第19話 『違うんじゃないかな』

 黒田幸彦は次の日から学校を休み続けた。

 それどころか寮の部屋にも帰っていない。同室の奴曰く、「遅くまで部活をやって、部屋に戻ったらいなかった。ちょっとコンビニかどっかに行っただけだと思っていた」らしい。まぁ、普通は、誰だってそう思うのだろうけれど。

 部屋には洋服や教科書ノートその他諸々の荷物が「彼が居た」時のまま残されていて、どこか一か所が特別整理整頓された形跡があるわけではないらしい。自殺を本気で考えているようなやつが、死ぬ間際に自分の身の回りの整理整頓をやるのはよくあることだ。亡くなっていたのは、彼が愛用していた黒い財布と、机に上に飾られていた恋人とのツーショット写真。

 捜索願を出そうにも、どういうわけかいくら取ろうとしても黒田の実家とは一切連絡を取ることができないので、学校側が勝手に動くこともできない。

 仕方がないので、失踪して一週間を過ぎて衣替えが終わった辺りから、困り果てた学校側の判断により黒田は「家庭の事情による長期休暇」ということになった。

 けれど、学校側の意向など知る由もない生徒達の間では色々な噂が飛び交っていた。

「黒田って、佐野が死んだことにショック受けて富士の樹海に言ったんだろ?」

「ちげーよ。崖から飛び降りて後追い自殺したんだよ」

「え? 私は、麗香のことを忘れるために旅に出たって聞いたけど」

「生き返らせるために墓から死体を掘り起こして、どっかの宗教に入ったんじゃないのー?」

 噂というのは、大体の場合適当なものだ。あやふやな真実は、好奇心旺盛な子供達の手に掛かってしまえばあっという間に別のものに変化する。

「なぁ、安西。安西はどう思う?」

 休み時間、やれ失踪だ自殺だ自分探しの旅だとかなんとか騒いでいたクラスメイトの一人に話を振られ、僕は考えて、こう言った。

「いや、それは……違うんじゃないかな」

 僕の言葉に、騒いでいたクラスの連中は不思議そうな顔をしたのだけれど、丁度良く話題を出した誰かの言葉に乗っかって、高いテンションを取り戻す。

 賑やかさを取り戻した輪の外側で自分の席に座ったまま、僕は少し考える。 

『違うんじゃないか?』

 あくまでそれは僕の予想であって、ただの仮定だ。確かにあの時駅のホームでいずれ来る電車を待ちながら並んで話した黒田には、今にも死んでしまいそうな、走ってきた電車の中にそのまま飛び込んでしまいそうな危うい雰囲気があったのだけれど、あそこで死ななかった人間が、この埼玉から遠く離れた富士の樹海などに何時間もかけて足を運んだりするものだろうか。そうでなくとも、あんなにも狂気的な意志を含んだ強い瞳をするものなのだろうか。僕はまだ、自殺をしたことも考えたこともないから、よくわからないけれど。

 佐野の生命が絶たれてから残された僕たちの生活は非常に混乱していて忙しくて、全校集会に学年指導に面倒くさいことこの上なかったわけなのだけれど、その一方で、文乃の生活はある意味とても落ちついているようだった。

 という理由のひとつは、亡くなった佐野が文乃に対するいじめの首謀者であったこと。中心になり文乃をいたぶっていた佐野がいなくなったことにより、指示をする人間がいなくなった。ふたつめの理由は、誰もこの忙しい中わざわざ文乃のような鈍くさい人間をいじめてまで暇つぶしをしようと考えなくなったからだ。

 誰にもいじめられることのなくなった代わりに誰にも構われることのなくなった文乃は、佐野が亡くなってしまったことにより本格的に「空気のような存在」になった。誰も彼女の存在を気に留めないし、そもそも誰も気が付かない。教室にいても廊下にいてもどこに至って、大人しい文乃は話さないし話しかけられないし、誰も存在に気が付かない。「透明な存在の彼女」普通だったら、クラスの誰かかもしくは学校にいる誰かだとかすれ違った誰かが気が付くのだろうけれど、面白いくらいに気が付かない。足音一つ立てない気配の一つもさせないようなその動作は、むしろ尊敬に当たるくらいだ。

 かくいう僕もその存在をうっかりすっかり忘れていたのだけれど、その日学校の帰り道、ぽつぽつとひとりで街を歩いていた彼女の姿を目に入れて、漸くのことその存在を思い出した。

 小さな文乃は、まるで世界の片隅に寄るかのように太陽の陰に隠れるようにしながら、こっそりひっそり歩いていた。

 文乃はずっと俯いていたのだけれど、赤信号で止まった瞬間顔を上げて、そこで漸く、隣に並んだ僕の存在に気が付いた。

「あ……」

「あ?」

「あんざい、くん……」

「うん、そう」

 文乃と並んで、駅までの道のりを歩く。

 学校から駅までの道は実は結構距離があって、時間でいうと大体十五分から二十分くらい。ゆっくり歩けば、もう少しかかる。その信号は、駅と学校の大体真ん中くらいにあるのだけれど、文乃の足は僕よりずっと短いし歩くのが遅いから、かなりペースを落とさなければいけなかった。ふと気を抜いてペースを戻すと、鈍くさい文乃を遠い後ろに置いて行ってしまう。

 臆病な文乃は、枝みたいな細い腕で、身を守るかのようにしてぎゅ、と鞄を抱きかかえている。小さな頭を支えている首も、まるで下したてのシャツみたいに真っ白で、細い。腕を這わせたら、親指と小指がぴったりくっついてまるが作れてしまいそうだ。

 そんなことを思いながらじっ、と首筋を見ていると、視線に気が付いた文乃が不安そうに僕を見上げた。

「な……に?」

「え」

「どうか、した……?」

 別にどうもしないけれど。

 右隣下には、文乃のゆらゆら揺れる瞳がある。一体何センチ差があるのだろう、三十センチもないだろうけど、それでもかなり身長差がある。

 僕は少しだけ考えて、言葉を発する。

「別に。ただ、久しぶりだなぁって、思って」

「ひさし、ぶり?」

「そう、久しぶり」

 文乃とまともに話すのは、一体何日ぶりだろう。最後にきちんと会話をしたのは、一緒に街に繰り出したあの日だろうから、多分、二週間ぶりくらい? 佐野が死んでからは、葬儀だとか学年集会だとかやらなきゃいけないことがたくさんあって、小さな文乃のことなんて僕の頭の中からすっぽり抜け落ちてしまっていた。

 文乃は意味もなく体を捩り、なぜかパンパンに膨れた鞄を抱え直すと、

「……忙し、かった、から」

「うん」

「……毎日、とってもたいへん」

「うん」

「……佐野さんが亡くなって、みんな、すごく悲しそう……」

「そうだね」

 ぽつりぽつりと小さな唇から放たれる、彼女の声。

 今日の文乃はいつもより少し饒舌だ。いつだって何かに脅えたようにびくびくプルプルしている彼女も、視線を合わせて向かい合えば、まともに会話ができるのだ。

「安西君、も」

「うん?」

「かなし、い? 佐野さん、が、亡くなって……」

 ひどく素朴な問いかけに、僕は考える。

 佐野が亡くなって悲しい?

 どうだろう、よくわからない。僕と佐野は出会ってまだ一か月も経っていなかったし、その少ない時間の中でも、殆ど会話をしていない。片手でも足りる程度の接触というのが、転校初日、アホなことを言った野々村が佐野にぶっ叩かれた一回と、いじめられていた文乃を助けたときのもう一回。

 確かに佐野が死んだと聞いたとき、まさか死ぬとは思わなかったのでそれなりに驚いたけれど、悲しいのかと言われれば話は別だ。決して楽しくはないし嬉しいわけではないけれど、人間の心というのは、殆ど接点のない人間が死んだくらいではそう簡単に悲しめない。

 果たして文乃はどうなのだろう。佐野にいじめられて、汚いモップで叩かれて、その白い頬にカッターナイフを突きつけられた穂積文乃。

「穂積さんは?」

「ふぇ……」

「悲しい? 佐野さんが亡くなって」

 僕は、先ほど文乃に言われたことをそのまま文乃に問いかけ直す。

 まさか、自分の質問をそのまま返されるとは思わなかったのだろう。文乃はそこで立ち止まると、じっ、と考え込むようにして顔を伏せた。僕は、後方で立ち止まった文乃を待つようにして足を止め、振り向いた。

「わ、たし、は……」

 厚い眼鏡の奥にある、大きな瞳が揺れている。いつだったかテレビで見た、夕焼けの中の海みたいだ。僕はまだ、本物の海を見たことがない。

 俯いている文乃の次の言葉を待っていると、僕の視界の端っこに、ちかちかという光が入る。少し眩しい。何が反射をしているのだろうと顔を上げると、僕がいる場所から少し離れたところにあるビルの屋上で、なにかがちかちか光っている。赤く焼けた太陽のせいで逆光になっていて、よく見えない。誰かが何かを構えている。細長いそれは、僕の位置からはまるで棒を構えているかのようにも見える。かなり遠い、リコリスに感心された優秀な視力を持った僕以外には誰も見えない。隣を歩くサラリーマンも前から来ている女子高生も子供を連れた主婦だって、誰も気が付いていないだろう。

 僕の頭の中に、いつぞやのリコリスの言葉が反響する。「気を付けなさい」「いつどこでなにがあるかわからないから気を付けなさい」「気を抜かないこと」

 僕は瞬間的に文乃の体を引っ張って、そのまま地面に押し倒す。突然の出来事に驚いた文乃が小さな悲鳴のようなものを上げているけど、気にしない。瞬間、発射された銃弾が僕の二の腕を少し掠って、地面にパンッ! とめり込んだ。ひどく軽い音だったと思う。けれど、その小さな銃弾が音を立て僕の腕を掠り地面にめりこんでしまったことで、他の人間に気づかれる。たまたま隣を歩いていた女子高生が悲鳴を上げて、子供連れの主婦が自分の子供を守るようにして抱きかかえている。

 僕は、僕の下で潰れていた文乃をひっぱって起き上がらせる。分厚い眼鏡を掛けた文乃は、何もわかっていないという表情できょとんとしている。それから、避けた僕の二の腕から流れている血液に気が付いて目を見開いた。

 僕は、なにか言いたげに瞳を揺らす文乃から目を背けて、地面にめり込んだ銃弾に顔を向ける。先ほど、文乃が立っていた位置のど真ん中にめり込んだ小さな弾。僕が文乃を押しつぶさなかったのならば間違いなく、文乃の体の中心を貫いていたのであろう弾。

 それから屋上。「石田建築事務所」という看板の掲げられたそのビルの屋上にいる人間は、今度こそ僕にははっきり見える。僕よりもずっと背が高く、しっかりとした体型をした短髪の男。

 黒田幸彦だ。

 細長い枝みたいな銃を持った黒田は、屋上の上から僕達の様子を眺めている。文乃が無事であることを確認すると、興味を失くしたかのようにふらっとその場を立ち去った。

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