第22話 『覚えておきなさい』

 静岡県襟沼えりぬま市は、僕の住む埼玉県から車で大体三時間半、新幹線で二時間ほど南に走った場所にある。

 襟沼市は海岸に面した港町で、漁業が盛んで大きく帆を掲げた大きな船がいくつも青い海の上を行き来している。

 海を見るのは初めてだ。直接波打ち際に行ったわけではなく、リコリスの運転をするポルシェの助手席から、車の走る堤防の上から眺めただけのものだけれど、テレビで見るものと全然違う。砂利の混じった潮の匂いも透けるような深い青も、テレビの中では体験できない。

 僕としては、左ハンドルのこの車を降りて思う存分潮の匂いと海の青を堪能したかったわけなのだけれど、いかんせん、ハンドルを握るリコリスが許さない。

 潮の匂いを抜けるとそこにあったのは街であり、商店街だった。観光業も盛んなのだろう、至る所に「襟沼名物▲▲▲」という旗が閃き、「◇◇◇ホテル」という看板が並んでいる。

 左を見れば一面海なわけなのだけれど、だからと言って決して田圃がないわけでもなく、市街地から少し離れれば田圃もあるし畑もある。今日は天気がいいせいか、かなり山が綺麗に見える。

「あれ、なんて山?」

「富士山よ」

 黒田幸彦の家は、沿岸から二十キロほど離れた場所に存在した。

 二階建てで茶色い屋根の、どこにでもありそうな家だった。他の家に埋もれて、少し離れればその存在も場所もわからなくなってしまいそうな、そんな家。

 ただひとつ、まだ日の落ちていない真昼間のはずなのに、なぜかすべてのシャッターが下ろされている。誰もいないのかと思ったけれど、車庫には二台の車が置かれていて、なんだか妙な感じがする。何件もある家の中で、この家だけなんだか世界が違うみたいだ。

 いまいち状況が掴めていない僕を尻目に、リコリスは慣れた様子で玄関先までやってくると、手持ちのバッグの中から黒の皮手袋を取り出して、装着をした。それからキーケース。束になったうちの一本を選び、鍵穴に入れてぐるりと回した。

 驚く僕を余所に、ドアノブを掴んだ皮手袋は玄関の戸を引いてさっさと中に入っていく。

 パンプスを脱ぐことなくそのまま廊下に乗り上げたリコリスは、ふと何かに気が付いたようにして足を止め、振り向いた。

「忘れてた。これ、あんた用の手袋」

「え……」

「え、って。このままじゃ指紋ついちゃうでしょ。これつけて」

 差し出されたのはリコリスのつけているものと同じデザインの黒手袋だったのだけれど、全く意味が解らなくて、その場で呆然としてしまう。

 するとリコリスが途中で気が付き、急かす。

「早く」

 やや不機嫌な声でそう言われ、慌てて玄関の戸を閉める僕。ふと、鼻孔を叩く刺激臭のようなものを感じるのだけれど、僕がそれを言う前に、パンプスを履いたリコリスがどんどん先に進んでいくので、小走りでそれを追いかける。

 外で見たとき、周りと比べて一回りくらい大きいな、と思う程度の大きさの家だったのだけれど、中に入ると、やはりそれなりに広さはあった。

 綺麗に整えられたリビングの真ん中には茶色いダイニングテーブルがあった。その上にある二枚のお皿には一枚ずつ食パンが置かれていて、うち一枚は齧りかけ。同じく二組置かれた揃いのカップの中には体積の減った黒い液体が入っていて、恐らくコーヒー。その両脇を囲むように二つのソファが置かれていて、新聞が開いた状態で放置してある。サイドボードの上にはいくつものトロフィーや写真、額に入った賞状が置かれていて、僕はそのうちの、一番小さなトロフィーを手に取った。『第xx回 安全狩猟射撃大会優勝 黒田健一郎』

 ひょいと首を傾げた僕がその疑問を解く前に、奥の部屋に行っていたリコリスに名前を呼ばれる。

「いつまで遊んでんの」

「ん」

「こっち」

 一歩進むたび、悪臭はどんどん強くなっていった。

 リコリスがいたのは寝室だった。八畳くらいの洋室で、ベッドが一つと化粧台が一つ。人が二人くらい寝れるくらいの大きさのあるベッドは少しだけ膨らんでいて、まだ誰かが寝ているみたいだ。化粧台の上には沢山の化粧品が並んでいて、そのうちのひとつを手に取り蓋を開けると、なんとも言えない甘ったるい香りが僕の顔全体を包み込んだ。お菓子とも花とも違う、纏わりつくような人工的な匂い。それが、先ほどから漂い続ける生臭い刺激臭と混ざりあい、喉に刺さるような強烈さを産みだした。思わず咳き込み蓋を閉めると、何やら探していたらしいリコリスに呆れられた。

「もう、さっきから遊んでばっかり……あんまりべたべた触んないの。いくら手袋してたって、どこになにがあるかわかんないんだから」

 リコリスは頭を抱えてそう言うと、黒手袋をはめた右手で花柄模様の掛布団を引っぺがした。

 ふかふかで明らかに上質とわかる布団の下にいたのは二体の人形だった。

 それぞれ白目を見開いたまま天井を見ていて、口からだらりと血を出している。両方ともパジャマではなく普通の服を着ていて、男と女。女の方は白のブラウスと茶色のスカート、男の方は紺色のトレーナーを着込んでいた。同じところはひとつもないのに、どういうわけか、肌の色だけは同じ色。肌色よりもいくらか黒い。全身がむくんだみたいに膨張している。背中からは水のようなものが流れて、シーツに沁みを作っていた。

 布団の間から飛散した、腐ったチーズのようなひどい悪臭に鼻を抑える僕に対して、リコリスはひどく涼しい顔をしていた。

「ねぇ、リコリス、これ、なに? リコリスが殺したの?」

「え? やぁね、違うわよ。そんなわけないじゃない」

 リコリスは捲った布団を元通りに死体の上に掛け直すと、あからさまに嫌だという表情を作り、首を振った。

「連絡があったのよ、うちの会社に――って、まあ、静岡支社になんだけどね。この間、近所の家に新しい火災警報器設置しに来た時に、様子がおかしい家があるからちょっと見てきてくれないかっていうね。本来なら、わざわざ本社が出なくても静岡支社に任せればいいんだけど、ちょっと、気になることがあったから」

 リコリスはふいに顔を上げると、真っ青な顔の僕を見て、眉を顰めた。

「やだ、あんたひどい顔。真っ青じゃない」

 リコリスは熱を失いつつあった僕の頬をぺたりと包むと、ゆっくり背中を擦った。

「あんたは先に外に出てなさい。家の中で吐いちゃだめよ。外に水道があったから、吐くならそこで吐きなさい」

 この異臭漂う家の中で一体何を探すというのか。まだ探索を続けるというリコリスに言われるがまま出る。今まで極限の状態であった胃液がメーターを振り切るかのようにしてせり上がってきた。大急ぎで庭の端に設置してあった水道に駆け寄り、吐き出した。這い上がった胃酸は口中だけではなくて粘膜を伝わり鼻に来て涙が出た。げほげほと思う存分咳き込んで、水で漱ぐ。視線を感じて顔を上げると、柵の向こうから隣人が不穏な瞳を投げ

ていた。

 暫くの間、放心状態で玄関先の花壇の隣に座り込む。青い空に流れる雲の動きを眺めて五分か十分か十五分か、それとももっと長い間か、死臭漂う家の中を探索し終えたリコリスが戻ってくる。

「大丈夫? 少し吐いた?」

 体育座りの状態で足と足の間に顔を埋めて頷く、僕。リコリスは、そんな僕の頭を撫でると

「あんた、死体初めてだっけ」

 僕は左右に首を振る。死体を見たのは初めてじゃない。けれど、腐った死体を見たのは初めてだ。

「そう。じゃあ、覚えておきなさい。人間に限らず、生き物は腐ると大体ああなるのよ」

 手袋を外したリコリスの手が僕の頭から離れるとほぼ同時、埋めていた足の間から頭を上げて、数センチ頭上で煙草を吸い始めたリコリスを見上げた。

「リコリス」

「なに?」

「あれ、誰? 何?」

 枯れた喉の奥から漸くのこと出した僕の問いかけに、リコリスはぷはー、と煙を吐いた。火のついた煙草の端っこが少し凹んで、赤い口紅がついている。

「黒田幸彦の両親よ。はっきりとしたことはわからないけど、多分、恐らく90%の確率でね」

「黒田が、殺した?」

「さぁね。詳しいことはわからないけど、その確率は高いわね」

 リコリスは、厚めの唇に煙草を挟み、吸い込んで、それを吐いた。飛び出た煙が宙を舞い、青い空に飛散していく。

「リコリスは、平気なの?」

「ん?」

「死体」

 素朴すぎる僕の疑問に、リコリスはひどくきょとんとした顔をして固まった。それから、考え込むように首を傾げ、口を開いた。

「平気、っていうわけでもないけど。まぁ、慣れ?」

「なれ」

「そ。慣れ。この仕事してるとね、嫌でも遭遇するものよ。あんたも今は、こんな死にそうな顔しちゃってるけど、あと一年もすれば嫌でも涼しい顔してるわよ」

 そういうものなのだろうか。あの、猛暑日にチーズと牛乳を放置させてカビを生えさせたような強烈な匂いや布団に沁みた体液、皮膚の下で蠢く虫に慣れるとは、到底思えないのだけれど。 

 リコリスは、花壇の横に座り込む僕のことを見つめて、少しだけ目元を和らげた。

「ま。あんたは大変だったかもしれないけど。わたしはちょっと安心したわ」

「へ?」

「あんた、あんまり子供らしくなかったから。そうよね、あんた子供だもん。まだ中学生だもんね。よかったってこと」

 煙草を口に咥えたまま目を細めるリコリスに、僕は首を傾げる。

 一体どういうことだろう。リコリスは時々、理解できないことをいう。

 それから暫くして、「police」と書かれた黒と白の車がひゅんひゅんと赤色灯を鳴らしながらやってくる。出てきた中年の刑事は花壇脇に座り込む僕を見てひどく怪訝な顔をしたのだけれど、隣で煙草を吸っているリコリスに気が付いて硬直した。ぺこぺこと汗を流しながら頭を下げる警官達に、リコリスは一体なんの職業だっただろうと考えこむ。僕の記憶が正しければ、リコリスは警備会社に勤めるしがないただの会社員だった気がするのだけれど。警官というものは会社員よりも地位の低いものだっただろうか。 

 そのうち、「静岡県警」というロゴ入りのジャンバーを着た警官がカメラやらなにやらを抱えて異臭漂う黒田家に突入をし、黒田家一帯を囲むようにして「keep out」の黄色いテープが張られていった。

 警官によって死体が家から運び出されて指紋を取ったりなんだりしている間に、一般市民であるはずのリコリスも状況説明やらなにやらでいちいち家に出たり入ったりしている。一体どこから聞きつけたのか、低い柵の向こうにはカメラを持った明らかにマスコミじみた人間やただの主婦、学生服を着たカップルも集まっていた。みんなスマホを持ち、それをこちらに向けている、僕が嘔吐をしていたとき目が合ったあの隣人は、テレビカメラを構えたアナウンサーを相手に両手をせかせか動かしながら懸命になにか説明していた。マスコミ達は、花壇の脇に座り込む僕に気が付くとなにか聞きたげにちらちらこちらを見ていたのだけれど、なにしろ僕は「keep out」の内側にいたし距離も離れていたので、写真を撮られるだけで済んだ。

 三十分後か一時間後か、もうそろそろ日も陰り始めた頃になって、漸くのことリコリスは僕の所にやってくる。僕とリコリスを乗せた赤のポルシェは小一時間ほど車道を走って、行き着いた場所は静岡県警察本部。

 着いて早々、警官を後ろにつけたリコリスはさっさとどこかに行ってしまい、僕はひとりで取り残される。 

「わたし、ちょっと話してくるから。食堂でご飯でも食べてていいわよ」

 リコリスの言うことは大体いつも突然だ。正直ちょっと困ったな、と思うのだけれど、他にやることもないので仕方がない。

 警察の食堂というものが一体どういうものなのか、いまいち想像ができなかったのだけれど、中身を見れば学校やEWCの食堂と大差はなかった。制服警官がうろうろとしている以外は、食券販売機もあるしテーブルも椅子もちゃんとある。調理場では、恰幅のいいいかにも炊事洗濯が得意だという風貌の叔母さん達が鍋を奮っていた。

 渡された千円札を片手に、食券販売機の前で何にしようか考える。それほど対して腹が減っているとは思っていなかったのだけれど、時間を見れば十八時過ぎ。日も暮れかかってきているし、最後に食事を取ってから、五時間以上も経っていた。僕の前に並んでいたスーツ姿のおじさんはカレーライスを頼んでいたけれど、一応僕も病み上がりだ。喉はまだ少し枯れているし、胃腸だって弱っている。うどんにしようかと思ったけれど、生憎それが売り切れだったので、醤油ラーメンで妥協した。

 夕方だから空いているかと思ったらそれなりに賑わっていた。食堂のおばさん手作りの食事を食べている人以外にも、手製の弁当やコンビニのパン、おにぎりを食べている人もいた。集まって賑やかに食事をしている人もいれば、端っこで静かに箸を進めている人もいる。

 ラーメンの乗った盆を持った僕は、速やかに一番端に着席をする。警察の食堂には、制服警官も私服警官もどう考えても近所のおばさんにしか見えないような人もいるのだけれど、中学生は僕だけだ。ちくちくと刺さる視線を感じながら、熱いラーメンに箸を通した。

 ラーメンはなかなかおいしかった。というか、まずいラーメンなんて食べたことがないのだけれど、とりあえず、コンビニで買ってくるカップラーメンよりはおいしかった。学校の学食のラーメンは食べたことがない。野々村はおいしいと言っていたけど、どうなのだろう。

 そこでふと、ズボンのポケットに入れておいたスマホがぶるぶるぶる震える。野々村慎吾。なんでこいつは、こういいタイミングでLINEを送ってくるのだろう。


『なんでLINE返してくれねーんだよ!😭😭』


 LINEを返す? LINEを開いてみたら、新着が八件も来ている。八件すべてが野々村慎吾。僕が熱を出し入院をして、今日までの間五日間で来たものだ。

 僕はラーメンを掬う箸を止め、LINEを返す。


『ごめん、気づかなかった』


 LINEはすぐに返ってくる。


『ひどい!😭俺、トールがいない間、ヒロにいじめられてひとり寂しく耐えてたのに!💔💔😭😭なんで学校休んでんだよ!💢💢😭😭😭』


 トールなんて、一体いつの間に名前で呼ぶようになったのだろう。いじめられて耐えてたなんて、どうせまた、野々村がくだらない馬鹿をしたのだろう。

 なんて返そうか考えて、僕はすぐに指を動かす。


『熱が出て入院してた』


 そう返信をして十秒後、サイレンのようなけたたましいバイブの音が鳴り響く。


『熱が出て入院てなんだよ!😫😫なんでそんなことになってるんだよ!😱😱今どこにいるんだよ!🚑🚑🚑』


 それと一緒に、もう一通LINEが来る。植草宏英。


『久しぶり。元気?ところで、熱が出て入院してるって本当?風邪でも引いたの?』


 風邪を引いて入院をするとか、そうそうあるとは思えないけど。なんて返せばいいのだろう。学校帰りに銃で撃たれて、風呂に入ったら発熱をして入院した。リコリスにつられるがまま静岡にある黒田幸彦の実家に行って、腐乱死体を二体見つけて今現在は警察所内の食堂で醤油ラーメンを食べている。

 なんてことをそのまま言っても、恐らく理解してもらえないだろう。どうしたらいいのかわからなくてスマホを持ったまま云々頭を抱えていると、空席であったはずの正面に一つの影が舞い降りる。

「坊ちゃんなぁ、お楽しみ中悪いんだけど、ここの食堂、携帯電話禁止なの。入口んとこ貼ってあったの、知っとる?」

 関西交じりのその声に、僕は睨めつけていたスマホから顔を上げ、影の持ち主の顔を見る。

 そこにいたのは男だった。硬質そうな黒髪にテレビに出ているわかめのようなうねりをつけた、若い男。けれど、僕よりもずっと年上だ。リコリスよりも上のような気がするけれど、社長よりかは若い感じがする。背が高い。僕よりも、リコリスよりもずっとある。電柱みたいな細い体に黒のジャケットを貼り付けて、丸襟のシャツの間から見える鎖骨には銀のチェーンがぶら下がっていた。目が見えない。高い鼻の上には、真っ黒いサングラスが掛かっていた。

 芸能人のようだなぁ、などとぽかんとチェーンを見ていると、男は持っていたトレーをテーブルに置いて、口を開いた。

「せやからねー、坊ちゃん。ここ、携帯禁止なのよー? はよう仕舞わないと偉い人きて、君、しょっ引かれちゃうかもしれへんのよー?」

 軽快に椅子を引き勢いよく座った男の言葉に、僕は手の中にあるスマホを見て、考える。

携帯電話の使用禁止。そんなこと書いてあっただろうか。入口なんて、対してちゃんと見ていないので知らなかった。

 言われるままに僕はスマートフォンをポケットの中に仕舞い込んだ。

「すいません」

 僕が謝罪の言葉を述べると、男は洗剤みたいな白い歯を見せて笑った。

「わかってくれればいーよ。前の席、いーい? つーかもう座っとるけど」

 周りを見ると、空席は他にもたくさんある。女性の中には、頬を染めてちらちらとこちらを見ている人も多いというのに、どうしてわざわざこんな辺境の地を選んだのかわからない。

 変わった人だなと思うのだけれど、断る理由は特にない。

「はい」

 僕の言葉に男は満足げな笑みを見せ、スプーンを取り上げた。男が持ってきたのは麻婆丼。麻婆豆腐は何度か食べたが、ご飯の上に掛かっているのは初めて見た。何となく眺めていると、それに気が付いた正面の男が、口を開いた。

「何? 麻婆豆腐好きなの? 君?」

「へ?」

「いや、ずっと見てたから。食べたいのなぁって思って」

 そんなにずっと見てただろうか。僕は首を左右に振る。

「そういうわけじゃないんですけど」

「いーよ、別に。食べる? 麻婆丼」

「……いえ」

「気にすんなって。じゃーさ、君のラーメンチトちょーだい。交換ってことで」

 ね! と半ば強制的に、押し切られるような形で、渋々僕は了承する。新しいタイプの人間だ。リコリスも野々村もそれなりに強引なのだけれど、目の前にいるこの男には、二人とはまた、違うタイプの強引さがある。

 押し付けられた丼にレンゲを突っ込み、救い上げる。麻婆の下に隠れていたご飯はほこほこ湯気を立てていて、湧き立てのお風呂みたいだ。少し熱い。ふうふうと息を掛けて少しだけ覚ましてから口の中に突っ込んだ。

 僕の食べかけのラーメン丼ぶりを前にした男は、頬杖を突いた状態で麻婆豆腐を頬張る僕を眺めている。

「美味しい?」

 男の問いかけに、口内に物を含んだままこくりと頷く、僕。

 男は頬杖をついたままの状態で口を弓状に釣り上げ、笑っていった。

「よかったわぁ。あんましゃべんない子やて聞いたからどないな子なのかって思ったけど、全然ふつーの子じゃん。なぁ、安西トールくん」

 男の口から名乗ってもいないはずの僕の名前が出てて来たことで、僕は動かしていた手を止めた。

「今日、死体見てきたんやろー? 腐りかけて、チト汁が飛び出とる奴。結構噂になってんでー? まだ生っ白い中学生くらいのお子様が顔色一つ変えへんでうろうろしとるってゆうさぁー。んー? まーまー、そない怖い目で見ないでってばぁー。照れるわぁ」

 対して照れてもいない男の言葉に、僕は少し視線を下げる。腐りかけて少しだけ汁の飛び出た、死体。瞬間、僕の頭の奥に、溢れる異臭とベッドに隠れた二つの死体が広がる。変色をしてただれた皮膚と目下にある麻婆豆腐が重なって、僕は一気に食欲を失くす。

「……返します」

 男が僕の名前を知っていることも、死体を見てきたことを知っているということも、今の僕にはどうでもよかった。静かであったはずの胃液が活動しはじめ、ぐつぐつと音を立てている気がした。

 殆ど手付かずだったラーメン丼ぶりのトレーを持って席を立とうとするのだけれど、トレーの端をぐっと掴まれ、僕は行く手を阻まれる。

「まーまー、待って。俺、すっげー君に興味あんのよー。せやからさぁ、チト話さない?」

 男の口調はひどく軽快であったのだけれど、その分とても強引だった。「話さない?」ではなく、完全なる命令形。

 嫌だと言ったらこのまま帰してくれるのだろうか。無理だろうな。リコリスも野々村も、嫌だといっても絶対帰してくれないもんな。僕は上げかけていた腰を落とし、再び椅子に着席をする。

 僕が大人しくとどまったことで、男は背後に渦巻いていた瘴気を少し沈めた。

「まー、ここじゃーチトやかましーからねー。食べ終わったらどっかいこーか」

 男の言葉に、僕は正面にあるラーメンと麻婆丼を交互に見る。ラーメンはすでに冷めかけていて、麺が水を吸いちょっとふやけて伸びている。麻婆丼についてはすでに食べる気がなくなっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る