第23話 『桃井っつーの』

 広い食堂には、どこを探しても「携帯禁止」と書かれていなかった。


「おいしいのにもったいない」などと言いながら綺麗に麻婆丼を食べつくした男について、僕は建物の外に出る。完全に日の落ちた駐車場は、ライトがあるくせにひどく暗くて陰気で、広さはあるのに警察特有の静けさと混じり妙な閉鎖感を醸し出していた。

 立ち上がった男僕が思っていたよりももっとずっと背が高かった。身長155センチの僕が見上げても首が痛くなる程度には、高い。鏡で見たら頭一つと半分くらいは、高い。前を歩いていた男がドアをくぐるとき、ひょいと頭を下げていたので少なくとも一般家屋のドアの高さよりかは高い。

「自己紹介遅れたね。俺、桃井っていうの。EWC静岡支社の社員。よろしゅうな。桃井さんとか桃井おにーさんとか呼んでいーから」

 男――桃井の口調はとても朗らかで優しささえ感じさせるものなのだけれど、実際は全く優しくない。朗らかな口調の裏には隠れることなく威圧感が丸出しだし、広い背中の後ろには蛇のような圧力が渦巻いている。

 男はジャケットの胸ポケットから青い箱を取り出すと、一本煙草を引き抜いて口に咥え、それからそれに火をつけた。

「俺ね、五年くらい前まで本社におったんよ。リコリスと同僚でさぁ、結構色々、一緒に仕事しとってんよ、俺ら。今は個人行動になってっけど、昔はさぁ、今よりずっと労働条件悪かったから。二人でやんなきゃならんのこともようさんあったんだよねぇ」

 桃井は何かを思い出すようにしてそう言って、ひとりでくすくすと笑いだした。こんな時間にこんなところに連れてきて、一体なんの用事だろう。まさか、昔話を聞かせるためだけではないだろう。くだらない与太話をするためだけに、暗い夜の駐車場に僕を連れ出すはずがない。

「君の事、結構色々聞いてんのよ。いや、リコリスからやのうてなぁ。なんつーか、噂ってやつ? 社長がちまなガキを懐に入れて、リコリスがそれを育ててるっていうの? ほんと皆、対して暇でもないくせに噂話が好きでさぁ。本社と静岡と、どんだけ距離が離れてるっつーんだよなぁ? どっから話仕入れてきたんだか。ま、仕事が忙しい分、そうゆう潤いの一つや二つもなくっちゃぁ、まともに仕事がでけへんけどなぁ。俺もそんな話、真に受けてたわけやないんやけどねぇ。今日、たまたま警察に寄ったらさぁ、噂で聞ぃた『秘蔵っこくん』がおるとちゃうん。わい、大興奮。目がぎらぎらしてもたよー」

 間の抜けた関西弁は留まることを知らないらしい。僕が口を挟む間もなく一気にそこまで言い切って、一人でげらげら笑いだした。変わった人。よくしゃべる人、うるさい人。

「あー、俺な、今は静岡に住んどるんけど、出身は大阪なんだ。高校まで大阪の実先市っていうトコに住んでて、そこから上京したの。静岡にて来たのはここ最近。ここ、二、三年くらい。静岡も茶がうまうてええとこやけどなー、やっぱ大阪もええところだぜ? ぼん、大阪行ったことある? 大阪っつったらたこ焼きとお好み焼きくらいしかないような気ぃするけど、いか焼きもバッテラもうまいんだぜー

 そんなこと誰も聞いていない。確かに、このモデルみたいな顔をした電柱みたいな背丈の男から繰り出される関西弁は怪しすぎることこの上ないけど、誰もそこまで気にしていない。桃井がどこの出身で一体どこに住んでいようと、そんなこと誰も知りたくないのに。

 次第に僕の表情が歪んでいることに気が付いたらしい桃井が、サングラスの奥にあるはずの目を細めてからからと笑った。

「あー? いやぁ、そないな嫌な顔するなてー。俺は別に、自慢話するために来たんとちがうねんからさぁ。大阪の食い物がうまいのはほんまやけど、今日はそういう目的と違うんやで? 自慢話やったら、わざわざこないなとこ来へんでも食堂でもどこでもできるて。え? ちゃうちゃう。そないいやらしいことしようとかは考えてへんってば。ま、キミもねー、結構かわえぇー顔しとると思うんやがね、俺ロリコンでもショタコンでもないのよ。あ、わかる? ショタコンて。ロリコンの少年版。俺はホモやないし。きょーびは色々規制が厳しいみたいやけど、俺は警察やないからね。他人の好みにあれこれやゆうような趣味はないけど、別に、下の毛も生えてへんようながきんちょに手を出すような趣味も残念ながら俺にはないのよ。やっぱ、ねーちゃんの子がえぇーよねー。できれば胸が大きくて、足首と腰がきゅっ、と締まっとるような美女。トールくんはどないな子が好みなの? 好きな子おる? それともお姉さん系のほうがタイプ? トールくんてAV見るの? どないいうやつ? 人妻系? 女子アナ? 未亡人?」

 弾丸のようにしゃべり続けた桃井は咥えていた煙草を指で挟んで口から離し、どう? というようにして僕を見た。ひょいと顔を顰めるだけで返事をする僕をどう受け取ったのか、桃井は煙草を口に咥え、すぱー、と煙を吐きだした。

「まー、それは別にどうでもえぇーのよ。俺が今知りたいのはねー」

 桃井は煙草をぽいっ、と捨てると、ジャケットの懐に手を突っ込み、こちらへ向けた。パンッ! 勢いよく発射されたそれは、僕の目から二センチほど離れた場所を通り過ぎて、耳を掠り、後ろにあった署の壁にぶち当たり、めり込んだ。

 桃井が持っていたのは銃だった。僕が持っている護身用のピストルよりもずっと大きくしっかりとしたもの。四月の始め、リコリスと初めて出会ったあの日の夜、社長室で触らせてもらった銃とはまた違う。グリップからバレルにかけ柔らかく曲がっていて、それだけ見るとまるで鳥の首みたいだ。グリップからヨークの部分辺りまでは太くてずんぐりむっくりしているのに、くちばしの部分だけやたらと細い。鳥の顔に当たる部分に、僕のピストルにはついていないぐりぐりとした回転式の部品が付いていた。

「君が一体、どれだけできる子なのかっつーこと。社長が懐に入れて、リコリスが育てとるっつーね」

 桃井は僕に向けていた銃をそのままに、不敵な笑みを浮かべた。

「君はまだなーんも知らんと思うんやけど、すげー珍しいのよ? 社長が直々に部下の誰かに会うとかさぁ。俺だって社長とマンツーマンで話すまで五年くらいかかかったし。リコリスだってさぁ、新人教育とか言って、今までやれややこしいだのやりたくないって言ってたくせに。せやからさぁ、気になるやん。そないな人たちが気にかけとるガキって、一体どないなんやろーってさ」

 桃井は僕に向けていた銃を懐にしまい、空になった両手をアピールするかのようにして僕に掌を向けた。それから、足を交差させながらふらふらゆっくり近寄ってきた。

「あれー? トールくんちょっとびっくりした? お子様には少し刺激が強かったか? すまんのー? そっかー、トールくん、まだ中学生って言うてたもんねー。俺とて、殺そとは思ておらへんよー? 俺はただ単純に――」

 桃井は僕の目の前までやってくると、壁際に手を当てて三十センチ頭上から舐めるようにして覗いてきた。少し焼けた首と襟の間から覗いた銀のチェーンが、ライトの光を反射してきらりきらりと光っている。香水の匂いがする。リコリスの甘い匂いとはまた別の、さっぱりとした爽やかな香りだ。

「君と一発、力比べをしたいだけや」

 瞬間、壁に掛けられていたはずの桃井の腕が宙を舞い、僕の頭に振り落とされる。正確に言えば、耳の上と後頭部の間くらい。突然の衝撃に耐えきれなかった僕の体は、軽く唾を吐きながら前のめりの状態になる。続いて飛び出てきた桃井の右足は僕の体を吹っ飛ばして、駐車場の砂利の上に転がした。

「……あれ?」

 砂利の上に転がった僕がダンゴ虫みたいに丸まってごほごほと咳き込んでいると、頭上の桃井がさも意外というような声を出した。

「思うたいじょーに、手ごたえがなかったよーな……なんかこう、ふわっちゅうかころんていうか……つーか、トールくん、君軽すぎやない? しゃんと食べとる?

好き嫌いはいけへんのよ?」

 小さな子供を咎めるような口調の桃井に、僕はごほごほ咳き込むだけでなにも言うことができない。頭が痛いし腹も痛い。首も変な方向に曲がっている気がする。肘もちょっと擦れてるだろうし、口の中に砂利が入ってごろごろする。

「なぁ、トールくん。俺なぁ、何度か『安西徹』にも会うたことあんのよ。確か、坊と同じ年くらいやったっけ? いけ好かへんガキやったわぁ。大したこともでけへんくせに、口先ばっかり達者でさぁ……まー、それはどうでもいーんやけど。いくよー? トールくん。今度はちゃんと反応してねー」

 桃井は軽快な口調でそういうと、漸くのこと起き上がりかけた僕を目掛けて長い右足を振り下ろした。僕は蛇のように襲い掛かってきたその足を寸での所で転がって避ける。続いて左足。横から飛ぶようにして流れてきたそれは、僕の左側頭部――先ほど殴られたところとほぼ同じところだ――にヒットする。が、今度は飛ばない。コンマ一秒で、僕がそれを防いだからだ。包帯の巻かれていない僕の左肘から、びりびりとした電流みたいな振動が骨まで響く。

 桃井はひょい、と長い左足を元に戻すと、ぴゅー、と短く口笛を吹いた。

「おー、やるじゃんトールくん。でもね、トールくん。守ってばかりじゃだめなのよ? 自分からもちゃんと攻めなきゃ。じゃないと、すぐにやられちゃうよ?」

 続いてやってくるのはやはり右足。足技が得意なのかただ僕の身長に合わせるのが面倒なのか、長身のこの男は、先ほどからやたらと足を使ってくる。むかつく。僕はひょいと伏せて避けると、脇腹にパンチを打ち込むために桃井の懐に潜り込む。が、察したらしい長身の男は軽く下がってそれを避けると、右から拳を突き出してきた。避けようかな。けれどすぐに避けきれないことに気が付いて、両手をきつくクロスさせてそれを受ける。振動は雷みたいに骨の奥まで響いたけれど、吹っ飛ぶほどではない。僕が両手のクロスを解いた瞬間、戻りかけていた桃井が僕の手を掴み、さっ、と左に体重を掛ける。右に踏ん張ろうとするのだけれど、その反動を利用して、桃井は僕の右足を払った。僕は体が地べたにつく擦れ擦れでなんとかぎりぎり踏みとどまって、「リンボーダンス」の状態から復活をする。グーを握って左右の腕でワンツーパンチ。が、二発が二発とも避けられる。続いて右足。軸のずれた僕の右足が繰り出したへなちょこキックは、桃井によってあっさり捕まりそのまま左に螺子を回すかのようにして捻られる。股関節から腰に掛けて妙な体勢に曲がる僕の体。桃井はそれをぱっと離すと、なにやら感心をしたようにしてこういった。

「トールくんてば体やわっこいんだねぇ。まるでタコさんみたいやわぁ。あー、あと銃とかは禁止ね。俺、さっき使っちゃったけどぉ。ここ、一応警察やから」

 銃。そういえば忘れていた。いつ何があるかわからないから持っていろと何度も言われた、僕のピストル。多分、リコリスの車に乗せたままだ。あった方がよかったかな、いや、ない方がよかったのかもしれない。こんな男と撃ちあうなんて、命がいくつあっても足りなそうだ。

 桃井の長い腕が風を纏ってまっすぐ伸びる。獲物を狙う蛇のようだ。凶暴な蛇の頭は僕の頬に噛み跡を残してバックする。けれど僕は逃がさない。蛇の頭を掴んで大きく地面を蹴り上げた。この間テレビで見た、陸上競技の「背面飛び」みたいな体勢で桃井の体を飛び越えて、空中で軽く体を捻る。反動を使って大きく右足を繰り出すのだけれど、半分振り向いた桃井の左肘により生憎ブロックされてしまう。蛇のような桃井の右腕が僕の目玉を食いちぎろうと伸びてくる。反射的に片目をつぶると、反対側から飛んできた掌と一緒に僕の両頬を包み込んで、そのまま一気に頭突きをされた。頭がひどくぐらぐらした。脳味噌はタプタプ揺れていたし、鼓膜はじりじり音を立てた。今なら星でも月なんでもかんでも出てきそうだ。僕が苦し紛れに出した一発はあっさり桃井に捕まって、そのまま後ろに捻られる。冷たいジャリの敷かれた駐車場の地面にうつ伏せの状態で押し付けられる僕の体。どうやら関節を決めているらしく、全く身動きが取れないでいる。背中に感じるぐりぐりとしたやたらと骨っぽい固い物質は、桃井の強靭な膝だろうか。

「トールくん、やわいだけやなくて目もええのね。まさか、手ぇ掴まれるとか思わんかったわぁ。始めたのって四月の初めごろやっけ? スピードもあるし反射神経も結構ええ線いっとるわぁ。せやけど」

「いたっ……」

 桃井は、僕の背中に抱えた両手をきつく引っ張ると、

「ちょーっとツメが甘いわなぁ。パンチもキックもひょろひょろやし、さらさらパワーが足りてへん。なんぼパンチがきたからって、目ぇ瞑っちゃあだめでしょーが。背中見せたら、あっっちゅうまに殺されちゃうよ?」

「あたたたたっ」

 ぎりぎりぎりと体重を掛ける桃井。

「そーいや、トールくん知っとる? ここんとこをこうすると肩が――」

「何してるの!」

 僕の肩が引っこ抜かれる寸前で桃井の暴走を止めたのは、若い女の声だった。リコリスだ。パンツスーツを着込んだリコリスが、かつかつとパンプスを鳴らしながら走ってくる。

 桃井はリコリスの姿が見えた瞬間、後ろ手で決めていた関節をぱっ、と離した。一瞬で楽になる僕の体。

「子供相手に何してるのよ!」

「なにもしてへんよ。チト遊んでただけやって」

「ぐりぐり膝で潰しながらがっつり関節決めてたでしょー!」

「ちゃうちゃう。ただ、ちょっとふざけてただけやって。そんな怒んなって。折角の美人が台無しやで?」

 わいわいと言い合いを続ける二人を尻目に、僕はふらつく足腰に力を入れて壁伝いに腰を上げる。全身についた砂や砂利を叩いて顔を上げると、丁度こちらを向いていたらしい桃井と目があった。サングラスの奥にあるであろう瞳を細めて、にぃ、とう笑みを浮かべる桃井。

 僕は、目を逸らすこともなくだからといってにこりと笑うこともできず、ただ、サングラスの奥にあるであろう瞳を見つめていた。

 


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