第33話 『僕はまだ』

 ライオンを象った巨大な時計の二本の針が正午を指すと同時に鳴り響く鐘の音と非常ベル。重なり響く二つの音に掻き消されて、桃井と共に去って行ったあの女性職員を打ち抜いた銃声は僕の耳まで届かなかった。

 けれど、数時間前よりいくらか服装を乱した状態でヒーロー展示コーナーの受付をしていた中島知美の胸元が弾丸で打ち抜かれ一瞬で絶命しばたんとその場で倒れ込んだ瞬間は十数人に目撃をされていた。彼女の体を貫通した弾丸がその真後ろに存在していた非常ベルに突き刺さったことは偶然なのか必然なのかはわからない。けたたましい騒音がいくつも同時に発生をした数分後に館内放送が流されて、全員外に出されるように促される。



『――本日は、東都近代美術館にご来館されまして誠にありがとうございます。真に勝手ながら、本日は閉館することになりました。全てのご来館のお客様は、係員の指示に従いお帰りなさるようお願いします。繰り返します……』



 ヒーロー展から森の広場は遠すぎて、光の速さでは人の悲鳴も騒動も伝わらない。くたびれかけたソファでジュースを飲んだりディスプレイを見たりとそれぞれの時間を過ごしていた人々は意味もなく宙を見上げ、訳が分からず首を傾げていた。勿論僕もその一人。なんでいきなり閉館なんだ、閉館時間は午後十九時じゃないのかまだたっぷり九時間はあるじゃないかと思っていると、広い通路から出口側に向かいばたばたと人が数人駆けてくる。腹の突き出た中年の夫婦や若いカップル、子連れ。青い顔をし手で口元を抑えた人たちの中には、十数分前に僕がジュースを分け与えたあの子も混じっていて、僕と同じなにもわかっていない表情で父親の腕に抱えられていた。僕の前を通り過ぎる一瞬で目が合い、「にーちゃ」と口を開いたのだけれど、それと同時に手に持っていたプラスチック製の剣がその子の手から転げ落ちる。その子は父親の腕から「あー」などと言いながら短い腕を伸ばすのだけれど、厳しい顔をした父親はそんなことなど気にしない。主を失ったヒーローの武器は沢山の足に蹴飛ばされて、いくつもの怪我を負った状態で僕の足元までやってくる。やたら軽い。子供が抱えていたときはとんでもなく大きく見えたはずなのに。正義のヒーローはこんなもので世界の平和を守っているのだろうか。

 そんなことを考えながら指先で刃をなぞっていると、誰かが僕の名前を読んでいることに気が付いた。苗字、ではなく名前。名前だ。

「トール!」

 僕のことを名前で呼ぶやつなんて限られている。案の定、野々村慎吾と植草宏英。野々村と植草は草の芽をかき分けるようにして無理やりこちらにやってきた。二人ともひどく興奮している。なにか珍しいものを見たかのような、それでいて恐ろしいものを見たかのような、好奇心に溢れた表情をしている。そういえば二人は、ヒーロー展を見ていたのではなかっただろうか。僕がそれを問う前に、野々村が僕の両肩をがしっと掴み

「おいトール! 事件だよ事件! 殺人事件!」

「……はぁ?」

 これは僕。

「だーかーらっ! 事件だって! 殺人事件―!」

 あまりに突然の展開についていけず、両肩を左右に揺らす野々村にされるがままになっている僕に助け舟を出したのは植草。

「展示コーナーの受付嬢が銃で撃たれたんだ。それで今大騒ぎになってる」

 ああ、なるほど。それで美術館が急遽閉館になったのかー、などとのんきにぼんやり考えていると、周囲で僕と同じようにぼけっとしていた人たちも状況を把握したらしく、出口に向かい殺到する人、その事件現場を一度見てやろうとヒーロー展に逆走する人で、森の広場はごった返す。左右からくる波に身動きが取れずにごった返していると、僕の背中になにか頭のようなものがごつりと当たる。何気なく振り向くと、そこにいたのは友人を連れた尾坂奈緒。何かを探すようにしてきょろきょろと周囲を見渡していた尾坂は、自分がぶつかったことに気がついて謝罪の言葉を述べようとしたのだけれど、そのぶつかった相手が僕であるということに気がついて、さぁっ、と顔色を青くする。けれど、人見知りせず誰にでも話しかけることのできる野々村が話しかけたことにより、その表情がいくらか和らぐ。

「聞いたかよ尾坂! 殺人事件だよ殺人事件!!」

 それに反応を示したのは尾坂ではなく別の女子。

「聞いた聞いた。銃で撃たれたんだってね!」

「風間せんせーが、最初に集まったブロンズ像の広場に集合だって」

 殺人事件などというと身の毛もよだつ階段話よりも恐ろしいような気がするが、この好奇心旺盛な中学生たちにとっては違うらしい。テレビの中で笑顔を振りまいているアイドルがやってきて目の前で歌や踊りを披露してくれるライブのような、決して畏怖の対象ではなく、もの珍しいちょっとしたイベントごとのようなものだ。

 野々村達がアイドルの色紙をねだるかのようなテンションでぺちゃくちゃとしゃべりまくっている間にも尾坂はずっときょろきょろしていて、それに気がついた植草が問いかける。

「尾坂、さっきからきょろきょろしてるけど、何探してんの?」 

 文字通り口から先に生まれたような野々村に対し、植草はかなりクールだ。年齢問わず誰にでもそう簡単に話しけるわけではない。僕はこのとき、植草が自ら進んでクラスの女子と会話をしているのを初めて見た。

 けれど、探すことに一生懸命な尾坂はそんなことになど気にも留めず

「文乃がいないの。はぐれちゃって……少し前にトイレに行くっていってそのまんま……探してるんだけどどこにもいないの。どこにいったのかわかんない……」

 不安に揺れる彼女の言葉に、僕は少しばかり呆れたようなため息を吐く。

 またか、というかやはり、というか。どうもこうも穂積文乃という人物は、面倒ごとや厄介ごとしか運んでこない。

 どこまでもクールな植草は「でも、集合場所知ってるんだろ」というのだけれど、尾坂は左右に首を振り

「わかんない……私たちが風間先生に会ったときもう人ごみに流されてたから……あのときはもういなかったかも。文乃ちっちゃいし、鈍くさいから……迷子になって泣いてるかも……」

 僕は考える。小学生程度の体躯しかない小さな文乃。縦にも横にも小さな彼女が、僕や野々村や植草でさえ碌に身動きの取れないような人間の波に流される。どうしたって、躓いて転んで外れた眼鏡を拾おうとして手を踏まれ眼鏡は壊され転んだまま立ち上がることもままならずそのまま床と一体化する文乃しか想像が出来ない。

 いやいや、彼女も中学生だしなどと思いつつ顔を上げると、遠くのほうで屈強な体躯の警備員が太った中年女性に突き飛ばされているのが目に入った。

 駄目だ。

 あんな筋肉の塊のような成人男性さえも逆らうことの出来ない波だ。生まれたての子山羊のような文乃が立ち向かえるはずがない。今いる場所すらわからず現状も把握できず、涙目でうろうろしているような姿しか想像ができない。

 押し寄せる人の中、僕は小さくため息をつくと、ろくに身動きの出来ない中無理やり体を反転させた。

「どうしたんだよ、安西」

 これは植草。僕は、木の根を引っこ抜くようにして無理やり一歩踏み出すと、

「穂積さん探してくる」

「はぁ?」

 これは野々村。その隣で揉まれていた植草が、阿保面で突っ立っているルームメイトに反応を示す。

「どうかしたのかよ」

「穂積さん探してくる」

「え、マジで」

「マジで」

「探すったって、どこにいるかわかんねーじゃんこの状況じゃあ」

 確かに。この、アホみたいに押し寄せ続ける人ごみの中では、発信機でもつけていないと見つけられない。野々村や植草だったらまだしも、小さな文乃では余計無理だ。ここで僕が飛び出していっても恐らくきっと迷子になって、余計な手間が増えるだけだ。

 どうしよう、どうするべきか。二歩ほど踏み出した足を止めて、人の流れに身を任せていると、植草が機転を利かす。

「尾坂、穂積とどこで逸れたんだよ」

「え?」

「安西が探してきてくれるってよ。どこら辺で逸れたんだよ」

 尾坂はひどく不安げな表情で僕と植草の顔を見比べたあと、恐々とした様子でこういった。

「二階……二階の、日本画家展のとこ……」

「トイレは見たのかよ」

 尾坂は、植草の問いかけに対し上下に小さく首を振った。

「最初に見たけど、いなくて……探したんだけど、見つからなくて」

「だってよ安西。とりあえず、二階探せばいいんじゃねーの」

 全く、植草はひどく頼りになるやつだ。落ち着きがなくて常にあちらこちらに飛び回っているような野々村に対し、平静で冷静で、決して焦らず取り乱さない。いや、もしかして胸中では意外と焦っていたり取り乱したりしているのかもしれないが、それを殆ど表さない。非常によく周囲を見ている男だ。

「せんせーには言っておいてやるからよ。早く行けよ。集合場所、最初集まったとこだからなー!」

 そういう植草に礼を言い、僕は再び止めた足を動かし始めた。後ろから植草の声が聞こえてくる。『集合場所、最初集まったとこだからなー!ブロンズ像のとこだからなー!!』わかっている。

 どこまでもクールな植草と違い、僕はこの波の中身動きを取ることで一生懸命で、周囲のことなど一切何も見えていなかった。人々がカメラで写真を撮ったり携帯で通話をしていることも見ていなかったし、自分の足が踏まれたことすらわからなかった。波から避難している桃井がぼんやりと煙草を吸っていることも気がつかなかったし、その桃井の前を通り過ぎたことも気がつかなかった。持っていたはずのヒーローの剣が転げ落ちていたことも気がつかなかったし、その剣が蹴飛ばされ蹴飛ばされ桃井の足元に行き着いたこともそれを桃井が拾い上げたことも気がつかなかった。

 けれど、剣を拾い上げた桃井の元に電話が掛かってきたことと、その電話がたまたまリコリスからだったことを知らなかったのは不可抗力だ。

 押し寄せる人を掻き分けて潜り抜け階段を上がる。途中、青い制服を着た警備員に「こら、君!」と呼ばれたけれど気にしない。人が無駄にごった返している一階フロアに比べ、二階は全く人気がない。誰もいない。唯一右手で股間だけを隠しているやたらマッチョが男性のブロンズ像がいるだけで、人の形はどこにもない。妙に眉毛の濃い男性だとか口紅だけ赤々しく強調されている日本女性の絵画だとかは飾ってあるが、二次元なのでアウトだろう。

 妙な空間だ。誰もいなくて静かなのに、空気を伝い騒がしく動く人の気配が伝わってくる。僕が一歩踏み出すたびに、革靴の底が床の表面を叩く音がやたら大きく響き渡る。それが妙に気に障って、 僕の心の柔らかい部分を刺繍針のような小さな針でちくちくさした。

 二階に上がった僕はまずトイレを探す。二階にはトイレが二箇所ある。さすがに躊躇はしたけれど、誰もいない――少なくとも文乃以外は――自信があったので遠慮なく進入した。名前を呼んで、一つ一つ個室の扉を開けながら確認する。『トイレは確認したらしいよ』という、植草の言葉を忘れていたわけではない。もしかしたら、隠れ潜んでいるかもしれないという儚い希望を持ってのことだ。僕の期待は泡に消え、文乃どころか、人っ子一人いなかった。完全に外れた。

 一体何をやっているんだなんでわざわざ女子トイレなんぞに進入したのかと自問自答しながら次の目当てを探し始める。

 人が行きそうな場所。鈍くさくて怖がりで小心者の文乃が隠れてしまいそうな場所。トイレ、倉庫、更衣室。 日本画展を通り過ぎた先の通路に、長い長方形の台が設置してある。「わくわくランド」という名称がつけられたその場所は幼児のための体験コーナーだったらしく、書きかけの画用紙に切りかけの折り紙、クレヨン、鋏などが散らばっている。どれもこれも子供サイズで僕の手には小さすぎる。

 それを意味もなくちょきちょきと動かしながら、僕は思う。

 もしかして、文乃が「隠れている」「迷っている」というのは僕らの思い込みで、本当の文乃はここにはいないのではないだろうか。尾坂や他の女子と別れてトイレに行った文乃は、尾坂や僕たちではない他の誰かやクラスメイトに遭遇をして、そのまま外に出て行ったのではないだろうか。すでに文乃は、外の広間のブロンズ像のところに集合をして、何食わぬ顔で他のクラスメイトと共に並んでいるのではないのだろうか。

 文乃だって中学生だ。幼稚園児や小学生では決してない。もしかして僕たちは、文乃のことを少し舐めて見すぎているのかもしれない。

 戻ろうか、と思う。殆どの人間は皆館外であろうし、植草が先生に言ってくれていると言っていたが、先生は先生で僕を探しているかもしれない。

 などということを考えながら、僕はくるりと踵を返した。

 そういえば、拾ったヒーローの剣は一体どこに消えたのだろう。尾坂と会ったときは持っていたはずだ――大方、人ごみを抜ける途中でぶつかって落したのだろうが。

 僕一人分の足音なんてそんな大きくないはずなのに、ネズミの子一人いないこの場所ではかなり大きく聞こえる。こつんこつん、かつんかつんという二人分の足音が――

「……二人分?」

 そこで僕は違和感に気がついて、足を止める。だが足音は止まらない。誰かいる。僕の他に誰かいるんだ。

 ふいっと顔を上げると、股間を隠したブロンズ像の奥に人影が見えた。一瞬だけ姿を見せたその影は、僕に正体を見せることなくあっというまに消えた。誰なのかわからない。見えたのは影だけで、全く姿が見えなかった。けれど、誰かいる。男なのか女なのかわからないけれど、誰かいるんだ。

「……穂積さん?」

 足音が少しずつ遠くなる。僕の問いかけに返答はなく、反響をし鼓膜に響いてその場に溶けた。

 鋏を持ったままの僕はその影を追いかける。誰なのかわからない影を追いかけて角を曲がる。きっちり90度、青々と茂った観葉植物の隣。そこにあったのは行き止まりで、待っていたのは水玉柄の林檎のオブジェだけ。

「なんだよ……」

 一体影はどこに消えてしまったのだろう。無駄に息を切らして汗をかいて、僕は一体何をしているんだ。

 僕は気がつかなかった。やはり僕は植草ほど周りが見えている訳でもなくリコリスほど注意深い訳でもなく、だからといって桃井ほど勘が働く訳でもなかったんだ。

 そんな僕がうっかり背中を取られてしまって、頭をがつんと殴られてしまっても仕方のないことだったのだ。このときほどリコリスの言葉を守らなかったことを後悔したことはなかった――『絶対に背後を取られないように。取られたらすぐにぐさっとやられるからね』――そんなこと今更思い出してももう遅い。薄れ行く意識の中に水玉柄のりんごのオブジェが見える。何で羽が生えてるんだ――何でもかんでも羽を生やせばいいってものでもないだろうなどと考えつつ床に転げる。夢を現実の間に靴が見える。そしてズボン。ズボンの裾。鉛のような頭を無理に動かして天を見る。顔がわからない――半袖のパーカーから日に焼けた腕が見える。その腕に抱えられたライフルには見覚えがあった。

 その人物が誰だかわかった瞬間に、頭にもう一度ライフルが振り下ろされ僕の意識は完全に落ちる。

(黒田……)

 なぁ黒田。

 僕はまだ、お前に借りた240円を返していないんだよ――



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