第17話 『あんたバカ?』


 その夜。

 例の如くEWCの地下運動場でリコリスによる手ほどきを受け少し遅めの夕食を食べて休憩がてら三分の一の畳の部分でうとうとと転寝をしていた僕は、今日の昼間トイレで襲われたこともうっかりひとり殺したこともすべて忘れていたのだけれど、ポケットの中に『筒井雄太』の名刺が入っていたことで、漸くのこと思い出す。

 丁度いいタイミングで扉を開けてやってきたリコリスに名刺を渡し、今日一日で起こったことをすべて話すと、彼女は秀麗な顔に皺を寄せ、なんとも言えない渋い表情を作り上げた。

「一体、どこから突っ込んだらいいのか、全く全然わかんないけど」

 はぁ、とため息をついて、続ける。

「あんたは、穂積文乃とデートしたのね」

 ただ遊びにいっただけなのだけれど、一般的にそれをデートというのならば、きっとデートをしたのだろう。

「それで、映画館でトイレに行ったら変な男二人組に絡まれた」

 そう。

「それで、抵抗していたら間違えてうっかり殺しちゃったと、そういうこと」

 そういうこと。

「なんでそんなことになってんのよ!」

 怒られた。

「あーもう、あんた自分でわかってる? なんで標的とほのぼのまったりデートなんかしてんのよ。前々から思ってたけど、あんた本当に変わってる。まじまじ本気で意味わかんない」

 あーあ、と頭を抱えてその場に蹲る、リコリス。

「いーい? あんたの仕事は? 社長になんて言われてんの?」

 やたら真剣な表情をしたリコリスの問いかけに、僕は少しだけ考えて、それからふらっと答えを出す。

「穂積文乃を殺すようにって言われてる」

「そう、それ! わかってるなら、なんでわざわざ目標と一緒に遊びに行ったりしちゃうのよー、馬鹿ぁー」

「他のやつと行く予定だったのが、急遽変更になったんだ」

「急遽変更、って、あんたねー」

 リコリスはまた眉を寄せて何か言いたそうな表情をしたのだけれど、それが声になって出る前に、それを閉じる。

「あー」という擬音を出しながら明るいブラウンの髪を掻き上げて、言った。

「……あんまり、深入りしすぎちゃ駄目よ。仲良くなりすぎて、最終的に傷がつくのはあんたなんだから」

 ふぅ、と諦めたような吐息。疲れたような、心配するかのような表情のリコリスの真意が読めないで、僕はことりと首を傾げる。傷? 傷ってなんだ? リコリスは一体、何をそんなに心配をしているんだろう。ただ会って、一緒に出掛けただけなのに。

「しかも他人に絡まれて、それをうっかり殺すなんて……後片付けはちゃんとしたんでしょうね」

 確認をするようにしてじろり、とブラウンの瞳を細めるリコリス。後片付け。僕は少しだけ考えて、こう答えた。

「血は殆ど飛ばなかったよ。どうしたらいいかわかんなかったから、トイレの個室に押し込んでおいた」

「……その後は」

「映画が終わった後に見に言ったらいなくなってた。気絶してた人が意識を取り戻して、連れて帰ってくれたのかも」

「あんたねぇ――」

 リコリスは再び、海のような深い深ーい溜息をつくと、寄せた眉間に指先を当て、苦虫を噛み潰したような表情でこう言った。

「あんたバカァ?」

「……?」

「トイレの個室に隠すなんて、そんなのすぐに見つけてくださいっていっているようなもんでしょーが」

 あ、そうか。

「あんたって、ホントに常識ないわよねー。トイレの個室に死体が入ってたりしたら、入ってきた人びっくりしてすぐ事件になっちゃうでしょー。あんたはあれね、学力云々の前にまず、一般常識を身に付けなさい」

 確かにそうだ。見つかって、大騒ぎにならなかったことは奇跡なのかもしれない。

 僕はぺたんと座り込み、百八十度横に開脚をした状態でべたー、と胸を床に付ける。

 リコリスはふぅ、と再び軽く息をつくと、僕が渡した『筒井雄太』の名刺をぴらぴらと揺らしながらぺたん、とその場に座り込んだ。

「それにしても、これ」

「うん」

「『筒井雄太』って、二人組であんたに襲い掛かってきたんでしょ?」

 うん、そうだよ。

 僕の答えに、リコリスはまた、眉と眉の間に皺を寄せた。今日のリコリスは、こんな困った顔ばかりしている。

「なに? なんか大変なの?」

 軽く体を捩じりながら問いかけた僕の言葉に、リコリスは軽く首を傾げた。

「大変っていうか……面倒くさい?」

 面倒くさい。一体どういうことなのだろう。

「あんたカンノ株式会社って、なんの会社だか知ってる?」

「知らない」

「でしょうね」

「なに? カンノ株式会社って」

「殺し屋さんよ」

 ああ、なるほど。

「殺し屋さんて、なに? EWCみたいにどこかの会社の裏稼業でやってるの?」

 僕の素朴な質問に、リコリスはあからさまに嫌な顔をして体を捩った。

「やぁね、人聞きの悪いこと言わないでよ。EWCは警備会社で、殺し屋さんではありません」

「ひと、殺すのに?」

「それはそれ、これはこれ。カンノはね、うちと違って本格的な殺し屋さん。人を殺すことを生業としてお金を稼いでいる会社よ」

「……そんな会社、本当にあるの?」

「あるわよ。世の中には色んな仕事があるから」

 リコリスは軽く胡坐をすると、その上で頬杖をついた。

「ご飯を作る人に材料を作る人。作ったものを売る人だとか、料理をするために包丁やお鍋を作る人もたくさんいるでしょ? それとおんなじ。人を守りたい人もいれば、邪魔だから殺したいって言う人も沢山いるのよ。でも、自分じゃできないから、その道のプロにお願いするの。まるで、一流のシェフに高級なフレンチを作ってくれっていうみたいにね――ま、勿論そんな職業、一流シェフのお店みたいに、雑誌に載って大体的に宣伝できるわけないけどね」

 リコリスはとんでもないことをさらっ、と言うと、悪戯にひょい、と肩を竦めた。

「まぁ、それはどうでもいいんだけど――問題は、あんたがカンノに狙われたっていう、そういうこと」

 リコリスは胡坐を組んだ左右の足を入れ替えて、続ける。

「カンノは人殺し集団だけど、一応ちゃんとした『会社』だから、そう簡単に一般人に手を出すなんてことないはずよ。特にうちは――EWCはその道ではそれなりに有名だから」

「それなり?」

「周りがそう簡単に手を出せない程度の実力はあるってこと。考えられる理由は二つ。ひとつは、あんたがカンノに手を出したか」

 ぴしっ、と天を目掛けてまっすぐ伸びたリコリスの指に、僕は少し考える。

 あの時、映画館で先に手を出したのは間違いなく男達だ。トイレに入って手を洗って出ようとしたら、入り口を塞がれた。それで、殴られそうになったので殴られる前に殴っただけだ。

 僕がそれをそのまま言うと、リコリスは二本目の指をぴっ、と立てた。

「ふたつ目は、どこかの誰かが、あんたを殺してって依頼をしたか。可能性としては、こっちが濃厚だと思うけど。心当たりある? 誰かに恨みを買われてるとか」

 リコリスの問いかけに、僕はまた少し考えて、それから左右に首を振る。

 恨みを買うとか買われるとか、それ以前に僕はそもそも、あまり他人と関わり合ったことがない。関わったこともないのに、どうやって恨みを買えというのだろう。

 僕の言葉に、リコリスはまた考えるようにして睫を伏せて、髪を揺らした。

「ま、狙われたことに違いはないし――気を付けることに越したことはないわ。気をつけなさい。いつどこで何があるかわからないから、気を抜かないこと」

 ――一体、どこでなにがあるというのだろう。

 リコリスはとても真剣な瞳でそういうのだけれど、僕はまだ、リコリスの言う色々なことをきちんと理解することができない。

「怪しい人にほいほいついて行ったり、家にピストルを忘れたりしないとか、そういうことよ」

 ああ、そういうことか。

「そういえばあんた、今日初めて実戦で試してみたんでしょ?」

「じっせん?」

「二人相手にしたんでしょうが」

 うん。

「一人を相手してたら、もう一人に後ろから殴られてたんこぶができた。あと、蹴った時に思ったよりも足が伸びなかった」

「足が伸びない?」

「うん、こう、縮まる感じ」

 意味もなく両手を広げてジェスチャーをすると、リコリスは腕を組み何やらじっと考え込んで、こう言った。

「私服だったからかしら。あんた今日、どんなズボン履いてたの?」

「ジーンズ。この間リコリスが買ってきたやつ」

「だからかもね。普段練習するときは運動着だから、ジーンズは伸びにくいのよ。靴も歩きづらかったでしょ」

「うん。あと、殴った時にパーカーの脇のところがびりっと破けた」

「それも同じ。普段着だと動きづらいのよね」

 リコリスはすっと立ち上がると、体を解すようにして腰をぐるぐる動かし始めた。

「今日は二人組に絡まれたときに対処法やろうか。あと、後ろに着かれたときの対処法」

「わかった」

 僕はもう一度べたー、と胸を床に付けると、足を閉じてそこからすっ、と立ち上がった。

 僕は知らない。こうしてリコリスと向かい合い「練習」をしているその時間に、文乃をいじめて僕が威嚇した佐野麗香が、電車に轢かれてあっという間に死んでしまったことを。

 それと同じに、僕はまだ気が付かない。事態はすでに、とっくの昔に開始してしまっていることを。


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