第27話 『またね』

 電車に乗って四十分ほど下り続け、錆びれた駅で降りる。

 僕がいつも乗り降りしている澤田駅も決して大きいとは言えないような出入口が二つしかない小さな駅なのだけれど、鈴羅木駅は更に小さい。雨が降って傘がなければ、間違いなくずぶ濡れになるだろう。光を遮るものがないから夏は只管暑いだろうし、冬はとにかく寒いはずだ。なにせ、屋根がある部分よりもない部分の方が圧倒的に広いのだから。駅員がいない。自動改札ですらない。窓口には白いカーテンが掛けられて、コーヒーの空き缶が置き去りにされていた。

 ペンキの禿げかけた階段を下りる。ささくれだらけの木製のペンキには、大量の野菜を背負った老婆が二人腰を掛け、楽しげに世間話をしていた。出た先は恐らくメインストリートだろうと思われる場所で、「鈴羅木商店街」という旗が至る所にあるのだが、商店街、と呼ぶにはいくらか心もとない。まだ夕方の五時半なのにシャッターはいくつも降りていて、まるでゴーストタウンみたいだ。

 それでも開いている店は半分以上あるのだけれど、どれもこれも活気がなくて人気がない。埃が積もり色は褪せ、蜘蛛の糸が張られていた。

 尾坂に用意してもらった地図を片手に歩く。歩いて三十分ほどで着くと言われたのだけれど、生憎僕には、地図の見方がよくわからない。兎のイラストの入ったメモ帳片手に、死苦八苦しながら一時間ほど歩きつづけ、ようやくそれらしき場所に到着をした。

「穂積」という表札の掛けられた茶色い屋根の一軒家は、賑やかさとはかけ離れた、殆ど音のない静かな場所に存在をしていた。

 周りにあるのは妙に車の多い車道とコンビニ、そして田圃。家。表札とメモを見比べる僕の背後を、自転車の後ろに野菜を乗せたTシャツ姿の老人が走って行った。

 やたらと汗をかいてしまった掌をズボンの裾で拭い、薄汚れたインターホンを押す。暑い。この季節、長袖のブレザーでは、いくら何でも暑すぎる。ぴんぽーん、という高い機械音の後の続く、小さな足音。そして声。

「はい……」

 今にも倒れてしまいそうな女の子の声。穂積文乃だ。

 繋がれたチェーンの間からこっそりと隠れるようにして顔を覗かせた彼女は、僕の存在を確認して、ひどく驚いた表情を作り上げた。それから、大きい瞳を更に大きく見開いて、隔たりの向こうに立つ僕の姿を上から下までじっくりと確認をする。

「あん……ざい……くん……」

「うん」

「……どうして……」

「プリント。机から溢れちゃってるから、誰か家に届けろって」

「プリント……」

「うん」

「家……どうして……」

「尾坂さんに教えて貰った」

「……なお、ちゃんに……」

「うん」

 尾坂は文乃のことを文乃と呼んでいたけれど、文乃も尾坂のことを名前で呼んでいたのか。あれだけひどくいじめられていたのに。小学校が同じだったと言っていたが、もしかして元々は仲がよかったのだろうか。

 僕がパンパンに膨れ上がったプリントの束を鞄の中から取り出すと、文乃は今気が付いたというようにして、慌てて玄関のチェーンを取り外した。制服姿ではない、私服の文乃。青いブラウスに、白と茶色のチェックのスカートを着込んだ文乃。リコリスのように薔薇のような強烈な華やかさは存在しないが、小柄な彼女にはよく似合っている。顔が白い。元々色は白かったのだが、更に白さが増した気がする。僕のように、熱でも出していたのだろうか。

「風邪」

「え?」

「風邪、引いてた?」

 意味がよくわからなかったのだろう、暫しの間、文乃はプリントを受け取ったままの状態でぽかんと突っ立っていたのだけれど、そのうち、ぷるぷるぷると二つのおさげを左右に振った。

「引いて、ないよ」

「そう」

 風邪は引いていない。では、どうして彼女は、一週間も休んだのだろう。

 文乃は例の如く、顔を下げたまま視線だけで睫の奥から覗くように、僕のことを見上げると、

「安西、くん」

「ん」

「からだ、大丈夫?」

 からだ、大丈夫?

「うん、大丈夫」

 なんとなく右の二の腕辺りを見ながらそう言うと、文乃はほっとしたようにして胸を撫で下ろした。基本的に、文乃は長い言葉をしゃべらない。単発で、途切れ途切れに単語を発する。最初は何を言いたいのか全く理解が出来なかったが、最近では大分わかるようになってきた。

「熱ももう下がってるし。食欲もあるし」

 僕がそういうと、ほっとしたはずの文乃がびくっ、と驚いたように顔を跳ね上げた。

「なに?」

 僕の言葉に、文乃は僕の機嫌を伺うように、びくりびくりと瞳を揺らした。

「あんざいくん……」

「うん」

「ねつ、でたの……?」

「うん。出たけど、もう下がったから」

「だいじょう、ぶ……?」

「うん。大丈夫。穂積さんは」

「うん……」

「大丈夫? 体調とか」

 僕の言葉に、文乃は分厚いプリントの束を両手で抱えたまま視線を落とした。暫しの沈黙。車が数台僕の後ろを走り抜けて、子供を乗せた母親の自転車が消えて行った。

 文乃が鈍くさいのは今始まったことじゃない。初めて会ったときから文乃はずっと鈍くさいし、恐らくこれからもずっと鈍くさいだろう。

「あの、ね……」

「うん」

「わた、し、こわくて……」

 怖い?

「安西君が、けがをして……救急車が来て、警察のひとが来て……佐野さんも、黒田くんもいなくなっちゃって……だから、こわくて……」

「うん」

「だから、ね……」

「うん」

 僕は待つ。彼女が次の一言を言うまで、じっと待つ。

「安西君も、いなくなっちゃうんじゃないかって、こわくて……」

 文乃の声が震えている。声どころか体すらも震えている。

 文乃はのろまで鈍くさい上にひどく臆病で怖がりで、大体いつもびくびく震えているのだけれど、今日はいつにも増して震えている。

 僕には文乃の気持ちがわからない。確かに僕は怪我をしたし、佐野も黒田もいなくなってしまったけれど、だからといって、どうしてそれが「僕がいなくなること」に繋がるのだろう。

 だから僕は言う。

「僕はいなくならないよ。僕はここにいる」

 僕の言葉に、文乃はひどく驚いたようだった。分厚い眼鏡の奥にある瞳を大きく開けて、それから、こくり、と細い首を上下させた。

「明日来れる?」

 僕の問いかけに、眉を顰めて首を少しだけ傾げる文乃。まだ、よくわからないらしい。ということは、恐らく明日も来ないだろう。

「そう、無理しなくていいから」

 それから僕は、鞄の中からまた別にパンフレットを取り出して、彼女に差し出した。

「これ、再来週の金曜日。美術館に社会科見学に行くって。美術館、嫌い?」

 僕の問いかけに、文乃はまた、ふるふると首を左右に振った。

「一応学校に集まってバスで行くって。朝八時に集合だって言ってた。午後は焼き物の体験学習やるっていってたけど」

 食い入るようにしてパンフレットを眺める文乃。よっぽど美術館が好きらしい。

「来れたら来なよ。尾坂さんが、ポテチ持って来れば仲間に入れてやるってよ」

 尾坂の名前を出すと、文乃は一瞬ひどく驚いたように目を開いたが、そのあとなぜかとても嬉しそうに眉を落とした。この二人の間には、一体なにがあるのだろう。

 どこか遠いところから音楽が聞こえる。この曲は僕も知っている。夕焼け小焼けだ。先日、リコリスに教えて貰った。夕焼け小焼けの声のない音楽だけのものが、町中に反響している。顔を上げると、赤い太陽が大きな体を持て余すかのようにして、屋根の向こうに沈みかけていた。

「じゃあ、帰るから」

「あ……」

「またね」

 僕がそう言って踵を返すと、鈍くさい文乃は、何やらなにか口を言いたそうに口を濁した。それからもごもごと意味もなく口を動かして、声を発する。

「また、ね……」

 風の音にさえも負けてしまいそうなほどか細い声。本来ならば町中に響く夕焼け小焼けには立ち向かうこともせずに、あっさり負けてしまうのだろう。それどその時の彼女の声は、車の音にも自転車のベルにもかき消されることなく、しっかりとはっきりと僕の耳に届いた。

 

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