第16話 『やられる前にぶっ飛ばす』

 朝のうちは閉まっていた商店街も、十時を過ぎればシャッターが開いて賑わってきた。

 団子屋は店先に屋台を出し、焼き立ての団子だとかおにぎり弁当だとかを並べて客寄せをして、魚屋は大きく声を張り上げてそこ一角だけ生臭い。向かいの店からは対照的に焼き立ての香ばしいパンの匂いが漂ってきて、そこにシャンプーやリンスの匂いも混じってくる。

 そういえば、こんな風に休日の朝からぷらぷらと歩き回ったりするのは初めてだ。

 これが意外と面白くて、あっちやらこっちやらふらふら視線を彷徨わせていたら、いつのまにやら文乃を置いて行ってしまったらしい。気が付いて顔を上げると、後ろから慌てて駆けてくる文乃の小さな体が見えた。

 今日の文乃はなぜか眼鏡をしていないから、大きな目玉もマッチ棒が乗るほど長い睫も、ガラス越しじゃなくてそのままそっくり見える。

「眼鏡どうしたの?」

 素朴な疑問に問いかけると、文乃は真っ赤な顔で俯いた。 

 僕は暫くじっと待っていたのだけれど、五分で飽きて、まぁいいやと止めていた足を踏み出した。僕が再び歩き出すと、じっと下を向いていた文乃が慌てたように走ってくる。そういえば、文乃はずっと走っているか急いでいるかのどちらかだ。歩くのが速いのかもしれない。

 少しスピードを落としてみると、親鳥にくっつくカルガモの子供みたいにとてとてと後についてきた。

 僕はそれに満足をして、前を向いてスピードそのままに歩き出す。少し歩くと、後ろから聞こえてくるはずの小さな足音がなくなったことに気が付いて、振り向いた。ぱっ、と目が合ったのは、たまたまこちらを見ていたらしい、二人組の男。

 文乃はそれよりもずっと手前のショーウィンドウにべったりへばり付いていた。

 彼女が見ていたのはいわゆる若者向けのお店で、沢山の服やアクセサリーが展示してある。ガラスに指紋がべったりつくほど密着していたので「入りたいの?」と僕が言うと、文乃は真っ赤な顔を更に真っ赤に紅潮させて俯いた。

 その無言の肯定に、僕は入店することを勝手に決める。ガガー、と自動ドアが開くと同時に、俯いていた文乃がぱっ、と顔を上げる。ぐりぐりとした二つの瞳が、「入っていいの?」「入っちゃうの?」と訴えている。確かに、この店の雰囲気だとか派手さだとかは、地味で鈍くさい文乃のイメージとは遠く離れたものなのだけれど、入店をして警察に捕まるというものでもない。

「入んないの?」

 と僕が言うと、文乃はまた、大きく首を左右に振った。

 

 店内にある商品は、予想通り文乃どころか僕とも遠く離れたとても煌びやかなものだった。

 裾の長いジーンズはなぜか膝の部分が擦り切れていて、尻の部分に髑髏のアップリケが付いている。やたら襟ぐりの大きなシャツは鋏でじょきじょき切られたような跡が沢山あって、宙に翳せば向こう側がくっきり見える。謎だ。ベストは床に着くほど裾が長いし、パーカーの背中にはこう書いてある。『fart sexy style』――(ケツが綺麗だ)。意味がわからない。

 女の子の服だって変わらない。ひらひらが三段くらい重なっているスカートはパンツが見えそうなくらい短いし、上着だって下着が見えるんじゃないかっていうくらい襟ぐりが大きい。そのくせリボンはやたらでかくて、なぜか鎖が付いている。口から血を流したこの熊は、一体どこがいいのだろう。

 真っ赤に頬を火照らせた文乃は、きらきらと瞳を輝かせながらあっちへ行ったりこっちへ行ったりきょろきょろしていた。やたらひらひらとした蝶々みたいなスカートを穿いたり、でっかいリボンがついた帽子を被ったり、その他色々。色々試してはいるようだけれど、買う気は一切ないらしい。どれもこれも、試着をして鏡を覗いて気が済んだら、ハンガーを通して元の場所に戻している。

 けれど一か所、アクセサリーの所をひどくじっくり眺めているので「これを買うのか」と問いかける。ふるふるふると顔を左右に振る文乃。予想はしていた。けれど文乃は、銀色の指輪やらネックレスやらストラップやらが並べられたそこから離れない。金額はピンからキリまで、高いもので数千円、安いもので数百円。

 暫くの間文乃が飽きて顔を起こすのを後ろで待っていたのだけれど、あんまりじっと眺めているので僕は痺れを切らしてしまう。

 丁度いいタイミングで文乃が手に持って眺めていたストラップ(三百円)を奪い取ると、それをレジに持って行って、会計する。それと一緒に、近くの映画館で公開をされているという映画の割引券を渡されたので、レシートと一緒に財布の中に突っ込んだ。

 それから、『mint』というロゴの入った袋の文乃の顔に突き付ける。

「あげる」

「?」

「これ、さっき見てたやつ。ストラップ、あげる」

 すると文乃は、きょとんと全く意味が解らないというような顔をしてからぱちりぱちりと瞬きをして、ぼっ、と顔を火照らせた。この間テレビで見た、真夏の完熟トマトみたいだ。

「これ……」

「うん」

「くれ、るの……?」

「うん」

「お金……」

「いらない」

 いつだったか、前にも同じようなやり取りをしたな。

 その時も文乃は今と同じで、小さなメロンパンを平べったい胸にぎゅうぎゅうに抱き込んで、はにかんだまま顔を真っ赤に火照らせていた。

「うれ、しい……ありがとう……」

 いつもよりも上擦った彼女の声に、よっぽど欲しかったんだなぁ、と全く的外れなことを考えてしまう僕は、文乃の本心に気が付かない。そして、ショーウィンドウからこちらをじっと覗いている二つの人影にも気が付かない。

 僕が渡したストラップのことをよっぽどまでに欲しかったのか、店を出てからも文乃はずっと握っていた。紙の袋がくしゃくしゃになるくらいまで握りしめていたので、「つけちゃえば?」と僕が言うと、文乃は慌てた様子でスマートフォンを取り出した。道のど真ん中でストラップを装着しようとし始めたので、脇にあったベンチに座って行うようにと促した。

 鈍くさい文乃がストラップに戸惑っている間、僕は隣に座り辺りの様子を見回してみる。

 先日駅周辺の話が出たとき、野々村は「何もない田舎だよ」と言っていたけれど、マンションはあるしショッピングモールはあるしゲームセンターだってちゃんとある。少し遠くを見てみると、「TANAKA MOVIES」という看板が見えた。そういえば、僕の財布の中には先ほどお店で貰った割引券が入っている。

 映画なんて見たことないし、そもそもあまり興味がないけれど、時間は捨てるほど沢山ある。

 不器用な文乃のスマートフォンに漸くの事透き通った緑色の蝶がぶら下がったことを確認し、僕は文乃に問いかけてみる。

「映画、見る?」

「えい……が」

「そう、映画。さっき、お店で会計したとき、割引券貰ったんだけど。見る? 興味ないんなら別にいいけど」

 財布の中から二枚のチケットを取り出して、彼女に渡す。

 彼女は食い入るようにそれを見つめて、薄い唇をゆっくり開いた。

「み、たい」

「そう」

「みに、いき、た、い!」

「わかった」

 映画館はそこから十分ほど歩いたところに存在した。

 休日だからかとても混んでいて、チケット一枚買うにも欠伸が出るほど時間がかかった。並んでいる間、チケット売り場の横で売られているやたらと値の張るポップコーンだとかコーラだとかに目を奪われてばかりいる僕は、数メートル後ろにいる二人組にも気が付かない。

 漸くの事チケットを手に入れさぁ中に入ろうという時に、僕はトイレに行きたくなる。「先に入っていていいよ」と文乃に言って、ひとりでトイレに向かう僕は、音も立てずについてくる二人組にはやっぱり気が付くことができない。

 チケット売り場があれだけ混んでいたのだからトイレもやっぱり混んでいるかと思ったけれど、それはただの杞憂だった。廊下に列がはみ出るほど並んでいた女子トイレと違い、男子トイレは本当にぽつぽつと数えるほど。

 用を済ませて手を洗うと、僕のスマホがぶるぶる震える。リコリスだ。

「はい、もしもし」

『もしもし? 徹?』

「そう」

『今、なにしてるの?』

「映画館」

『映画館? あんた映画なんか見るの?』

「クラスメイトと一緒」

『へーえ。あ、映画館では、スマホの電源は切っておかなきゃ駄目よ』

「なんか用?」

『あー、そうそう。あんた、会社の更衣室に学生手帳置いてったでしょ』

「え、うそ」

『ホント。更衣室の中に学生手帳が入ったー、って、事務所に届けが出てたわよ。後で撮りに行きなさい』

「わかった」

 そこで僕は顔を上げて、漸くの事自分が今置かれている状況に気が付く。

 入口にいるのは二人の男。同じような背丈で同じような体型をしているけれど、片方は赤髪の短髪で、もう片方は金髪の長髪。まだ若い。ゲームセンターやカラオケに入りびたり、いかにも遊んでいるというような、そんな男。それだけなら問題はない。問題は、二人の男が入り口を封鎖するように並んで立っていて、刃物のような目を僕に向かって投げているということ。そして、いかにも「殺すぞ」というようなオーラを全身から放っているということ。

 僕はスマートフォンを耳に近づけたまま、問いかける。

「ねぇ、リコリス」

『なに?』

「こないださ。相手に背中を向けちゃだめ、っていってたじゃん」

『そうよ。背中向けたら刺されるわよ』

「二人以上に囲まれたときはどうするのさ」

『……え? 何? あんた囲まれてんの?』

「うん」

 受話器の奥から、はー、というような溜息が聞こえてきた。リコリスが栗色の前髪を掻き揚げて、眉を寄せているのが目に浮かぶ。

『えーと……複数に取り囲まれたとき? 時と場合に寄るんだけど、私だったら――』

「うん」


『やられる前にぶっ飛ばすわね』


 わかった。


 通話が切れるとほぼ同時に、僕は感覚だけで距離を測る。大体三メートルくらい。茶髪の男が思い切り拳を突き出してきたので、僕は少し左に避けて、男の顔面に拳を突っ込む。男の体がよろけたところを見計らって、床から浮いた両足を払う。両方の支えを失った茶髪の男は、そのままずるんと横に滑り、左後頭部から床に着地をする。すると僕の後ろに巨大な影が出来たので、軽く体を捩じりながらそれを避ける。自慢の蹴りを避けられた赤髪の男は、バランスを崩すこともなく即座にパンチを繰り出した。赤髪の男はひどく痩せていてマッチ棒みたいな体をしているくせに、早さもパワーも結構あって、うっかりまともにくらってしまい、僕はよろける羽目になる。それがいけなかった。僕がバランスを崩した瞬間を見計らい、立ち上がった茶髪の男が後ろから僕の頭を殴りつけた。けれど僕は怯まない。倒れる直前、なんとかぎりぎりで持ちこたえて、後ろにいる茶髪男の頬をぶっとばす。男がバランスを崩した一瞬で、僕は曲げた膝のばねを使って茶髪の男を蹴り上げた。膝のばねとタイミングとリコリスの教えのおかげで入った僕の蹴りは、藁みたいに痩せた茶髪男の頭を便器の中に突っ込ませた。けれど安心はまだできない。赤髪男がポケットからナイフを出している。折り畳み式の、小型のものだ。まさか刃物を持ってるなんて、さすがにそれは少し困る。赤髪男が刃を出す前に、男の右手ごと僕はそれを蹴り飛ばす。べしゃぁ、とモップみたいに転がる男の体。けれど僕だって、なぜかうっかり左足なんぞ使ったせいで、バランスを保てずよろけてしまう。

 床に転がった赤髪男が、遠くに飛んだ折り畳み式ナイフを探している。ナイフは僕に近い場所に落ちている。僕がそれを拾い上げると、赤髪男が取り戻そうと鬼のような形相で襲い掛かってきた。その男の顔があまりにも恐ろしい表情だったので、僕はびっくりとして驚いて、拾い上げたナイフを思わずぎゅ、と握りしめた。握った衝撃でにゅ、と飛び出た鋭い切っ先は、襲いかかってきた赤髪男を目掛けてまっすぐ伸びる。馬鹿みたいな勢いで襲いかかってきた赤髪男は直前で止まることなど勿論できない。僕に覆いかぶさるようにして襲い掛かってきた男の胸に、刃の出た折り畳み式のナイフが刺さった時に、男の動きは漸く止まる。男の真ん中よりも少しだけ右寄りに刺さったナイフ。男は「くはっ」というか「がはっ」というか、そのような小さな呻き声を立てて、目を開き、泡を吹いて、うつ伏せのままごとんと倒れた。

 倒れたままあまりにも動きがないので、胸に耳をあて聞いてみると、心臓の音がまったくない。呼吸の音すら聞こえない。どうやら息を絶やしたらしい。殺すつもりはなかったのに、またしてもうっかり殺してしまった。出血は殆どしていないので、刺さったところがよかったのかもしれない。よかった。こんな所で出血をしたら後始末が大変だ。

 さて、どうしよう。何か身元を確認するものがないかと男の体を弄ってみると、ズボンのポケットに黒い手帳と財布、そして名刺が入っていた。『カンノ株式会社 筒井雄太』とりあえずこれは貰っておこう。

 便器の中に首を突っ込んでいる茶髪の男は生きているはずなのに、まだ起きない。どうしようかと考えて、仕方がないので二人丸ごと一番奥の個室に押し込んで、僕はトイレを後にする。

 そういえば、二人の相手をしているとき誰もトイレに入ってこなかったなと気が付くのだけれど、男子トイレの扉の前に『掃除中』という札が立てられていた。片付けたほうがいいのかな、と思うのだけれど、どこに片したらいいのかわからないので放っておいた。

 映画はすでに始まっていて、劇場はすでに真っ暗だった。

 文乃の姿を探すのだけれど、彼女の小さくて細い体はこの暗闇と人ごみの中では存在が更に希薄に儚くなる。

 頼りになるのは、手の中にある座席番号と僕が渡したストラップ。透明な緑の蝶々のストラップは、文乃のスマホにぶら下がってきらきらと光を放っている。なぜずっと手に持っているのか、どうして鞄にしまわないのかわからないけれど。

正面にあるスクリーンでは、今話題の俳優と女優が抱きしめ合い愛を確認し合っているのだけれど、文乃は見知らぬ男女の接吻になど気にも留めず、ストラップを握りしめたまま何かを探すようにしてきょろきょろとあちらこちらに顔を向けている。

「ごめん、遅くなった」

 僕が隣に座ると、文乃がびくんと肩を震わせ、それからぶんぶん小さな頭を左右に振った。嘘だろうな。映画の上映が始まって、すでに十分を超えている。

 僕が席についてからも、暫くの間文乃はなぜかそわそわとした落ち着きのない行動を取っていたのだけれど、そのうち目の前に広がる巨大スクリーンに心を奪われ僕のことなど気にも留めなくなった。

 映画の内容は文乃の購入したパンフレット曰く「今世紀を代表する至極のラブストーリー」らしい。なんでも、人間不信のサラリーマンと夢見がちな女子高生が出会い、孤独な二人は傷を舐め合うようにして仲を深める。恋人とも依存ともいえるような二人の関係は女子高生がとある難病に侵されてしまったことにより変化を遂げるという、そういう話。

 珍しく興奮をして饒舌になった文乃によると、原作はなんとか、っていう有名な作家の小説であり、文乃はその作家が好きで、発売している本はすべて本棚に揃えているのだという。

 へぇ、と僕は思うのだけれど、残念ながら僕はその作家のことは欠片も知らないし興味もない。しかも少し寝不足で疲れているし、この暗闇と静けさの中ではどうしても眠くなってしまう。雨の降る公園で主人公がパジャマ姿のヒロインを抱えて愛を叫ぶシーン辺りまではなんとか起きてはいたのだけれどやはりうっかり寝てしまったらしく、起きたときには主人公もヒロインもスクリーンからいなくなって、静かな音楽と共にスタッフロールが流れていた。

 鉛が乗っているような瞼を擦り、頭を上げる。どうやら隣の文乃に寄りかかっていたらしく、相変わらず真っ赤な顔をした文乃が眉を八の字にして固まっていた。

「ごめん」と言うと、文乃はまたぶんぶん頭を左右に振った。

 上映中に寝たことで、僕はトイレに押し込んだ二人の男の存在をすっかり忘れてしまったわけなのだけれど、帰りに文乃がトイレに立ち寄ったことにより、僕はふらりとその存在を思い出す。気まぐれに男子トイレを覗いてみると、つい一時間半ほど前まで立っていた『清掃中』の立札は撤去されて、個室の中に押し込んでおいたはずの二つの体もなくなっていた。茶髪男が目を覚まして、赤髪男をどこかに連れていったのかもしれない。

 それにしても、あいつらは一体どこの誰だったのだろう。『カンノ株式会社』とは、一体なんの会社なのだろう。あいつらは、どうして僕に襲い掛かってきたのだろう。

 トイレの個室のドアにもたれかかったままじーっ、と少し考えて、一分ほど時間を過ぎたころ、僕のお腹がぐぅ、という音を立てる。腕時計を見ると、すでに十三時を過ぎている。思えばお腹はぺこぺこだ。文乃だって、例の如く眉を八の字に垂れ下げてきょろきょろと挙動不審な動きをしているのかもしれない。

 取り合えず今は昼食だ。奴らのことは、あとでリコリスにでも聞けばいい。


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