第12話 『おもちゃ』

 買った――この場合、買ってもらったという方が正しいのかもしれないけれど――一体どこで食べたらいいのだろう。植草曰く「食堂とか教室とか、決められたところでしか食えないんだよ。もし、うっかり変なところで食ってるのが見つかったら怒られるし。あとは皆、部室とかで隠れて食ってる」らしい。けれど僕には、そんなに隠れて食べれるような場所はないし、部室もない。食堂を覗いたら、体の大きな運動部や上級生が占領していて、到底入れる雰囲気ではない。

 とりあえず電車に乗って駅のホームとかで食べるかなー、なんてうつらうつらと考えているうちに、僕の両足はまたしても僕の上半身を僕の知らないところへ連れて行く。

 ふと気が付くと、そこはまた教室からも購買からも遠く離れた知らない場所で、僕は困惑をしてしまう。

 どこだここは。

 つい先ほどまで、B棟一階体育館寄りの購買部にいたはずなのに。窓から外を見下ろすと、地面は遠いし木は高いし、そのくせ妙に空が近い。一体僕はいつの間に階段までも登ってしまったのだろう。

 誰かに聞こうと思うのだけれど、案の定周りには誰もいない。手近にあった教室はどれも特別教室で、右から順にサテライト教室、コンピューター室、特別自習室などなど。

 パンの袋を持ってうろつきながら、僕は考える。

 どうしたらいいのだろう。目印がなければ、聞く人もいない。このままではどこへ行っても迷いそうだ。今わかっていることは、とりあえず今、二階以上のどこかの場所にいるということ。

 下ろう。

 とりあえず下って、誰かに聞こう。下れば誰かがいるはずだ。

 そういう希望をパンの袋と共に腕に抱え、僕は下ることに決める。そして、誰もいないと思われたその場所から人の声が聞こえることに気が付いて、僕は足を止めた。

 美術室だった。

 本来なら美術室なんて場所は僕には全然関係がないし気にも留めないはずなのだけれど、その時の僕は、ついうっかり、中から聞こえてきた音と声に反応をしてしまう。

「あんたなんか死んじゃえばいいのに!」

 随分と物騒なことを口走るその声に、僕は耳を澄ます。どこかで聞いたことある声だな、と僕は思う。甲高い、女の子の声。ええと、誰だっけ。

 あ。

 尾坂奈緒だ。

 音を立てぬよう気を付けながらこっそりゆっくり扉を開けると、そこには何かを囲むようにして、数人の女の子が集まっている。一体何を囲んでいるのだろうと目を凝らしてみてみると、それはやっぱり文乃。 

 ただし昨日と違うことは、尾坂や他の女子がモップを持っていないことと、文乃が床に転がっていないということ。

 その代わりに、文乃は水を張ったバケツの前に膝をつき、後ろにいる誰かに頭と腕を抑えられて、ざばざばと水責めにあっている。

「あんたって本当にキモい! うざい! 苛々すんのよ見てるとさ!」

「あんた、なんで生きてんの? わけわかんない」

「そーそー、さっさと死ねばいいのに」

 後ろで文乃の頭と腕を押さえつけている奴が、ボールみたいな文乃の頭をバケツの中に押し込んだ。

 周りの女子は声を揃えて「いーち、にーい、さーん」と声を揃えて数えている。一から十まで数え終ると、前髪を掴んで起き上がらせる。

 水を吸い込んだらしい文乃は、げごげほとどう考えても弱いであろう気管を詰まらせて、苦しそうに息をした。眼鏡はとうの昔にどこかに消えて、おさげも少し解け掛けている。

 随分と大変なことになっているなぁ。

 昨日の一件でもう懲りたかと思っていたけど、なかなかうまくはいかないらしい。

 もう一度助けた方がいいのかなぁなどと思いながらブレザーの内側に手を突っ込んだりするのだけれど、なぜかそこには何もない。ピストルどころかホルスターさえもかかってない。一体どこに置いてきたのかと考えて、そうだ、朝、ネクタイばかりに気を取られ、そのまま家に置いてきたのだ。

 扉の外側で僕がそんなことをしている間にも、尾坂の行為はどんどんエスカレートをしている。

 どん! と後ろから蹴飛ばされ吹っ飛んだ文乃の体はそのまま水の入ったバケツの中に突っ込んで、全身水塗れになった。床もびちゃびちゃ、服もびちゃびちゃ。その光景に、一斉に笑い声をあげる、女子。

「いいなぁー、穂積。涼しそー」

「今日ちょっと暑いもんねー。なにそれ、水浴び?」

「可愛いわよー。まるで、用水路に浮かぶカラスみたい」

「そうねー。今の時期こんなに暑いんじゃあ、夏になったらもーっと暑くなるんじゃないのぉー?」

「そうだよねー」

 なんて、尾坂を中心とした女子たちがけらけらという笑い声を立てていると、それまで輪から少し離れた場所に座り様子を眺めてい一人の女子が、含み笑いを浮かべながら立ち上がった。

 文乃を囲む女子たちはどれもこれも昨日と同じメンバーなのだろうけれど、この子だけは昨日と違う。違うクラスの子なのかな、とも思うけれど、その顔も髪の毛の長さもどこかで見たことがある。

 誰だったっけと考えて、他の女子よりも一回りほど膨らんだ胸元を見て思い出す。

 佐野麗香だ。

「あー、そうだぁー、わたしー、すっごくいいこと思いついたー」

 佐野は、倒れたままの文乃の前髪をぐい、と掴んで持ち上げると、耳元でそっと囁いた。

「あんたの髪さぁ、切ってあげるよ。この、しめ縄みたいなあっつい髪」

 驚愕と恐怖で見開かれる文乃の瞳。

「いいでしょ? ていうか、その方が絶対にいいってば。どのくらい切ろうか? 一センチ? 二センチ? 思い切ってショートにしちゃう?」

「髪の毛なんていらないんじゃない?」

「丸坊主にしちゃえば、シャンプーもリンスもいらないよぉー」

「あー、それせぇーかぁーい。でもぉー、今はぁー、バリカン持ってないんだよねー」

 先ほどまで文乃の頭を押さえていた尾坂が、机の上に置いてあったカッターを佐野に渡した。

 佐野は、空白さえ楽しむようにしてゆっくりカチカチと刃を出すと、それを文乃の頬に当てた。

「どうしよっかなぁー。ねぇ、フミノちゃん」

 全身を強張らせた文乃が、ひっ、という声にならない声を出す。

 佐野はぎらぎらと目を光らせると、文乃の頬の曲線に宛がうようにして滑らせた。

 まずいな、と僕は思う。このままでは佐野は、本格的に文乃のことを殺してしまうかもしれない。

 僕の頭の中に、リコリスの言葉が反復される。

『あんたは殺したでしょ? あんな小っちゃいカッターナイフでね』

 そうだ、殺す気がなくても、殺してしまうことだって実際あるのだ、僕のように。

 僕は大急ぎで飛び出すと、カッターナイフを持った佐野の腕を取り上げた。

「……な」

 またしまったな。また間違えた。

 佐野と、文乃と、取り巻きの周りの女子たちが驚いたように僕を見ている。

 僕は「あー」とか「うー」だとか意味の解らない言葉を出して、それからもごもごとこう言った。

「……よくない、と思う、多分……こういうの。危ない、し……もし、うっかり、本当に殺しちゃったら、さすがにちょっと、まずい、と思う」

 しどろもどろに放たれた、僕の言葉。

 一瞬の空白を経て、佐野と周りの女子はなぜか一斉に笑い声をあげた。

「やっだぁー、安西くんてば何いってんのー」

「そーそー。まさか、こんなんで殺せるわけないじゃないー」

「こーんな小っちゃいカッターだよー?」

 佐野は僕が掴んでいた腕を振り解くと、刃の出たカッターを掲示した。僕が『安西徹』を殺したものよりも二回りくらい小さい、工作用の黄色いカッター。

 殺せるよ? と僕が言うと、彼女達が笑い声を更に大きく跳ねあげた。

「『殺せるよ?』だってー。やっだー」

「安西君てば面白いー。不思議ちゃんー」

 笑い続ける女子の輪の中心で、僕はきょとんとした顔のまま立っている。意味がわからない。今のやりとりの、一体どこに笑いのツボがあるのだろう。

 佐野がひぃひぃと息を切らしながら

「ごめんねー、安西君。でもねー、もし安西君のいうとおり、これでも人を殺すことができたとしても、殺す気なんかないからヘーキだってー」

「そーそー。冗談だってば、冗談ー」

 冗談だったら余計やったらまずいんじゃないかなと僕は思うのだけれど、一体その辺はどうなんだろう。

 からからからとさも楽しそうに笑い続ける佐野や他の女子から少し離れた所では、尾坂を含めた四人の女子――昨日、僕が発砲をした子たちだったはずだが――が、いくらか強張った表情でこちらを見ている。ちらちらと見ながら何か話しているようなのだが、いかんせん小声なので、僕にはうまく聞き取ることができない。

 青い顔をした尾坂が、未だに笑い続ける佐野の背中を叩き、何か話しかけている。

「ねぇ、麗香。やめた方がいいよ。話したじゃん、こいつやばいよ。殺されるよ」

 尾坂の忠告に、他の女子三人もそれに続く。「そうだよ、やめよう」「そいつ、本当にやばいよ」「まじで殺されるよ」――

 ひどく緊張した面持ちで口走る四人。

 佐野は友人たちの忠告を「ハッ」と鼻で笑うと、

「何言ってんの? こんな、ちっちゃい男の子なのに。あんたら馬鹿じゃないの」

 そう言って、持っていたカッターの刃をしまうこともせず、そのまま床に投げ捨てた。

 尾坂含める四人の女子は、佐野の嘲笑にたった一言も言い返すこともできずに、カッターナイフが剥きだしのまま床に落ちて跳ね返る様を眺めていた。

 佐野はふんぞり返るようにして両腕を組むと、ひどく不機嫌そうな強気な瞳で、僕の顔を覗き込んできた。

「安西君てさぁ、昨日からやたらと文乃のこと気にしてるらしいじゃんー? 安西君、文乃のこと好きなんじゃないの?」

「転校してきて昨日の今日じゃんー。それってまさか、一目惚れってやつー?」

「運命の出会いってやつじゃない? やっだー?」

 そこでまた大笑い。

 彼女達はひとしきり笑って笑い続けて、それからはぁ、と呼吸を置いた。

「まぁいいやぁ。今回は安西君が助けてくれしぃー。これで勘弁してあげる」

「よかったねー、文乃ちゃん。かっこいいナイトが見つかってー」

「ひゅーひゅー」

 佐野は、未だ転がっている文乃の髪を掴んで持ち上げると

「じゃあねぇ、フミちゃんまた明日ねぇ」

 といって、そのまま離した。小さい文乃の頭が、軽い音を立ててそのまま床に落下する。

 楽しそうな明るい笑い声を立てながら美術室を去ろうとしている、彼女達。

 僕は床に転がっている刃が出たままのカッターナイフを拾い上げて、佐野の肩をぽん、と叩いた。

 屈託のない笑いを浮かべていた佐野が振り返る。僕は、その佐野の体を突き飛ばして丁度いい位置にあった壁に押し付けた。

「きゃっ……」

 佐野が驚いている。けれど僕は、手をやめない。

 僕はそのカッターナイフを佐野の顔から十数センチ離れた場所に突き刺すと、そこから一の字を引くようにして一気に佐野の顔に近づけた。何が起こったのかわかっていない佐野の表情が、驚きと恐怖で真っ青になる。

 ギシャアァァァアア……というような、刃と壁が擦れる音が響き渡って、あと一センチで佐野の顔を傷つけるという手前、僕は手を引くことをやめる。蒼白になった佐野。

 佐野は暫くの間壁に押し付けられた体制のままじっと固まっていたのだけれど、僕がカッターから手を離したことで脱力をし、ずるりと床に滑り落ちた。

「だから言ったじゃん。危ないって」

 座り込んだ佐野に視線を合わせるために屈み込んだのだが、なぜか反応を示さない。よくよく観察をしてみると、どうやら失神をしているらしく白目を剥いて口から泡を吹いている。細い両手と両足が死にかけのカエルのようにぴくぴくと痙攣を起こしていた。

 仕方がないなぁ。

 僕は立ち上がると、じっと様子を見ていたらしい他の女子を見渡した。

「あの」

 瞬間的に立ち上がる、悲鳴。全員が全員、今にも泣きだしそうな表情を作っている中、たまたま一番近くにいた尾坂を指差して、告げる。

「これ、持って帰って」

 尾坂はまるで壊れた人形のようにしてびくびくと首を動かすと、もう一人、誰かの手を引いて、僕の前を横切った。

 気絶をした佐野の体を起き上がらせて、自分よりも背丈のある彼女の体を引き摺って行く。途中、何度か振り返ったようなのだけれど「見ちゃ駄目」だとか「見たら殺される」だとか何やら口々に言い合っていた。見ただけならば殺さないのに。

 僕は壁に刺さったままのカッターナイフを引き抜いて、床に床に転がっている文乃に視線を向けた。バケツを被ってずぶ濡れの文乃は、美術室の隅にある机の下に隠れるように、恐怖に脅えてぶるぶると震えていた。ふいに、僕が見ていることに気が付いたのだろう。まるで、人間に見つかった猫のようにしてその場から逃げ出そうとしたのだけれど、生憎彼女にそんな運動神経はないらしい。何もないところで躓いて、顔面から転んだ。

 僕が近寄ると、逃げるようにして部屋の端に寄った。僕が脅えきった文乃の顔を覗き込むと、ひぃっ、というようなごくごく小さな音を立てた。

 それから、ひどくゆっくりとした動作で僕の右手を指差して、言った。

「……れ」

「?」

「……そ、れ……ほんも……の……?」

 そこで僕は、そういえばカッターの刃を出しっぱなしにしていたことを思い出した。本物だけれど、というかここで偽物が出てくるという発想がまずでてくるはずがないのだけれど、今こうして目の前にいる文乃の脅えっぷりから、取りあえず偽物と言っておいた方がいいのかもしれない。

「偽物」

「にせ……もの?」

「そう、偽物」

「おもちゃ……?」

「おもちゃ」

 おもちゃのカッターナイフなんてあるのかなとか思うのだけれど、まぁいい。

 カッターの刃を鞘に戻しポケットにそのまま仕舞い込むと、彼女はほんの少しだけ力を抜いて、蚊の鳴くような声を出した。

「きのうの……」

「うん」

「ピストルも、おもちゃ……?」

 昨日の。

 僕は少しだけ考えて、「そうだよ」と返答する。

「おもちゃ」

「おもちゃ……」

 そういったやり取りを幾度となく繰り返すと、漸くの事彼女はほっ、と息をついたようだ。

 安心をしたらしい彼女は立とうとするのだけれど、どうやら腰が抜けたらしい。いくら頑張って立とうとしても、足が足としての役目をしてくれない。昆虫が水の中で溺れているみたいにじたばた暴れているだけだ。 

 呆れた僕が両手を出すと、彼女は一瞬びくりと体を縮こめて、僕の両手を両手を差し出した僕の顔を交互に見た。

 それから、恐る恐る小さな両手で僕の手を取った。

 やたら小さな手だと思う。細くて小さくて柔らかくて、ぬいぐるみの手みたいだ。

 やたらと軽い文乃の体を起き上がらせて、僕は問う。

「怪我はない?」

 こくん。

「眼鏡は?」

 ふるふるふる。

 わからない。

 さて、眼鏡は一体どこにいったのだろうと顔を上げたら、頬を真っ赤に火照らしている文乃と目が合った。

 上から下まで見事なほどにびちょびちょに濡れた文乃は、何か言いたげに睫を上下させている。

 どうかしたのかと僕が問うと、文乃は恐る恐る上目使いに僕を見て、ほんの少しだけ手を出して、諦めるようにして手を引っ込めた。

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