第31話 『気ぃつけてな』

 リコリスの元同僚で静岡支社にいるはずの桃井薫がどうして平日の都内で行われている美術展覧会などにいるのか。

 曰く、

「俺なー、こないだんとき、こないだっつーのはトールちゃんと初めて会っときやけど、ユキヒコくんのパパさん死んでもぉたやん? 俺あのあとすぐに支部長に電話したんよ。ほならすげー怒られてさー、ワレ仕事の一つもこなせへんのか給料下げるぞこの野郎って言われてさあ。俺先月車新しいの買ったのよー。前つこうてたのが古くなってさぁ、でっかいワゴンにしたんよ。そのローンまだようさん残っとるから今給料下げられるとまずいのね? んで、部長に土下座して頼み込んで、二週間ここで働くことを条件に許してもろたんよー」

 などとけらけらと笑い続ける桃井。確かに美術館内には至る所に堅苦しい制服に身を包み込んだ厳格そうな警備員が置かれているが、桃井の恰好はジーンズに黒いシャツ、黒いジャケットと警備員とは遠く掛け離れた格好だ。不審者を取り締まるというよりも渋谷や池袋を歩き回って悪さをして取り締まられているように見える。

「やぁねトールちゃん。私服警官て知らへんの?それとおんなじ。私服を着といて油断させといて、悪いやつを捕まえるのよ」

 お前は警官ではなく警備員だなどと思うのだけれど、時々すれ違うガタイのよい警備員が電柱のような高さを持ち合わせる桃井にびくりと肩を震わせたあと、慌てて会釈しているその様に、桃井に措ける予想外な地位の高さの欠片を見る。

「えぇ? ちゃうよぉ? まさかトールちゃんがこんなとこにおるとは思わんって。リコリスがここ暫く風呂も入れんくらいに忙しいっつーことは風の噂で聞いとったけど。まっさかトールちゃんが仕事もせんでこんなとこに遊びに来てるなんて知らんて」

「別に遊びに来てるわけじゃないんだけど……」

「あ? そんなヤな顔せんでもヘーキやって。ちゃうねん、冗談やって。ガッコの行事やろ? いやー、ガクセーさんは大変やねー」

 軽快に煙草を吹かす桃井からは、決して大変そうである、というような感情は読み取れないのだけれど。

 今僕達がいるところは美術館の外の広間。入り口まであと数十メートルという、そういうところ。石畳が敷かれたこの場所は、寝転がった裸の女の銅像だとか芝生の上にベンチだとかそういうものはあるのだけれど、ゴミ箱の類は一切ない。自動販売機どころか水飲み場すらない。美化を強要されているかのようなこの場所で煙草を吸うことなど果たして許されるのだろうか。いつまでもいつまでもしゃべり続ける桃井の言葉を聞き流しつつ適当な相槌を打っていると、何かに気がついたらしい若い女性(首から名前の書かれたプレートがぶら下がっている。東都近代美術館職員 中島知美と書かれている)が、短いスカートでヒールをかつかつ鳴らしながら小走り気味にやってきた。それから、花壇に腰掛け長い足を組み爽やかに煙草を吹かす桃井の姿に顔を赤らめた。

「あ、あのー……」

「えー? なにー?」

「ここー、禁煙なんですよー。喫煙場所は別にあってー」

 などとうんたらかんたら会話をして、最終的に桃井はその女性職員の肩を抱いて立ち上がった。

「ほななぇ、トールちゃん。わいぼちぼち行くさかいに。リコリスによろしくねー」

 などという桃井はすでに僕に背を向けていて、その隣には桃井に熱い視線を送る職員の女性。なんのために来たんだ仕事に来たんじゃなかったのかなどと思うのだけれど、それを追求することは無駄な気がしてそこで止める。

 なんとなく疲れてため息を吐く僕のことなど気にもせず、女性職員の肩を抱いた桃井は、軽快に談話をしながらどんどんどんどん歩いていく。が、途中で一度何かを思いついたようにして立ち止まると、女性職員の肩を抱いたまま肩越しに振り向いた。

「そや、トールちゃん。言い忘れてたわ。気ぃつけてな。ユキヒコくんのことだけじゃなくて、他のことも色々な。人は見かけによらん言うさかいに。文乃ちゃん、あんなちっさい容姿してて、なかなか意外と手強いで」

 桃井はなんてことないような口調でそう言うと、「ほなまたなー」などと言いながら再び前を向き歩き出した。意味もわからずぽかんとする僕のことなど露知らず、どんどんどんどん遠くなる桃井の背中。どういうことだ? 気をつけるとは一体何のことだろう。それ以前に、僕は桃井に文乃の話などしただろうか。手強いとは、桃井は文乃のことを知っているのか? 桃井は一体、文乃の何を知っているのだろう。

 想定外な桃井の発言により僕の思考がぼんやり迷子になっているうちに、トイレに行っていた野々村と植草が帰ってくる。

 一体どれほどの時間が経っただろう。たかが十数分されど十数分。とても時間が経ったような気もするし大して経っていないような気だってする。

 けれど、その十数分の中で野々村の顔色は、つい先ほどまでの腐りかかった灰色から太陽のような艶やかさを含んだ肌色へとかなり良好な回復を示していた。

「お待たせトールー!」

 なんて叫びながらステップを踏む野々村からは十数分前の様子など欠片も見えず、その代わりにぐったりとしているのは野々村の数歩後ろから歩いてくる二人分の荷物を抱えた植草宏英。

「おかえり。長かったね」

「わりーわりー! 気持ちわりーついでに腹も痛くなっちまってよー!」

「お前食いすぎなんだよ。あんだけ食えば上からも下からも出てくるよ」

 植草はうんざりとそう言うと、抱えた荷物の半分を野々村の顔に押し付けた。そんなに食べていただろうか、と僕は少し思うのだけれど、そういえば野々村はバスの中でポテトチップスやらチョコレートやらクッキーやらありとあらゆるものを口に運んでいた気がする。

 体調の回復した野々村は、ひどく輝きに溢れた瞳で僕の顔を覗き込んできた。

「なぁなぁトール、今の人誰? 知り合い?」

「今の人?」

「そうそう。今までここで話してたじゃん。すげー背が高い人」

「自販機くらいあるんじゃねーの?」

「背が高くて足が長くて、すげーかっこよかった。なにあの人、芸能人? どういう関係なんだよ」

 自販機よりは低いと思うが。

 知り合いか、といわれて僕は少し考える。確かに知り合いではあるのだけれど、桃井と僕の関係性には明確な名前がつけられない。友達ではないし、クラスメイトでも決してない。だからといって血の繋がりがあるわけでもなければ、職場の同僚などでもない。

「……同業者、かな」

「どうぎょうしゃ?」

「うん。同業者」

「同業者って、一体なんの同業者だよ」

「ええと……僕の知り合いの人の、昔の同僚」

「なんだよそれ。お前の知り合いじゃねーじゃん」

「お前の知り合いの同業者じゃねーか」

「なんつーかあれだな、安西はいちいち言葉が足りねーよな」

 僕の言語の少なさに納得をしたのか、二人はけらけらと笑いながら入り口に向かい歩き出した。

 一体なにが面白いのだろう、僕にはまったくわからない。けれど、二人との距離が十メートルほど離れたところで「置いてくぞー」と呼ばれたので、僕は駆け出した。

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