第24話 『大事にしなさい』

 ぷんぷんと頬を膨らますリコリスに連れられて医者のいない医務室を訪れる。

「いてっ」

「いてっ、じゃないのよ、まったくもう」

 リコリスは消毒液が滴るほど染み込ませた綿を僕の傷口に押し付けて、ぷん、と唇を尖らせた。

「あんた、病み上がりでしょう。あれだけ高い熱が出たばっかりなんだから、あんまり無茶しちゃ駄目なのよ? 傷口からばい菌入ったら大変でしょう」

「でも」

「でもじゃないの。ほら、見てあげるから早く背中見せなさい」

 リコリスはぺちん、と叩くようにして傷口に大きな絆創膏を貼り付けると、僕の体を椅子ごとぐるりと反転させた。僕が何かをする前にべろりと服をまくり上げ、シャツの下に隠れていた僕の背中を露わにさせる。

「うわー、やだぁ、すごい痣。これ、湿布一枚じゃ間に合わないじゃない」

 いかにもとんでもないというようなリコリスの言い方に、僕は少し不安になる。痛い痛いと思っていたけど、そんなにひどい痣なのだろうか。シャツを上げられたまま肩越しに後ろを振り向くと、リコリスだけではなくてなぜか桃井も覗き込んでいる。

「ほんまやぁー、トールくんこれ、まるで北海道みたいやん」

 欠片も心配などしていないような、面白がるようなその口調。 

 僕が何かを言う前に、消毒液を抱えたリコリスが、バシィ、と桃井の巨大な体を叩いた。

「殆どあんたのせいでしょうが。まったく、ふらっとどこかに行ったと思ったら。余計なことばかりするんだから」

「ちゃうって。やさかい、ちょう仲深めてただけやって」

「関節を決めながらぐりぐり背中を押しつぶすことを仲を深めるとは言わないの」

 後ろからぷん、と漂う湿布の香り。ひんやりとした何かがぺたん、ぺたんと二回貼られ、ぐいっ、とシャツを下される。

 しわくちゃになったそれを戻しながら後ろを向くと、椅子に腰かけたリコリスとベッドの上で足を組んだ桃井がこちらを見ていた。

「ごめんね、徹。この人、私の元同僚で桃井薫ももいかおるっていうの。今、静岡支社にいるんだけど、仕事の都合で、今日たまたまこっちに来てたみたいなのよ。それで、あんたのこと話したら、変に興味持ったみたいで」

「いてっ」

 ぺしんというのは、リコリスが桃井の足を叩いた音。桃井薫とか、この顔と身長とグラサンの癖にそんな可愛らしい少女漫画の主人公のような名前をしているのか。

「まーまー、ええとちがうの。俺がいたおかげで、可愛い可愛いトオルちゃんおっそろしいおっさんとかお兄さんとかにつれてかいれなんだねんから。最近はオトコノコもオンナノコもどこで何があるかわからへんからね」

「……その代わりに背中にでっかい痣できたけどね」

「刺青みたいでええやん。ほら、前に流行ったやん、若い子たちの間で。俺はやらなんやけどね」

「痣はタトゥーっていわないのよ?」

「最近は色んなタトゥーがあるさかい。この間ほっぺたにチャリンコのシールつけてる子おったよ。ユニオンジャックが流行てるくらいやさかい、北海道のタトゥー背中に張り付けてる子がいてもおかしあらへん」

「背中じゃどうやっても見えないでしょーが、一体誰に対してのアピールなのよ」

「そりゃー勿論、最近の中学生は成長が早いとええまっさかい」

「はぁ?」

 どこまでもしゃべり続ける桃井薫。本当にこの男は黙るということを知らないらしい。寝ている時もトイレの時もご飯を食べている時でさえも五月蠅そうだ。

 暫くの間僕は少し離れた所でぼーっと様子を見ていたのだけれど、桃井の相手をすることに疲れたのか面倒くさくなったのかもしくはその両方なのか、リコリスはふぅー、と大きく息を吐いて、足を組んだ。

「遺体の死亡状況がわかったわ。死因は銃で撃たれたことによる出血死。腹部に太腿、心臓などにそれぞれ数発の銃弾を受けた形跡あり。死体の状態から、死後大体一週間から二週間くらい」

「凶器なんやったん?」

 これは桃井。

 リコリスは明るいブラウンの瞳を訝しげに歪めると、

「傷跡から見て、恐らく狙撃銃。リビングのソファと壁に銃弾が四発。トール」

「ん?」

「あの時と同じ。あんたが熱を出して、入院する羽目になった原因になったもの」

 僕は、リコリスがぶっきらぼうに投げ捨てた何かを瞬間的に受け取る。ビニル袋。それには少しだけ焦げて形の変わった金属製のたけのこが四本入っていた。

「隣の家の住人が、数週間前に埼玉で寮生活をしているはずの幸彦と会ったそうよ。シャッターを下ろしている幸彦と目が合ったから挨拶をしたって。その時は、特になにも思わなかったそうだけど、私が思うにね。その時はもう、すでに殺した後だったんじゃないかしら」

 黒田が学校から行方を眩ませたのは三週間前で僕が黒田に撃たれたのが大体一週間くらい前。その間に行われた行為だとすれば辻褄が合う。けれど、どうして黒田はわざわざ実家などに戻ったりなどしたのだろう。どうして黒田は、無関係のはずの両親を殺したりなどしたのだ?

「ユキヒコってあれか? 息子さん?」

 ベッドの上にごろんと寝転がった桃井の問いかけに、リコリスは面倒くさそうにこう答えた。

「そうよ。今、行方不明になってんの」

「その子が容疑者なん?」

「私の中ではね」

「ふぅん。せやけどリコリス、もし仮にそのユキヒコくんとやらがホンマにご両親殺したとしぃ、なんでわざわざ狙撃銃なんてつこうたん? ただ撃つんやったら、短銃で充分とちゃうん?」

 桃井はそこで、自分のジャケットの内側に潜ませていた黒い短銃を取り出した。

 リコリスは、桃井が引き金の部分に指を差し込んで器用にくるくると回転させる様を冷めた目つきで眺めると

「これはあくまで私の予想なんだけど、恐らく黒田幸彦は、銃を使う練習をしたんじゃないかしら」

「練習?」

 これは僕。練習とは、一体なんの練習だろう。

「黒田幸彦の両親はね。あんたを殺す練習のために、自分の両親をわざわざ狙撃銃で殺したのよ」

 なんだそれ。

「考えて見なさい。黒田幸彦の両親が殺されたのが一週間から二週間前で、あんたが狙われたのが一週間前。恐らく黒田幸彦は、なんらかの伝手を使って狙撃の練習をした後に、『それ』が本当に使える手段なのか試してみたのよ。自分の親を使ってね」

 なるほど、そういう考え方もあるにはある。けれど、それまで全く銃に触ったことのないであろうと思われる人間が、たかが一週間二週間練習をしたくらいで、そこまで銃を扱えるようなものなのだろうか。

「ユキヒコくんなぁ」

 桃井は、くるくると指で回転をさせていた銃を止めると、それをぽん、とベッドに置いた。

「どうやら、家庭でうまくいってへんかったみたいなんだよねぇ。おとんは、若いお姉さんと不倫してたみたいやし。おかんはおかんで情緒不安定で、虐待の一歩手前? まで行ったらしいし? ユキヒコくん、ほんで家庭に居られなくなりよったから、わざわざ埼玉県にある寮に入ったって話よ? トールくん、そう言う話知ってた?」

 ベッドにごろんと寝転んだままリラックスをしている桃井は、にぃ、とサングラスの奥で目を細めた。

 そんな話、知らない。植草も野々村も、誰もそんなこと知らなかった。それにしてもやたら詳しい。何の関係のない桃井薫は、どうしてそんな情報を持っているんだ?

「そりゃー知りまへんでしょ。知られた ないから、わざわざ遠く離れた埼玉県なんか受験したんやから」

 桃井はあっけらかんとそういって起き上がり、ベッドの上に座り込んだ。

「もう、折角やから言っちゃうけどさ。ユキヒコ君のパパ、不倫してるって言うたやない? アレ、相手さんのほうも結婚してて、旦那さんがもう気が付いてるんだよね。やから俺、その相手さんの旦那さんに、嫁さんについてる害虫見つけて叩き潰してくれって頼まれてたの。んで、ここ暫く黒田さんの周辺行ったり来たりしてたんやけど、なんっか様子がおかしいなー、とか思てたら、死体で発見されてるやないか。こりゃー、もう、俺もびっくりっちゅうか、なぁ」

 桃井はそこでオーバーに肩を竦め、右の口の端をにやりと上げた。

「ま、俺にとっちゃもうどうでもええことやけどな。パパさん、もう死んでもぉたわけやし。俺もこないな男女のゴタゴタにはあんまり関わりたくないやって。やれ、不倫したー浮気したーってそないなもんにいちいち首を突っ込んでたら命がいくつあっても足りないわ。それにあれや。俺も好き好んで人殺したりとかしとないし。死体やって見たいと思うて見るもんやないからねぇ。俺にしてみれば、パパさん殺してくれたユキヒコくんにもそれを見つけてくれたトールちゃんにもホンマありがとー万々歳ーって感じやわー」

 桃井はばーっと両手を天に掲げると、ひどく吹っ切れたような爽やかな笑みを作り上げた。

 桃井のあまりに身勝手な意見に、横にいるリコリスはひどく苦い表情をしているのだけれど、僕はああ、と思う。気が付く。

 家庭に問題を抱え、両親をうまくいっていなかった黒田幸彦。父親は不倫し母から虐待をされ家庭から居場所を失ってしまった黒田幸彦は、わざわざ寮の設置してある埼玉県の彰陽学園に入学するしかなかった。黒田幸彦は、自分の両親を恨んでいたのだろうか。恨んでいたのだろう、だからこそ、「腕試し」として僕よりも先に殺すことができたのだろう。それにしても、自分を産み育てたはずの両親を、そんなにあっさりと殺すことができるのだろうか。

「荒んだ世の中やろからねぇ、一体、何が起こるかわかりまへんよ。親が子を殺し、子が親を殺す時代やからねぇ」

 そういうものなのだろうか。僕には、父さんとか母さんとか、会ったことがないからわからない。

 リコリスは、ぽかり、と桃井の頭を叩くと

「ちょっと薫。徹に変なこと教えないでよ。この子、漸く最近一般常識を身に着けてきてるんだから」

 つん、と唇を尖らせたリコリスに、桃井はいたぁーい、とこれっぽっちも痛いと思っていないような口調で頭を押さえた。

「まー、ええこともあったけどねー。久々にリコリスに会うことできたし、巷で噂のトールちゃんも拝見できたし」

「噂?」

 これはリコリス。

「そ、噂。社長の秘蔵っ子でリコリスの弟子って。予想したより小さかったけど、可愛いもんや。ほら、トールちゃん、飴ちゃん食うか?」

 桃井は、軽く伸びをして立ち上がると、僕の頭をさらさら撫でて、ジャケットのポケットから黄色い飴玉を取り出した。僕はそこで、先日寮の部屋で野々村達と見たテレビ番組を思い出す。賑やかな大阪の商店街で、若いレポーターが道行く一般のおばさんにインタビューをしていく。恰幅のいいおばさんたちは、なぜか皆豹柄のシャツやら帽子やらズボンやらを纏っていて、ポケットに飴を忍ばせている。

 まさかと思ったのだけれど、ちらりと見えた桃井のジャケットの裏側は豹柄だった。学校に戻ることができたら、野々村達に「飴と豹柄はおばちゃんだけに限らない」ということを教えてあげよう。

 僕が飴玉を受け取ったことに満足をしたらしい桃井はにこにことした様子で頷くと、別途に転がしておいた銃を手に取り、懐に納めた。

「さーってと。ぼちぼちおうちに戻ろうかなぁ。あんさん達はどうすんの? 泊まる所ないんやったら、お兄はんち泊めてあげんで? 俺と熱い夜を過ごしてみる?」

 いくらか挑発するかのようなその口調に、リコリスは軽くため息を吐いた。

「残念だけど、間に合ってるわ。こんなこともあろうかと、宿を取ってあるの」

「トールちゃんと同じ部屋に泊まるん? やだわぁ、嫁入り前の女性が男と一晩同じ部屋なんて。トールちゃん気ぃ付けへんと、ぱくっと美味しく頂かれちゃうよ?」

 握った両手の拳を口に当て、内股気味して小刻みに体を左右に揺する桃井は気持ち悪いことこの上ない。

 リコリスは綺麗な栗色の髪を優雅ともいえるような仕草でかき上げると、呆れた様子で腕を組んだ。

「あのね。わたしは、こんな子供に手を出すほど飢えてないの。子供に興味なんかないわ」

「こっちの皆は噂しとるよ? リコリスさんて素敵やのに、なんで彼氏でけへんんでっかねー? そりゃーアナタ、素敵すぎて男が誰も寄ってこないからなのよー? できる女も考えモンねー、出来が良すぎて、男がコンプレックス感じちゃうもんねー。リコリスさんの彼氏になる人って大変ですねー。それがね、聞いてよー。リコリスさんてば最近、年下の男捕まえて光源氏計画始めたらしーよー?」

「ばっ……」

 リコリスはがばっ、と立ち上がると、勢いよく細いように見えてその実しっかりとした拳を突き出した。桃井はさらりとそれを避けると、

「あー。そうだ、トールちゃん」

「?」

「経験とかもそうやけど、センスのええ奴とか器用な奴っていうような奴らは、時間とか経験とか関係なしに、あっさりこなせるようになるもんなのよ? いつまで経ってもチャリンコに乗れへん奴がおる反面、他の奴らが一か月も二か月も掛かるようなことを、ある特定の人物はほんの一時間二時間でそれこそプロ並みに出来るようになっちゃうもんなのよ。トールちゃんはまだお子様やからよくわからへんかもしれへんけど、出来る子はなんだって出来るのよ。できひん子はいつまでたってもできひんけどね。世の中には常識や測れへんようなこともようけあるからね。よーく覚えとかんといけないよー?」

 桃井はそう言って僕の頭をくしゃくしゃと撫でると、そのまま医務室の扉を開けた。

「さあ、お兄さんはおうちに帰りますー。ターゲット殺されちゃったからお金取れへんかもしれへんけど、取り敢えず部長に報告せんと。じゃーね、お二人さん、また会いましょねー」

 散々しゃべり続けた桃井薫は、ちゅ、という軽い投げキスを一つ残して去って行った。嵐のように現れて、嵐のように去って行った桃井薫。あまりに自由で軽快過ぎるその動作に、取り残された僕とリコリスは暫くの間、呆然とするしかなかったのだ。

 点線を描くような空白の中、先にそれを断ち切ったのは珍しく僕だった。

「ねぇ、リコリス」

「……何」

「げんじものがたりって、何?」

「……国語の先生に聞きなさい」

「ん。わかった」

 僕が素直に引き下がると、リコリスがひどく疲れた様子で脱力し、顔を覆った。

「それにしてもトール」

「ん」

「これ、本当に面倒くさいことになったわよー」

「……?」

 まったくもって意味の解らない僕を尻目に、リコリスは続ける。

「この間、アトラソフショットの話したでしょ」

 弾の話よ?覚えてる?と念を押すリコリスに、覚えてるよ、と僕は言う。

 190アトラソフショット。ライフルだとか遠距離から目標を狙う時など、主に狙撃銃用に使われることの多いロシア製の銃弾。僕と文乃を狙い、僕の腕に傷をつけた、黒田幸彦が放ったのであろう銃弾。

「この間も言ったけど、銃だとかナイフだとかいうのは、ある一定の手続きを踏まないと手元に来ないものなのよ。包丁だとかカッターとかは別としてね――わかるでしょ? シャーペンの芯買に文房具屋に行っても、定規や分度器と並んでサバイバルナイフ一緒に置いてはないでしょ」

 うん。スーパーにも、大根や人参と並んでピストルが置いてあるという光景には、未だ遭遇したことはない。

「しかもこの弾はロシア製。日本の警察が使ってる弾なんてたかが知れてるし、アトラソフ社製のものなんて、どこの業者も扱ってないの」

 どういうことだ。リコリスの言うことは、いつも僕の理解の範囲を超えている。

「この弾を手に入れるためには、直接アトラソフ社と取引しなくちゃいけないの。アトラソフ社っていうのは、作ってるものも作ってるものだから、あんまり公な会社じゃないの。ロシアの警察からも目をつけられていて――まぁ、それはいいんだけど――とにかく、普通だったら、手に入ることはないはずのものなの」

「……」

「私の調べる限り、日本でこの会社から仕入れることができるのは二社だけ。一社はEWC――うちの会社ね。もう一社は――」

 リコリスはそこで一度息を止め、続ける。

「カンノ株式会社よ。あんたが穂積文乃とデートしに行ったとき、映画館で刺し殺して、トイレの個室に押し込めてきたっていう、あれ」

 ああ、と僕は思い出す。

「面倒なことになったわね――なんで黒田幸彦がカンノに接触してるのか、どういうつもりでライフルなんか所持してるのかわかんないけど。とりあえず、今わかっていることは黒田幸彦がなんらかの方法ライフルを所持しているということと、そこに間違いなくカンノが関係しているということ。それで人を殺して、まだ誰かを殺そうとしているであろうということ。トール」

「ん」

「その『誰か』っていうのには、勿論あんたも含まれてるのよ」

 リコリスははぁー、とひどく長い溜息をつくと、長めの前髪をかき上げた。

「黒田幸彦の動機も動向も全く見当がつかないけど、恐らくまた、なんらかの形で姿を現すと思うから。あんたが撃たれた件については、わたしが直々に報告に行ったから、気には留めてくれてると思うけど、そこまで考慮はしてくれないはずよ。意味わかる?」

 僕は首を振る。リコリスは、またひどく眉と眉の間に深い皺を作り上げて、

「自分の身は自分で守りなさいってこと。こんな風に、車の中に忘れたりしないようにね!」

 リコリスはそういって、手持ちの鞄の中から小型のピストルを取り出して、僕の顔にぐい、と押し付けた。僕の頬っぺたにひんやりとした冷感が広がり、鉄の匂いが鼻を擽る。

「今回はたまたま、相手が薫だったからよかったものの――あんたは色々簡単に、安易に行動しすぎなのよ。注意力が足りないの。もっと危機感を持って行動しなさい。簡単に人を信用しない、知らない人について行かない、車の中に銃を忘れていかないこと! はい、復唱!」

 耳の奥がキーンとなるほど大きな声でそう言われ、僕は思わず両耳を抑える。ジンジンと振れる鼓膜が落ち着くことを待ってから、渋々と復唱する。

「簡単に人を信用しない、知らない人について行かない、車の中に銃を忘れていかないこと」

「わかった?」

「わかった」

 僕の言葉に、リコリスはいくらか不服そうに眉を寄せた。綺麗にリップの塗られた唇は、まだ何かを言いたそうに曲がっている。それから、それを振り払うようにして後ろ髪をかき上げると、

「これ」

 リコリスは鞄の中から何かを取り出すと、僕の膝の上にぽんと乗せた。スマートフォンだった。

「あんたこれ、食堂に置きっぱなしだったでしょ。食堂のおばちゃんが気が付いて、預かっておいてくれたのよ。この、忘れん坊大臣が」

 リコリスに言われて、僕はぽんぽんとズボンのポケットを叩く。僕のポケットは空っぽだ。食堂で桃井と向かい合っていたときはあったはずなのだけれど、何かの拍子にポケットから転げ落ちてしまったのかもしれない。

「あんたさぁ。本当に友達できたのね」

「うん?」

「それ、わたしが持っている間、何回も何回も振動したのよ」

 画面を開くと、「LINE 五件」のマークが表示されている。野々村慎吾が四件と植草宏英が一件。内容はどれもこれもくだらないことばかりだ。この短時間でこの件数、こいつらは一体どこまで暇なのだろう。

「友達、なんだって」

「今日、数学の教師のカツラがずれてたっていうことと、いつから学校来るのかって」

「ぷっ。なにそれ」

 本当になんだろう。

「明日の午後に埼玉に帰るから、明後日から学校に行けるって返しときなさい」

「わかった」

 言われたとおり、僕がとろとろ二人に返信し終わると、リコリスは鞄を抱えて立ち上がった。

「それじゃあ行きましょう。近くに宿を取ってあるから。そんなに快適じゃないかもしれないけど、お風呂もトイレもちゃんとあるから」

「ん」

「向こうに帰ったら、もう少し練習しときましょう。銃の持ち方と使い方と、あと、身の守り方ね。薫に何を言われたかわかんないけど――まぁ、悪い奴じゃないから」

「ん」

「あとね、トール」

「ん?」

「友達は大事にしなさい。こういう時心配してくれる友達は、本当に一生ものなんだから」

 そう言うリコリスの瞳はとても真剣で優しくて、僕のことをひどくまっすぐ見つめていたのだけれど、僕にはまだ、リコリスのいうことをすべて理解することができない。

 友達とか、友達ってなんなんだろう。野々村と植草は同じクラスで、席が近いから何となく一緒に食事をしたり、話をしたりもするのだけれど、それは友達になるのだろうか。一生ものの友達とか、僕は野々村や植草とそんな一生一緒にいる気はないけれど、十年後も二十年後も付き合いがあったりするのだろうか。

 友達の定義ってなんなのだろう。LINEを交換して、メッセージのやり取りをすれば友達になるのだろうか。野々村と植草と、それ以外のクラスの人と、一体何が違うのだろう。僕にはまだ、友達とそれ以外の人の境界線が、あまりよくわからない。

 なんてことをうつらうつら考えているうちに、鞄を抱えたリコリスはさっさとヒールを翻して、医務室を後にしてしまう。廊下から「置いていくわよー」と怒鳴られて、僕は大慌てで立ち上がった。


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