしく語り継がれた話があると聞いて取り寄せたんだ。長崎から出回っている清国の絵図を使って衣装をこしらえたら面白いと思うぜ」

それを聞いた弟が言った。

「私にも読ませてくれませんか」

「それがな、汚しちゃいけねえと思って楽屋に置いて来ちまったんだ」

申し訳なさそうに言う父に皆が笑った。

和やかな宴席が終わり、茶屋を後にした。父達と別れて浅草に帰ろうと思っている時に、火の見櫓から半鐘の音が響くのが聞こえた。

「うちの方みたいですぜ」

役者の一人が駆け出したので皆が後を追った。

江戸の街の最大の敵は火事だ。火消し組はあるものの出来ること言えば延焼を避けるために、燃えている家を取り壊したり、風下の家を壊してそこで延焼を防ぐくらいのことだ。

芝居小屋のような大きな建築物が燃えると火消し組でも手が出せなかった。

芝居小屋に戻ってみると、一同の心配どうりに、折からの北西の風にあおられた火は西隣の建物から芝居小屋まで燃え移っていた。

「いけねえ。書き抜きを中に置いたままだった」

父が頭を抱えているところに、小屋にいたらしい役者が駆け寄ってきた。

「座長、書き抜きや運べるものは運び出しました。ただ貞坊ちゃんが」

「貞吉がどうしたんですか」

弟が蒼白な顔で尋ねた。

役者は弟の顔を認めると、申し訳なさそうな顔をした。

「書き抜きを持ち出すと言って火の中に走り込むのを見たという者がいます。火消し組みと一緒に探しに入ろうとしたんですが火の勢いが強くてもう無理だと言われて」

「貞吉」

燃え盛る炎に飛び込もうとした弟を数人の役者が引き留めた。火の勢いは強かった。

「そいつを押さえていろ。おれが隣から屋根に登って探してやる」

掘り割りからくみ上げたらしい桶に入った水を見つけて、そいつを頭からかぶりながら言った。

「旦那無理ですぜ、死んじまう」

火消し組の一人が止めるのを振り切って、風下の家の屋根によじ登った。

「貞坊を見つけたら屋根から放り投げる。受け止める準備をしとけ」

弟を取り押さえている役者達に怒鳴ると皆がうなずくのが見えた。

隣の屋根からひょいと飛び移ると芝居小屋の屋根瓦は草履越しに感じられる程熱かった。目指すのは屋根の褄部分だった。そこには換気のための窓が作られていて隙間から潜り込むことが出来る。

「子供の頃は火消しになりたいと思ったもんだ。真似事が出来て結構だ」

独り言を言いながら次第に急になる屋根をよじ登り、とうとう窓に取り付くことが出来た。

窓からは煙が吹き出してくる。煙を吸わないように袂で口を押さえながら中にはいるが中は煙が立ちこめていた。吹き抜けの階下では炎が広がっているのが見える。

「貞坊やっぱり駄目か」

あきらめようとした時、足先に柔らかいものが触った。しゃがみ込んでみると子供の体が横たわっていた。探していた貞吉だ。

「ここまで逃げていたのか、賢い奴だ」

足元の辺りは煙が薄く、きっとまだ大丈夫だ。

貞吉を抱き上げると元来た窓を目指し、窓の縁を乗り越えて屋根の上を慎重に降りた。

屋根の縁まで降りると、下ではどこから持ってきたのか布団を広げて受け取ろうとしていた。

「受け止めてくれ」

背負ってきた子供の体を力一杯放り投げると、布団を広げていた人達は懸命に動いてどうにか子供の体を布団で受けた。

上出来だ。さて自分はどうやって屋根から降りようか。降りられる場所を探そうと一、二歩足を出したとき、盛大に火の粉を上げて屋根が崩落した。

火消しの連中が危ねえと言っていたのはこのことだったのか。そう気がついたのは、焼けた瓦や木材が我が身を押しつぶした後だった。

瓦礫に押しつぶされる激痛を感じた僕は身じろぎした。根付けに付着していた記憶はそこまでだったようだ。

「あのちょんまげの人、龍吉と呼ばれていたじゃないか。二代目寛三郎と呼んだのは後世の人なのかも知れないな」

根付けを片手に持ったまま一之助さんがつぶやいた。先ほどまでいたはずの二代目寛三郎さんは姿が見えない。

僕は、目をしばたいた。追体験した記憶が生々しくて現実になじめなかったのだ。ここは山葉さんや一之助さんと訪れた六本木のクラブの中だ。

そういえば。山葉さんの姿が見えないのは何故だ。僕が考えたとき、山葉さんがふらりとVIP席に戻ってきた。

「どうしたんだ二人とも、男同士で手なんか握っているとそういう趣味かと思われるぞ」

山葉さんに指摘されて僕は慌てて手を引っ込めた。

「あなたがお祓いし損ねた僕の先祖の霊に過去の記憶を見せられていたんですよ」

一之助さんは手短に自分たちが体験した出来事を告げようとしたが、山葉さんは額に手を当てて考え込んでから口を開いた。

「飲み過ぎて酔っぱらったみたいだ。もう一度初めから話してくれ」

結局、僕と一之助さんが交互に体験したことを話し、山葉さんは黙って聞いていたがやがて一之助さんに言った。

「二代目寛三郎さんが伝えたかったのは、あなたが歌舞伎の草創期に活躍した自分の記憶に影響されて、必要以上に新しいものに取り組もうとして焦りを感じている。そしてそれが過度の飲酒に繋がっているということでしょうね」

一之助さんは目を閉じてじっと考えた後で答えた。

「僕が勘違いして空回りしていたと言いたいのですね」

僕は彼が気を悪くしたのではないかと気が気ではなかったが、山葉さんは黙って微笑んでいる。

彼はため息をつくと僕たちに告げた。

「今日はもう遅いからお開きにしましょう。機会があったら、またご一緒していただけたら嬉しいですが」

「是非お願いします」

山葉さんは笑顔で答えて、更に付け足した。

「今日はもうお酒は飲まないのですか」

「もう十分です。しばらくの間お酒は控えてみますよ」

そう答えた彼は、何だかすっきりした顔をしているように見えた。

一之助さんは帰りのタクシーまで手配してくれた。料金も自分につけ回しさせる気の配りようだった。

深夜なので下北沢まで大して時間はかからなかったが、山葉さんはタクシーの中で寝込んでしまった。

やはり飲み過ぎていたのだ。

呼びかけても起きてくれないので僕は彼女をカフェ青葉の二階にある彼女の部屋まで運ぶことにした。

時間がかかりそうなのでタクシーは返したが、自分もかなり酔っているので鍵を探すのが一苦労だ。

山葉さんを担いでどうにかカフェ青葉の二階の彼女の部屋まで運んだ。僕は今まで中を覗いたことがない彼女のプライベートな空間だ。

部屋のインテリはパステル調で思ったよりも可愛らしく、ベッドの上にはクマのぬいぐるみが鎮座している。

山葉さんをベッドに降ろしたところで、緊張の糸が切れたためか僕の意識はふっつりと途切れた。

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