第32話 『座っても、いいですか』

 今回課外授業として美術館を見学するに従い学校側から出された課題がいくつかある。

 ひとつはプリント。今回東都美術館に展示されている画家の名前を三人と、その画家の作品名を明記すること。また、その画家の中から一人更に厳選して、その画家のプロフィール及び生涯を調べておくこと。

 今回この美術館で開催されているのはエコレンジャーだけではなく、むしろこちらが主役。「中世ヨーロッパを改革した画家たち」専用コーナー入り口辺りには、口髭が豊かな割りに頭がやたらと薄かったり一人や二人殺してそうなくらいに目つきの鋭かったりする頑固そうな画家数人の肖像画が並んでいた。その画家一人ひとりにおける一冊三千円程度の分厚い冊子も販売されていて、千円程度でヘッドホンを借りればアナウンスによる画家の説明なら一枚一枚の絵に込められた意味やらその絵が出来上がるまでの過程やらが聴けるらしいのだけれど、遊び半分で来ている僕らには、そこまでお金をかけて知りたいような情報はどこにもない。僕たちに必要な情報は、バインダーにくくりつけたプリントに書くだけで十分だ。 

 難しい作業など決してない、ただ見て書くだけという単純な作業だったのだけれど、美術館にも油絵にも慣れない僕はなんだかとても疲れてしまった。わけのわからない水玉模様も、油絵の具を塗りたくったような農場の絵も、芸術的感性の乏しい僕の精神を削るには充分すぎるものだったのだ。

「行かないのかよー、安西。置いてくぜー」

「何だよ、体力のないやつだなぁ」

 と散々どやされて囃されて、僕はひとり、一階広間で休憩を取ることにする。

「森の広場」という名称のついたスペースはそこそこ広い。僕だけではなく、つまらない展示会に飽きたらしい名前の知らない同級生やぐずる子供を抱えた親子連れ、喧嘩をいているカップルなど様々な人が混在していた。

 少し疲れたな、と僕は思う。軽く眩暈がする感じがして、頭が少しくらくらする。喉が渇いた。財布の中からコインを取り出し、自販機のボタンを押す。色々な種類の飲み物があるけど、オレンジジュースがいい。炭酸はあまり好きじゃない。含んだ瞬間口の中に広がる刺激だとか腹に空気が溜まるような感覚に、僕はまだ、あまり慣れることができない。

 ボックスの中からオレンジ色の小さな缶を取り出してどこに座ろうかと辺りをきょろきょろ見回していると、左足の辺りにどん、という軽い衝突音を感じて僕は全身を揺るがせる。

 小さな子供だ。大きさで言えば、大体僕の膝下くらい。「エコレンジャー」と派手に描かれたプリントTシャツを着込み、プラスチック製の剣を持っているその男児は、尻餅をついた状態でじぃっ、と僕のことを見上げていた。体の割りに妙に頭が大きい。リコリスの持っていた黒い宝石みたいなでっかい瞳が、瞬きもせず僕のことを見上げている。尻餅をついたまま一向に動こうとしないので、起きないのかな、起きれないのか、そんなに頭が重いのか、などと考えて、僕は小さな子供の短い両手をひっぱり起こして見ることに決める。

 小さな子供の体は僕の知っているものよりもずっとか弱く柔らかくて、この短い腕が胴体からすっぽ抜けてしまうのではないかと思うのだけれど、子供の体というものは意外と頑丈に出来ているらしい。

 小さな子供は自分の頭の重さにふらふらとしながら、ひどく不安定な様子で――それでも腕と胴体が離れ離れになることは決してなく――立ち上がった。それと同時に、シャツと同じくエコレンジャーのプリントされた真っ赤な靴がぷきゅりという潰れたような音を立てる。怪我はしてないらしい。泣いてもいない。あまりにも表情が変わらないので、試しに持っていたジュースの缶を饅頭みたいな頬に当てると、「つべたぁーい」とほにゃりと笑った。

「なにしてるの?」

「んとねぇー。ひーくん、れっどみにきたのぉー」

「れっど?」

「んぅ。ぱぱとままときたのぉー」

「へぇ」

「ひーくん、おれんじすきぃー」

「へぇ」

 などと暇潰し程度の会話をして、僕が買ったオレンジジュースにその子供が口つけた頃、その子の親らしき人物がやってくる。

「こら弘樹、なにしてんだー」

「ぱぱー。あのねー、お兄ちゃんがねー。じゅーすくれたのー」

「ジュース? ああああ、すいませんー」

 年齢だけでいえば、桃井やリコリスと同じか、もしくは少し上だろうか。社長よりも若そうな気もするし、逆にもう少し上のような気だってする。

 父親であろうその男は、僕に向かって二、三回謝罪をすると、男児の手を引きつつ去っていった。その視線の先には母親らしき女もいて、体の割りにやたら腹だけ太っているな、と思うのだけれど、すぐに妊娠をしているのだということに気がついた。

 ぷきゅぷきゅという靴の音がなくなった僕の周りはまた少し静かになって、残ったのは口の開いた缶ジュースのみ。

 今度こそ腰を落ち着かせて休憩をしようと座り込んだ僕の正面に落ちる、黒い影。桃井に続いて小さな子供。次は一体なんなんだなどと思いつつ顔を上げると、そこにいたのは同じ制服を着た恐らく同じ学校の女生徒。ひどく体が小さい割に分厚い冊子を持っている。あれだ、油絵のコーナーで売っていた一冊三千円の冊子だ。

 見覚えのあるおさげにやぼったい黒縁眼鏡。頼りなさげなその容姿に、疲れた僕の脳みそは、ええと一体誰だったっけと思うのだけれど、その疑問は一瞬で解消される。

 忘れてた。

 穂積文乃だ。

 規定通りの制服を規定通りに着込んだ文乃は、冴えることのない地味な風貌をそのまま風景の一部に溶かしてしまうようにして、そこにいた。桃井のような強烈な存在感も幼児のような微笑ましさもなにもなく。一体いつの間に現れたのだろう。

 文乃は分厚い冊子とバインダーを両手で持って、僕の様子を覗うように上目使いでこちらを見た。

「あんざい、くん」

「うん」

「休憩、中?」

「そうだよ」

「……」

「……」

「隣……」

「うん」

「座っても、いいですか……?」

 どうして敬語なのだろうなどと思うのだけれど、断る理由は特にない。

 いいよ、と短く答えると、大体いつも緊張したような顔をしている奈々恵はいくらか表情を和らげた。大抵の場合強張って上がっているはずの両肩から力が抜けて、少し落ちる。

 ひとりぼっちの穂積文乃。文乃がひとりぼっちなのはいつものことなのだけれど、今日に限っては尾坂奈緒のグループに混ぜてもらい、一緒に行動していたはずだ。どうしてまたひとりでここにいるのだろう。例の如くハブられでもしたのだろうかなどと思うのだけれど、どうやらそれは違ったらしい。

「奈緒ちゃん達、まだ向こういるの……滝川美鈴見てるって……」

 滝川美鈴は東都美術館で同時開催されているオブジェの作者だ。70を過ぎたおばちゃんならぬおばあちゃんなのだけれど、水玉やらハート柄やら星模様が大好きで、それらをモチーフにした林檎やらかぼちゃやらのオブジェを独自のセンスで創造して、世界的な評価を得ているらしい。らしい、が、あの独特すぎる不思議なセンスは、僕のような一般人には正直理解がしにくかった。

「穂積さんは見に行かないの?」

「……?」

「滝川美鈴。尾坂さんとか他の女子、みんな見に行ってるんじゃないの?」

 これは事実。今ここの休憩所にいるのは僕と文乃とその他の一般来客だけで、同じ学校の他の生徒は見当たらない。ヨーロッパの画家についてさらっと調べた男子生徒はさっさとエコレンジャーに向かっているし、尾坂を含むその他の女子は滝川美鈴で独自のセンスを磨いているはずだ。

 すると文乃は、揃えた両膝の上に分厚い冊子を丁寧に乗せこう言った。

「わたし、体力なくて、すぐ、疲れちゃって……」

「うん」」

「だから……奈緒ちゃん達にお願いして、休憩してるの」

「そう」

「あの」

「うん?」

 文乃はここで初めて僕の顔をちゃんと見る。

「安西君は、どうしたの……?」

 分厚い眼鏡の奥に光る、ひどく大きい文乃の瞳。

 オレンジジュースを一口飲んで、僕は答えた。

「僕も同じ」

「?」

「疲れて、ついてけなくなったから。だから休んでるんだ」

 そう言って特に意味もなく足を組み、体を反らした。両手を掲げて背筋を伸ばすと、背中がばきばきという音を立てる。

 文乃は、そんな僕のことを真ん丸とした瞳で見て、それから表情を綻ばせた。綻ばせた、ただそれだけ。それだけのことが僕と文乃の距離を近づけることもだからといって遠ざけることもしない。並んで座っているだけの、ただそれだけの穏やかで緩い時間。

 僕が350mlのオレンジジュースを飲み終わる頃に、滝川美鈴オブジェ展でセンスを磨いてきたらしい尾坂奈緒他数人が、ばたばたという賑やかしい音を立てながらこちらに向かってやってくる。

「ふーみーのー!」

 僕のことを押しのけて、ぺたりとベンチに座り込む文乃を囲む見知った顔の女子三人。

「聞いてよ文乃ー! オブジェ展さぁ、黄色と青の水色のかぼちゃとかハート模様の埴輪のバルーンとかわけわかんないのばっかりで、全然可愛くないのー」

「可愛いよ! 星柄の兎とか超かわいいじゃん!」

「あれはセンスが分かれるところだと思うけど」

「それよりさぁ、ヨーロッパの画家の課題終わった? まだ私終わってないんだけど」

「文乃文乃。向こうに自習室あったから、そっちでやろうよ」

 ベンチの端に追いやられた僕のことなど気にも留めず、まるでマシンガンのように言葉を発する彼女達。珍しく輪の中心に存在をする文乃は、次々に繰り出されるマシンガンにぽかんと口を開いていたが、そのうち自分の肩に触れ腕を掴む友人達に表情を緩ませた。尾坂に引かれて立ち上がる文乃。去る直前に、僕を気にするようにしてこちらを向いて眉を寄せたが、僕は気にするなというようにしてひょいひょいと手を動かす。

 僕のことなど全くもって気にも留めずそれどころか気が付いていなかったであろう尾坂は、そこで漸くベンチの隅に追いやられた僕の存在に気が付いたらしく、さっと顔色を青く染める。ただそれだけ。青く染めたからと言って、僕が制服の内ポケットから銃を取り出すこともなくカッターで切りつけることもなく、そこで終わる。騒がしく来て騒がしく去って行った。リコリスもそうだけれど、女子というのはどうしてこうも騒がしいのだろう。

 ジュースを飲みきり、正面にある巨大なディスプレイに映る次回の展示の宣伝が五度目の繰り返しを迎えるころには、そろそろ僕も飽き飽きしてくる。お腹も少し空いてきた。時間を見ればそろそろ十二時。野々村と植草は一体どこにいったのだろう。

 そろそろ探しにいこうかな、などと考えて、ジュースの空き缶をダストシュートに投げ込んだその時に。

 事件は起きる。

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