第28話 『邪魔だしいらない』

 その日、どういうわけかEWC本社に行くこともなく自宅待機を命じられていた僕の所に、くたくたに疲れたリコリスがやってきたのは二十二時を廻ってからだ。

 そのとき僕はすでにコンビニで買ってきた浅蜊のパスタを食べ終わっていて、風呂にも入りさてそろそろ宿題でもするかと鞄からノートを取り出したところであった。

 いつもはピシッとさせているはずの灰色のスーツをくしゃくしゃにさせた状態で登場をしたリコリスは、お気に入りだと言っていた黒のパンプスをぽい、ぽいっと放り出すと、揃えることもしないまま、ずるずると床を這うようにして上がり込んだ。それから冷蔵庫の扉を開けて冷気に酔うようにうっとりと瞳を閉じた後、缶ビールを一本取り出した。

 僕は鞄からノートを取り出したままの体勢でリコリスが空き缶を流し台に叩きつけることを確認してから、開けたままの状態で放置しておいた鞄の蓋を閉めた。

 ステンレスの台に両手をついて大きく深呼吸をしているリコリスが僕の存在に気が付いたのは、僕が数学の宿題を解き終って歴史の教科書を取り出したときだった。

「あら、あんたいたの」

「最初からいたよ」

「あっそう」

 リコリスの言い方がきつい上に素っ気ないことはいつものことなのだけれど、今日は輪を掛けてひどい気がする。スーツがよれよれなだけではなく、髪の毛だってぼさぼさだ。いつも金持ちの猫みたいな肌艶をしているくせに、今日のリコリスは野良猫みたいだ。

「どうしたの、リコリス」

「どうしたの、って、なにが」

「なにが、っていうか、なんか」

「なんか、なに」

「顔が、太ってる」

 何が、と言われたので正直にそう答えたら、頭の中心――丁度旋毛の辺りを、グーで殴られた。ひどく痛い。目の前が宇宙みたいに暗くなって、黄色い星がちかちか光る。頭を抱えて床に転がり悶絶をする、僕。そのちかちかがなくなって目の前に現れたのは、大根、ではなくて、大根みたいに太くなった、リコリスの二本脚。

「あんたねー、太ってる、とかそんなこと、女性に言うことじゃないのよ! あんたって本当にデリカシーのない男ね! あー、これだからガキはやなのよ!」

 などと言いながらリコリス専用のクローゼット(先日勝手に持ち込んでいた)からジーンズとシャツを取り出すと、洗面所の奥へ消えて行った。ぶるぶると震える鼓膜の振動が収まる頃に、ラフな服装に着替えたリコリスが二本目のビールとお弁当の包みを抱えてやってきた。

「これはね、太ってるんじゃないの。むくんでるの。わかる? むくみ! 疲れで血行が悪くなって水分が溜まっちゃってるの!」

 あまりに神経質なリコリスに、僕は耳と頭の天辺を抑えたまま「わかってるよ」と呟き返す。

 リコリスは秀麗な眉の間に深い皺を寄せたまま弁当の蓋を開けると、ぱちり、と割り箸を二つに割った。

「あんたは太ってるだとかむくんでるだとか好き勝手言うけどねー、私もいろいろ色々忙しいの。あんたの世話ばっかりしてるわけじゃないんだから。あんたが学校でぺちゃくちゃしてる間にもねー、私は会社で部下の尻拭いしたり一日で埼玉から京都まで往復したり夜中の道端に突っ立って変質者掴まえたりボコったりとか色々あんのよ」

「……大変だね」

「そうよ、大変なのよ社会人て」

 ブラウンの髪に同じブラウンの瞳を持ったどう見ても純粋な日本人ではないリコリスが器用に割り箸を持って安いのり弁を食べているというのは、見方によっては非常に不可思議な光景なのだけれど、もうすでに二か月近く生活を共にしている僕には見慣れたものだ。

「まぁ今日のは、あんたにも関わりがあるんだけどね」

 ぺりりりり、と器用に塩鮭の皮をはがすリコリスの箸の先を見つめながら首を傾げる、僕。

 リコリスは、その剥ぎ取った皮をひょい、と口に放り込むと、

「さっき、変質者を掴まえたっていったでしょ」

「うん」

「それが、カンノの下っ端だったのよ」

「したっぱ」

「そう、下っ端」

 どこの会社にも鈍くさい奴がいるのよねー、などとどこかしみじみと呟きながら、リコリスは唐揚げを拾い上げた。

「最近、ストーカー被害にあってるっていう女優――ああ、あんた歌手のminaって知ってる? Marsっていうアイドルグループのセンターの子」

「知らない」

「あっそ。だと思った。まぁ、その子がストーカー被害にあってるって言うから、護衛をしたり張り込みしてたりしてたのよ。そんで、そのストーカーとっ掴まえたらそれがカンノの下っ端だったの」

 リコリスのほっそりとした頬が、から揚げの形に歪んでいく様を眺めながら、へぇ、と適当に相槌を打つ。

「下っ端っていうか、下請け会社のガキだったけどね。生意気にサバイバルナイフで襲いかかってきたから、ちょっと威嚇したらすぐに泣いたわ。まぁ、それで――色々話を聞いて、聞こうとしたわけなんだけど――」

 そこでごくりと飲みこんで、続ける。

「聞けなかったのよ」

「なんで」

「死んじゃったから」

「はぁ?」

 思わず挙げてしまったすっとんきょんな声に、リコリスが「あら」とブラウンの目を丸くした。

「あんたそんな顔もするのね。びっくりした」

「そうじゃなくて。死んだって、なに」

「だから死んじゃったのよ」

「どうして」

 僕の素朴な問いかけに、リコリスは厚焼き卵をもぐもぐと咀嚼してこう答えた。

「そのストーカーをとっ掴まえて――本当だったら警察に突き出すところなんだけど、カンノの下っ端だったからね。ちょっと話聞こうと思って、移動中に狙撃されたわ」

「狙撃?」

「そう。さあ車に乗せようとしたときに、頭の中心を銃でパーン」

 僕のこめかみに右手で作った銃を押し当て、バーン、と突く、リコリス。

「恐らく監視されてたんでしょうね。呆気なかったわ。一瞬で倒れて、絶命してた」

「救急車は?」

「そんなもの呼ぶ暇ないわ。霊柩車呼んだ方が早いくらい」

 ぱくぱくと胡麻の掛かった白米を口に運びながらそう言うリコリス。その唇から出される話は、まるで「今朝出勤途中に猫を見た」程度の軽い口調で繰り出されているものなのだが、いかんせんあまり穏やかではない。

「他の人たちは大丈夫だったの?」

「問題ないわ。その場にいたのは、わたしとそいつ、もう一人の男だけだったし。ただ、ひとり通りすがりの女子高生がいて――その子は親が迎えに来たわ。そのあと、警察に寄りーの本部に寄りーのそりゃあもう大変だったんだから」

「監視、されてたって」

「ん?」

「そのひとって、カンノの誰かに、殺されたの?」

「えぇ?」

 リコリスは信じられない、というようにしてひどく眉を中心に寄せ、煮物の里芋を頬張った。

「だから言ったでしょ。監視されてたって」

 さも当然というようにしてそう言い放つリコリスに、僕はいくらか理解しがたいという感情を持つ。

 いくら下っ端と言えど、監視をしていたと言えど、同じ組織の人間をそう簡単に殺してしまえるようなものなのだろうか。

 僕がそれをそのままリコリスに伝えると、リコリスは濡れた箸の先を左右に振って

「カンノの下っ端なんてティッシュみたいなもんだから。どこかのチンピラ崩れでも拾ってきて使ってるんでしょ。楽しみにしてなさい、今日死んだあいつだって、きっと住所不定で本名すらもわからないから」

「……下っ端だと、捨てるの?」

「そういうわけでもないけど」

 うすべったい紙切れのような沢庵を拾い上げ、続ける。

「邪魔だし、いらないでしょ。下手に口外されたら困るだろうし」

 今日のリコリスはいつもよりひどく疲れていて、返事も更に適当だ。

 僕はもう少し色々と言いたいことがあって、あったはずなのだけれどなんとなく言い出せなくなってしまい、暫しの間大した意味を持たない空白の時間を持て余す。

 弁当を食べ終わったリコリスが満足げにお茶を啜る所を確認し、ようやく僕は、肝心なことを思い出す。

 鞄の中のファイルから一枚のプリントを出し、ひどくくつろいでいるリコリスに押しつけた。

 リコリスは、折り目のついたわら半紙と僕の顔を見比べると、こう言った。

「なにこれ」

「プリント」

「そうじゃなくて。なにこの社会科見学って」

「来週の金曜日に行くんだって。美術館」

「あっそ」

「それで判子貰って来いって。クラスで出してないの僕だけだっていってた」

「あー……」

 リコリスはひどく面倒くさそうに目を泳がせると、重い腰を持ち上げた。黒のハンドバッグの中から黒いポーチを取り出して、「安西」という赤い印鑑をぽちっと押す。

「この印鑑、100均で買ってきたの。二つ同じの買ってきたから、あんたにもひとつあげるわ。失くさないで持っておきなさい」

「ん」

 リコリスはひどくかったるい様子で細かい印字が記されたわら半紙の上から下まで目を通し、言った。

「すっかり忘れてたけど、そういえばあんた中学生だったのねー」

「そうだよ」

「高校ならまだしも、義務教育だもの。面倒くさいったらありゃあしない」

 首を傾け髪を揺らし、尖った人差し指でぴん、とわら半紙を撥ねる、彼女。義務教育なのも行事ごとが面倒なのも僕のせいではないのだけれど。

「これから運動会とか文化祭とか、あー、修学旅行だってあるじゃない。わたしまだ、こんなおっきい子のいる年齢じゃないんだけどー。一気に老け込んじゃいそう」

 ぶつくさと文句を言いながらぺたりと赤い判子を押しつける、リコリス。

「でもま、世間知らずのあんたにはいい傾向かもしれないわね。頑張って社会勉強してきなさい。安西徹くん」

 リコリスは折り目だらけのわら半紙を手に取ると、ぺたり、と僕の頬にくっつけた。

「うん」

「でも、あんまり油断しちゃだめよ。一体どこで誰が見てるかわからないんだから」

「……黒田とか、カンノのこと?」

「それもそうだけど。もっと色んなこともね」

 黒田やカンノ以外にも、気を付けねばいけないことはそんなに沢山あるのだろうか。黒田やカンノに気を付けていても、もしや今日リコリスにとっ掴まってうっかり殺されてしまったカンノの下っ端の男のように、僕もそのうち、EWCの誰かによって、不意打ちに殺されてしまったりもするのだろうか。

 考えてみれば僕も同じだ。

 今日殺されてしまったカンノの下っ端と同じように、僕だってリコリスに拾われた一人だ。

 夜の街をうろついていたらうっかりリコリスに拾われて、使われることになった戸籍のない住所不定のただの子供だ。使い捨てのティッシュと同じなのだ。一回使えば捨てるだろうし、なくなれば新しいものを買えばいいんだ。

 僕は今まで一体何人の人を殺したのだろう。覚えているだけなら4人。この数が多いのか少ないのか、僕にはよくわからない。リコリスや桃井だったらもっと多く殺しているのかもしれない。殺すことは怖くなかった。大抵の場合、死はとても呆気なく味気ないほどにあっさりと訪れたからだ。けれど、リコリスは、「死ぬことはとても苦しいことよ」とそう言った。

「死ぬ瞬間ていうのは苦しいものなの。だからわたし達は、少しでも楽に殺してあげないといけないのよ」

 その時僕はなんとなくそうなのか、とそう思い、黙ってそのまま頷いてしまったのだけれど、それが正しいことなのか正しくないことなのか、いまいちまだよくわからない。

 僕が今まで見てきた「死」というものはひどくあっさりとしたものだったが、先日静岡にある黒田の実家で見た二つの遺体はひどく損傷の激しいものであった。あれは「苦しい」死を迎えたのだろうか。

 死ぬ瞬間というのは、どういう感覚なのだろう。僕はまだ、一度も死んだことがない。

 などというどうでもいいような思考に走っていた僕の脳みそは、だらけきったリコリスの声によってふいに現実に引き戻される。

「お小遣い少し多めに上げるから、これで必要なもの買ってきなさい」

「必要なもの?」

「お菓子とか、色々あるでしょ」

 お菓子。そういえば騒がしい野々村がまた騒がしく騒いでいた。なんのお菓子を持っていこうとか、お菓子の交換をしようとか、そういうこと。

「わかった」

 印鑑の押されたわら半紙をクリアファイルに納める様をなぜか微笑ましげに眺めながら、リコリスは思い出したようにこういった。

「そういえば」

「うん」

「その美術館。東都現代美術館だっけ? 天城市にある」

「そうだけど。それがどうかしたの」

「どうかしたっていうか……」

 どこか苦々しげに口の端を歪めながら、リコリス。いくらか悩むような動作で冷めかけたお茶を飲み干すと、

「まぁ……会場に行けばわかるでしょ。あんたもわざわざテンションの落ちるようなこと知りたくなんかないだろうし。いや、テンションが落ちるかどうかはわからないけど。上がることはないだろうしね」

 東都現代美術館に行って、一体なにがあるのだろうか。

 リコリスは、未だに時々僕の理解ができないことをいう。

 頭の天辺にハテナマークを浮かべる僕に肩を竦めて、リコリスはごろんと畳に寝転がった。

「ま、楽しんでらっしゃい。羽目を外しすぎないようにね」

 僕はまだ、リコリスに沢山聞きたいことがあって。

 聞きたいことがあったはずなのだけれど、それが一体なんなのかわからなくて、それさえも聞くタイミングを失ってしまい。

 うん、とそのまま上下に頷いた。


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