第13話 『これあげる』

 僕は今、美術室にてバケツや床の片付けを行いながら、保健室に向かった文乃を待っていた。 

 昨日は、埃っぽい床に転がされて乾いたモップで突かれただけだったから、顔を洗って制服を叩けばとりあえず大丈夫だったのだけれど、バケツの水を浴びたとなればそうはいかない。

 いまいち要領の掴めない途切れ途切れの文乃の言葉を集約すると、「保健室に予備のジャージが置いてあるから大丈夫」ということらしい。

 水の零れた床を拭いて、落ちた絵の具や道具を拾い、乱れた机や椅子を戻す。雑巾がどこにあるのかわからなくて戸惑った。結果的に、教室の脇にあった掃除用具入れの中にすべて押し込まれていたわけなのだけれど、雑巾もモップも全部カビていて、僕のことを嫌がらせた。

 片づけを始めて十分も過ぎる頃にはすべて綺麗になったのだけれど、ただ一つだけ、牽制のために僕がカッターで引っ掻いた壁の傷だけはどうすることもできなかった。考えたあげく、教室の隅で待機をしていた巨大な絵――銀色の宇宙人のような生き物が、七色のブラックホールのような得体の知れない色鮮やかな何かの中に呑みこまれている途中のような――を正面に置いて、カモフラージュをすることに決めた。

 水の入ったバケツやら水の滴った床やらを片付けたあとの美術室は、予想外に殺風景なものだった。一定の間隔で並べられた木製の長机と椅子。教室の後ろにあるショーケースの中には、粘土で作られた人の顔だとかわけのわからない木工細工だとか過去の優秀な製作品が展示されている。やたらと白さが目立つ壁には、美術部員の描いた虫歯予防週間や火災予防週間のポスター、それに混じって「ピカソのゲルニカ」だとか上手いんだか下手なんだかよくわからない絵が貼られていた。

 適当な席に座り込んでそれらの絵を鑑賞しながら、考える。

 一体、どうしてEWCに彼女の殺害を頼んだ依頼者は、『穂積文乃』を殺そうとしているのだろう。

 僕の目から見て、とうか、きっとこの世の誰から見ても、文乃はただの女の子だ。

 いや違う、普通よりもかなり弱い、小さくてビビり屋の、ドジで間抜けで鈍くさいただの少女だ。

 専門の人間に多大な金を出してまで殺しを依頼するなんて、一体彼女のどこにそのような価値があるのだろう。

 僕は佐野麗香の言葉を思い出す。

『あんたなんか死んじゃえばいいのに!』

『あんた、なんで生きてんの? わけわかんない』

『そーそー、さっさと死ねばいいのに』

 佐野達のやっていたことがいいことか悪いことかは別として、正直な所佐野の言い分もまったくわからないわけではない。確かに文乃は少々かなり鈍くさいし、自己主張が少なすぎて時々挙動不審だし、声が小さくて言っていることが聞こえない。

 佐野のような気が強くて気性の激しいどこかの誰かが、「死ねばいいのに」とか本気で思ってしまうことが、全くないとも言い切れない。

 だからといって、それを行動に結びつけたりするだろうか。

 行動に結びつけるとそうしても、あの、いまいち冴えないパッとしない少女一人を殺すために、そんなお金を掛ける必要が一体どこにあるというのだろう。

 わからない。少なくとも、僕だったら絶対そんなことはしない。

 なんていうことをくだぐだ考えているうちに、僕のお腹が空腹を知らせる音を出す。

 そうだそうだ。文乃にかまけて忘れていたけど、僕はお腹が空いていたんだ。

 一体どこに置いたんだっけと見渡すと、教卓の上に置いてあった。パンの入った紙袋。封を開けると、おいしそうな甘い香りが鼻孔を擽る。さぁ食べようと袋の中に手を突っ込んだその時に、僕は僕を見る視線に気が付いた。

 文乃だ。

 名札のついていない、真新しい小豆色のジャージに着替えた文乃は、小さな両手を太腿の辺りでぎゅ、と揃えるようにして、入り口の辺りに突っ立っていた。その、ボールみたいな小さな顔は相も変わらず紅潮していて、分厚い眼鏡はされていない。その代り、やたらぐりぐりと主張をする大きな目玉が二つ並んでこちらを見ていた。

 帰ってきたら「ただいま」と、迎えるときは「おかえりなさい」と言いなさい。つい先日、リコリスは僕にそう言った。

 だから僕は、「おかえりなさい」と文乃にいう。すると文乃は、戸惑うように視線を落とし、蚊の鳴くような小さな声でこう言った。

「……ただい、ま」

 それが例えどれほど小さな声であったとしても、僕は文乃が返事をしたことに満足をして、カレーパンに齧り付く。うまい。そもそも僕は、それほど食に対してうるさくないし好き嫌いもないのだけれど、腹が減ってればなんでもうまい。昨日の夕飯もカレーだったし、まだ鍋に一食分くらい残っていたということも思い出すけれど、それさえもすぐに許せてしまう程度にうまい。

 僕の掌よりも二回り小さいであろうそれをあっという間に食べつくし、袋の中からコロッケパンを取り出した。大口を開けて噛り付こうとしたときに、またしても文乃がじっと見つめていることに気が付く。どうしたのだろう。食べたいのかな、と思うのだけれど、文乃は一向にアクションを起こさない。大した意味もなく手を振ってみたりして見るのだけれど、本格的に反応がない。

「……本当に見えないの?」

 僕が言うと、鈍い文乃は漸くのこと小さく首を上下させた。

 僕はパンを袋にしまい、席を立つ。文乃との距離を一メートル程縮めて、両手の人差し指を一本ずつ立ててみる。

「これ、見える?」

 左右に首を振る文乃。僕はまた一メートルほど距離を縮めて、問いかける。

「これは?」

 文乃は困ったように眉を顰め、首を傾げた。どうやらまだ見えないらしい。

「今度は?」

 今度は二メートル程縮めてみると、奈々恵は迷うような動作で左右の指を二本ずつ立てた。まだだ。まだ、ちゃんと見えていない。

「これでどう?」

 更に一メートルほど距離を縮め、文乃の正面から三十センチほどの距離に立つ。流石に、この距離で提示されればどんな近眼でもわかるだろう。よっぽどの年寄りか、間抜けでもなければ。

 文乃は驚いたようにして目を開き、薄らと唇を開いて、それから顔を真っ赤に紅潮させた。いや、最初からすでに赤かったけど、それより更に赤くさせた。この距離だったら僕からも、普段は牛乳瓶の奥底に隠れているであろう長い睫が振れる様子や珍しい宝石みたいな大きな目玉が揺れているのがはっきり見える。

「まだ見えないの?」

 いい加減待ち侘びた僕が、じっ、と上目使いで見上げ続ける文乃に問いかけると、文乃は、はっ、と我に帰ったようにして跳ね上がり、それから両手の人差し指を一本ずつ持ち上げた。ここまでくれば漸くの事わかるようだ。

 答えが出たことに僕はあっさりと満足をして、先ほどまで座っていた場所に舞い戻る。真っ赤な顔をした文乃は、真っ赤な顔色を保ったまま指先一本動かすことなく立ち竦んでいる。一体どうしたというのだろう。そういえば、普段あのやけに黒いぐりぐりとした目玉を隠している分厚い眼鏡は一体どこにいったのだろう。僕が見たときすでに見える場所にはなかったから、佐野によってゴミ箱にでも捨てられてしまったのだろうか。

 そんなことを考えながら、パンの袋の中に手を突っ込む。袋の中には、まだ二種類のパンが残っている。コロッケパンとメロンパン。

 僕はほんの気まぐれで、それを文乃に上げることに決める。

「穂積さん」

 五メートル程離れた場所から声を掛けると、文乃は、はっ、と頭を上げた。

「ちょっとこっちきて」

 僕の言葉に、文乃は周りにある机だとか椅子だとかを伝い気を付けながら、僕の正面五十センチほどの場所にやってくる。

「これあげる。食べていいよ」

 細い胴体から垂れ下がった左手を取って、そこに僕は白い石みたいな形をしたメロンパンをちょこんと乗せる。手のひらサイズのメロンパンは、文乃のぬいぐるみみたいな小さな掌に乗せるとまるで子供のように見えた。

 僕の突然の行動に文乃はひどく驚いたらしく、大きな瞳を更に大きく見開いて、手の上に乗っかっているメロンパンとコロッケパンを食べ始めた僕の顔を交互に見比べた。

「こ……れ……」

「うん」

「くれる、の?」

「うん」

 なにやら、またしても挙動不審な態度を取り始める文乃を無視して、僕はコロッケパンをむしゃむしゃ食べる。

 文乃はひどく驚いて、それから困ったような顔になり、まるで泣きそうな表情でこういった。

「でもわたし……お金なんか持ってない……」

「お金?」

 文乃の突拍子もない発言に、僕は少し考える。

 どうしてそこで、突然お金が出てくるんだろう。これのお金はすでに僕が――間違えた、黒田が売店で払っているので問題ない。

 僕がそれを伝えると、文乃は更に眉間のしわを深くして、自分の体を守るようにして縮まって、いった。

「ほん、とに、くれ……るの……?」

「?うん」

 だからさっき、あげると言ったではないか。

 僕の手の中にあるコロッケパンはすでに半分くらいなくなっていて、僕は口の中にあるものを咀嚼して、飲み込み、齧り付く。

 文乃は何か考え込むようにして首を上下左右に動かして、それから大事なものを守るかのようにしてメロンパンを抱き込み、笑った。

「あの、ね」

「うん」

「あり、が、と……」

 どこか照れたような態度ではにかむ彼女。赤くなって恥ずかしがるのはすでに見慣れたことなのだけれど、これは初めて見る反応だ。

 なんとなく新鮮な気分でコロッケパンを食べきり、油まみれの指先を舐める。

 窓から差し込む夕暮れに照らされた文乃は、相も変わらずはにかんだままぎゅ、と小さいメロンパンを抱きかかえていた。そんなに強く抱きしめていたらパンが潰れるんじゃないか、とか、そんなにメロンパンが好きだったのか、とか、もしくはめちゃくちゃ腹が空き過ぎてるんじゃないか、とかどうでもいいことを考えて、僕はふと、思ったことをそのまま彼女に伝えてみる。

「穂積さんさ、コンタクトにしてもいいんじゃない?」

 日頃、リコリスに「非常識」だの「世間知らず」だの罵られている僕だって、コンタクトレンズくらい知っている。なぜなら、長塚由美子が日常的に使用をしていたからだ。目の部分に直接付着させて使う、視力補正のための医療器具。

 文乃は確かに背は低いし胸はないし、下手したら小学生のようにも見えるけど、目が大きいし睫は長いし、子猫やパンダやコアラのように愛嬌のある顔をしている。佐野などよりもずっと可愛らしいといえるような顔立ちをしているのではないだろうか。

 それを伝えてすぐ後に、僕は彼女に背を向けて、空っぽになったパンの袋をゴミ箱に捨てに行ったので、大した考えを持っていない僕の言葉で彼女がどのような反応を示すことになったのか僕は知らない。

 そして、そのまま鞄を持ち、真っ赤な顔の文乃を置いて教室を出て行ってしまったので、文乃が一体どのような行動を取ったのかよくわからない。

 僕が知っているのは、真っ赤な顔で内心悶絶をしていたらしい文乃が僕に置いて行かれたことに気が付いて、ばたばたと廊下まで追いかけてきたところで躓いて顔面からすっ転んだところだけだ。

 静かな校内に似合わない派手な音を立てて転んだ文乃に僕は少し呆れてそれからむしろ関心をする。一体何をしているんだ。

 そこでふと、なにやらじっと見つめるような視線を感じ辺りをきょろりと見渡してみるのだけれど、勿論そこにはひとっ子ひとりいるはずもない。

 気のせいか。

 僕はそう思い、まるで車に轢かれたカエルのような格好をしている文乃に手を差し伸べた。

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