第14話 『友達でしょ』
十九時過ぎ、学校から一時間ほど離れたアパートに到着するとほぼ同時。
制服から着替える時間も与えられぬまま、リコリスによって殆ど強制的に赤のポルシェに乗せられる。
向かわされたのは勿論EWC本社。数週間前、リコリスと出会った僕が連れてこられたあの場所。訪れるのは久しぶりだ。あの時、リコリスと出会って連れてこられた時以来。
最初のうちはリコリスの隣に座り込んで色々な話をしていたのだけれど、うっかり途中で寝てしまい、EWC本社が一体どこの地域にあるのか赤のポルシェが一体どのようなルートを辿ってこの場所にたどり着いたのか、結局のところわからなかった。
前回訪れたときはそのまま社長室に連れて行かれて最高責任者と面会をさせられたわけなのだけれど、今回はエレベーターに乗って内臓の浮くような思いをすることもなく、裏の扉を通って地下に連れて行かれる。
設置されていた更衣室で渡された運動着に着替えると、すでに同じく運動着に着替えたリコリスが腕を組み、扉の前で僕のことを待ち構えていた。
EWCの地下には運動場が設置されていた。三分の一がコンクリートで、三分の一が畳。残りの三分の一がフローリングで出来ている。妙に広い。学校の運動場とまではいかなくとも、その半分――体育館はすっぽり入ってしまう程度の広さはあった。
「昼間は、会社の剣道部とか運動部とかが使ってるのよ」
「そんなのあるの?」
「あんた、本当にテレビ見てないのねー。こないだの柔道の国際大会で優勝した、安部正義選手って私の同僚なんだから」
「へぇ」
僕はリコリスに言われるまま、渡されたスポーツシューズに足を通す。脇に「EWC」と書かれた白い靴。見た目は普通のものと殆ど違いはないけれど、リコリス曰く「極限まで軽量化を目指した伸縮性とクッション性に飛んだ最先端の靴」らしい。ただ問題はこのデザインのダサさであって、「いくら最先端といっても、このデザインでは売れるものも売れやしない」ものらしい。
靴ひもを結びリコリスにつれられるまま、運動場のほぼ中心――三つに区切られたうちの真ん中にある、畳の場所――を踏み入れる。
「本当は射撃の練習をしようと思ったんだけどね。先客がいたから、今日はこっち。どっちにしろ、教えなくちゃいけないことはたくさんあるから」
「射撃の練習ってどこでやるのさ」
「この下に射撃場があるのよ。こっちの運動場はみんな知ってるけど、そっちは内緒」
「ふぅん」
正面にいるリコリスに倣い、僕も体を解し始める。
手首を回し体を反らし準備体操を行う。180度全開に開脚をしてぺったり床に胸をつけた僕の体の柔軟性に、リコリスはとても驚いたようだった。前屈をしてようやく指先が足の爪先につく程度のリコリスは、「誰にでも特技ってあるものなのね」と言った。
それから運動場を軽くランニングして、回転運動を行った。前転や後転はともかくとして、開脚前転や開脚後転、側転を行うのは初めてだ。リコリスが先に行うことで、見おう見まねでやっていく。ヘッドスプリングやハンドスプリングが終わった後で、「あんた、意外とバネがあるのね」と感心された。
最後に逆立ちで運動場を一週し、ようやく事態は本題に入る。
「いい? 絶対に相手に背中を向けちゃ駄目よ。背中を向けたら、すぐにぐさっとやられるからね」「頭を下げたり視線を逸らしたりするのも駄目。頭を下げた瞬間に殴られちゃうかもしれないし、視線を逸らしたりなんかしたら、それこそもう怖がってるって思われるでしょ。ああ、こいつは弱い奴だって舐められるのよ」「もし、うっかり後ろに着かれたら相手の後ろに着き返すか、ちゃんと正面に向き直りなさい」
足を浮かすな、地面を這うようにして歩け、飛んだ瞬間に払われるから気を付けろ。
フットワークを軽くしろと言われたので意味もなく飛び跳ねて見たら、そうじゃないと怒られた。
「フットワークを軽くしろっていうのはそういうんじゃなくて……もっとこう、地面に足を吸いつけるように動くのよ」
地面に足を吸いつける。一体どうすればいいのだろう、僕の足の裏は至って普通の足の裏で、吸盤も何もついていない。どうしたらいいのかわからないでずるずる足を引き摺っていたら、リコリスが「こうするのよこう」と見本を見せてくれた。よくわからない。僕には、普通に動いているようにしか見えないけれど。
「あんたはまだ小っちゃいし、体重も軽いから、まともに受けたら、ほんの少しの衝撃で吹っ飛んじゃうわよ。膝は少し曲げ気味にして……ああ、そこまで曲げなくていいから。普段普通に立っているより、ほんの少しだけバネを溜めておくの。そうすれば、それがクッションの代わりになって、少しくらい急なことにでも対応できるようになるから」
リコリスによると、どうやら立ち方にもコツがあるらしい。
右足を出して左足を引き、半身になる。そこから少し膝を曲げて、腰を落とす。その姿勢で止まっていると、リコリスはぽん、と僕の体を後ろに押した。
正面から急に受けた衝撃に、僕の体は後ろに下げた左足で踏みとどまる。
「ほら、こういうこと」
どういうことだろう。
「今みたいな体勢を取って置けば、咄嗟の時にもちゃんと対応できるのよ。ためしに、両足を揃えて普通にまっすぐ立ってみなさい」
言われたとおり、普段のように立ってみる。
するとリコリスは、またしても何をいうこともなく急にぽんと体を押した。
まっすぐ立っていた僕の体は、咄嗟のことに対応できるはずもなくそのまま後ろによろけて尻餅をついた。
「ほら、見なさい。わかった?」
よくわかった。
僕が立ち上がるとすぐに、リコリスは僕の右手を横に引いて、体の右半身に力を掛けた。
「片足に重心がかかるとどうなる? 片方の足が浮くでしょ? それで、こっちの体重がかかった方の足を引っ掛けると」
リコリスは、僕の体重の乗っかった右足に自分の左足の窪みを引っ掛け、そのまま横にすっ、と引いた。それと同時に、支えるもののなくなった僕の体はすとんと斜め後ろに倒れ込んだ。
「こういう風になるの。怪我をしたくなかったら、二本の足でしっかり立って、絶対にバランスを崩さないこと」
リコリスは倒れ込んだ僕の腕を引っ張って立たせると、
「さぁ、もう一回やるわよ。今度は、動きをつけながらね」
とそう言った。
ただ「体の使い方」をやるといっても、色々なことがあるらしい。
そんなことをやりながら二時間ほど過ごしたあと、僕たちは遅めの夕食を取る。時間を見るとすでに二十二時を過ぎている。
「夢中になってやりすぎちゃった」
とリコリスは言っていたのだけれど、僕は別に構わない。ただし、お腹は減っていた。学校でパンを食べておいてよかったと思った。あれがなければ、僕は今頃飢え死にしていたかもしれない。
会社の食堂はすでに閉まっていたのだけれど、そこにある有り合わせの材料を使ってリコリスが作ってくれるという。
「なにがいい?」
何でもよかったのだけれど、「何でもいいが一番困る」と怒られたので、僕は少し考え込む。そういえば、今日の休みに野々村が「腹減ったからオムライス食いたい」と無茶なことをいっていたことを思い出した。
オムライスって、一体どんな食べ物だっけ。
僕がそれを伝えると、リコリスはまた驚いたような顔をしてから「いいわよ、ちょっと待っていなさい」とそう言った。
結果的に言うと、オムライスとは「ケチャップで味付けをしたご飯を薄焼き卵で包んだもの」だった。オムレツとは少し違う。初めて見る食べ物をじっ、と観察していると、リコリスにケチャップを渡された。正面にあるリコリスのオムライスには、すでにハートマークが書いてある。
「これをかけるともっとおいしくできるから。好きなだけかけなさい」
そういうものなのだろうか。
広い食堂の角っこにあるテーブルの一部分だけを使い、リコリスと向かい会ってオムライスを食べる。
「美味しい?」
と聞かれたので、僕は答える。
「美味しいよ」
「昨日のカレーとどっちが美味しい?」
どっちだろう。少なくとも、コンビニのお弁当よりは美味しいと思うのだけれど。
スプーンを咥えたまま考えていると、どこからが音が聞こえてくる。
ぶるぶると何かが振動をするような、そんな音。
「それ、あんたのスマホじゃないの?」
と言われて、初めて僕は気が付いた。
足元に置いておいた鞄の中からスマホを取り出し、タップする。
『野々村慎吾』
LINEが来たのは初めてだ。今まで、リコリスからも誰からも一度も来たことがない。
どうやって開けるんだっけ、教えてもらったのに忘れてしまった。
リコリスに教わりながら漸くの事LINEを開ける。そこには、いかにも「野々村」というような賑やかしい文字が並んでいた。
『お疲れちん🌟初メールです!うふ😚安西は今何してんの?俺は寮のやつらとゲームしてるよ☀️ヒロもいるよ🎵🎵もうすぐGWだね🎶GWになったら一緒にどこか遊びに行こうな!😆🎢🎡』
文字だけなのに、こんなに五月蠅い。文字で静かにならないなんて、野々村は一体どんな時静かになるのだろう。
僕がじっ、と考えながらスマホ画面を見ていると、オムライスを食べる手を休めたリコリスが何とも感心したようにして僕に言った。
「あんた、友達できたのね」
友達なのかな。よくわからない。友達、って、友達の定義ってなんなんだろう。
「友達でしょ。わざわざあんたみたいな世間知らずとLINEのやり取りなんかしてくれて、遊びに行こうなんて言ってくれる子。ただの知り合いじゃないでしょ」
そうなのかな。友達とか友達じゃないとか、野々村って誰にでもああいう感じな気がするけど。
「GWってなに?」
「GW? ああ、ゴールデンウィークのことよ」
「ごーるでんういーく?」
いまいち不明確な口調で僕が言うと、リコリスは自分の手帳を取り出して、五月の頭を指差した。
「これ。五月の、この辺り。赤い日付のところはずっと休みが続いているでしょ。だからゴールデンウィークっていうの」
「へえ」
「この辺りは、学校も会社も全国的にお休みになってね。家族で旅行に行ったり友達同士で遊びに行ったりするのよ」
「ふぅん」
リコリスの渋い茶色の手帳には、赤い日付の所にも黒い日付の所にも細かくたくさん色んな予定が書かれている。彼女はそれをぱたんと閉じて鞄の中に仕舞い込むと、
「ま、いい機会かもね。あんたにはまだまだ、色んなこと覚えて貰わなくちゃいけないし」
射撃の練習もしなくちゃね、と悪戯な瞳でウインクをされて、僕は何とも複雑な心境になってしまう。それが何とも居心地悪くて、オムライスを食べることに逃げる。
「別に、休み中ずっとっていうわけでもないんだけどね。一日くらいクラスの子――その、ノノムラくん? と遊んできたって構わないわよ。可愛い女の子とデートをしてもね。最も、あんたにその甲斐性があればの話だけど」
カイショウ。カイショウってなんだっけ。色々覚えたはずなのだけれど、使うことのない単語はそんな簡単に出てこない。
「まぁ、そんなに焦る必要のないしね。幸い明日明後日お休みだし。月曜の朝は送って行ってあげるから、じっくりしっかりやりましょう」
というリコリスのオムライスはすでに三分の二くらい減っている。僕の食べるスピードが遅いらしいということは、植草に言われて気が付いた。
「仮眠室の使用許可は取ってあるから。それを食べたら少し休んで、あと一時間くらいやりましょうね」
リコリスはスプーンをかこんと置いて、テーブルの上で膝をつき、両手の指を絡め、そこに尖った顎を乗せて首を傾げた。
僕はそんなリコリスのブラウンの瞳を見つめながら、そう言えば何かを聞こうと思っていたことを思い出す。けれど、その「何か」を忘れてしまった。思い出そうとするのだけれど、一向に記憶の底から出てこない。ほんの数秒考えて、僕は考えることを放棄する。忘れたということは、大したことではないというそういうことだ。
ようやくのこと半分くらいになったオムライスを掻きこみながら、僕は頷く。
取り敢えず僕が今やるべきことは、この山盛りのオムライスを胃の中に放り込んでお腹を満たすということだけだ。
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