第11話 『また明日』
LINE交換の仕方は野々村慎吾と植草宏英に教わった。
「QRコードでいい?」「きゅーあーるこーど?」「そうそう、お前のやつにもついてるだろ」「……?」「え、本気でわかんないの?」「貸してみろよ……すげーな、これ、新モデルじゃん」「まじで!? 金持ち!? お前んち金持ち!?」「そういうわけじゃないけど」「……よし、これでOK。送るからちょっと待ってろよ」「どれどれ……なにお前、アイコン設定してねーの?」
EWCの番号とリコリスの連絡先だけだったスマートフォンに新たに二つの名前が増えた。LINEのアイコンも変えられた。
出しゃばりな野々村が「穂積のLINE聞いてきてやろーか」と言っていたけど、僕が何かを言う前に「お前余計なことしすぎだろ」と植草に咎められていた。
授業をやって昼飯を食べて、また帰宅の時間になる。
「あとでLINEすっから!」と野々村と植草が寮に戻り、僕はまた一人になる。二人がいなくなった後はとても静かで、比喩的に言えば、水面に張った真冬の氷のようだ。
気が付いたらまた文乃のことを見失っていて、さて、どうしようと思うのだけれど、上履きから外履きに履きかえる前に僕の腹が空腹を訴えたので、取りあえず購買に行くことに決めた。
購買の場所は今日教わった。消しゴムを失くした植草に引っ張られたのだ。基本的に購買には消しゴムや体操着などの学用品しかないのだけれど、昼休みや放課後の限られた時間にはパンやおにぎり、ジュースなどの食べ物も販売するのだという。
購買はやせ気味の中年のおばさんが守っていた。
「パンください」
「はいはい、どれがいいかしら」
「どれでもいいんですけど」
「あらそうなの? お腹にたまるものがいいかしら。これはどう? カレーパンとか、コロッケパン。甘いものが良かったら、メロンパンもあるわよ」
「コロッケパンとカレーパンひとつずつ下さい」
「はいはい。お兄さん、見ない顔ねぇ。初めてかしら。転校生?」
「はい」
「あらそう。珍しいわねぇ。もう慣れたのかしら? て言っても、一日二日じゃなれないわねぇ」
「はい」
お金はリコリスに貰った。紙幣できっちり一万円。もし必要になったらあげるけど、無駄遣いをしたら許さないと釘を指された。パンを買うことは無駄遣いになるのかな、と思ったけれど、お腹が空いたら倒れてしまうかもしれないので仕方がない。
それをそのままぽんと渡すと、おばさんは何となく困ったような顔をした。
「あらやだ、あなた、細かいのないの?」
左右に僕が首を振ると、おばさんは血管の浮いた細くて白い首に手を置いて、
「困ったわねぇ、今ちょっと、こんな大きなおつりがないのよ。千円くらいだったら出せるんだけど。どうしようかしら」
眉間に三つのしわを寄せて、うーんと考え込むおばさん。困ったな、と単純に僕もそう思う。お腹は確かに空いているけど、我慢できないほどではない。今回は辞めておこうかな。ここで無理して買わなくとも帰る途中にはコンビニもあったし、家に帰れば昨日の残りのカレーもある。
「あの」
「え?」
「おつりがないんだったら、今日はやめ……」
「おばちゃーん。このソーセージパン頂戴」
言いかけた僕の言葉を遮ったのは、同じ服を着た背の高い色黒の男だった。男は小銭と引き換えにパンの袋を手に取ると、
「あれ、安西じゃん。何してんの?」
さも当然のように僕の名前を呼んだので、僕は首を斜めに傾ける。誰だっただろう、僕の名前を知っているということは、同じクラスだと思うのだけれど。
「ちょっと今おつりがなくて、大きいお金しか持ってないみたいなのよぉ」
「まじで? いくら欲しいの?」
「百八十円なんだけど」
僕が男の正体を考えているうちに、男は売店のおばさんとテンポよく会話をすると、黒い財布の中から小銭を数枚取り出して、パンと交換におばさんの掌に乗せた。
更に男は、パンの袋を僕の胸に押し付けると、
「これやるよ」
「え」
「おつりなくて買えなかったんだろ? いいよ、今日は特別に俺が出しといてやるよ」
男の背は僕よりもいくらか高い。正面に立って、少し見上げるくらいはある。植草宏英が百七十センチくらいだと言っていたので、それと同じくらいだろうか。制服の胸元には僕と同じ名札が付いている。
『彰陽学園中等部 黒田幸彦』
黒田幸彦。うちのクラスの学級委員長だ。
「ありがとう。明日返すから」
「いいよ別に、今日は特別奢ってやるって」
「でも」
「いーっていーって」
からからと軽快に笑みを浮かべる黒田に、僕は少し考える。
物を借りることは悪いことではないけれど、できることなら借りない方がいい。鉛筆でも消しゴムでもそうだけれど、お金だったらなおの事。けれど、この場合はどうなのだろう。ほんの百八十円程度だし、黒田が奢ってくれるというから、甘えてしまってもいいのだろうか。
などと一人で悩んでいると、黒田がふっ、と口を開いた。
「なぁ、安西の家ってどこ?」
「え?」
「俺んち、静岡。今、寮に住んでんの。安西は?」
「……電車だよ」
「へぇ。電車でどれくらい?」
「一時間かかるか、かかんないかくらい」
「何それ。遠いじゃん」
「そうかな」
「そうだよ」
ただのこれだけのやり取りなのに、一体何が面白いのか。黒田は、まるで洗剤かシーツのCMに使われるかのような爽やかな笑みを浮かべ、声を出した。
「あれだな。安西ってなんとなく近寄りにくい雰囲気あるんだけど。なんか別に、普通のやつだな。ていうか、ちょっと面白いな。お前」
ぷすぷすぷすと息を漏らす黒田はひどくご機嫌で楽しそうなのだけれど、対する僕は、少しばかり疑問だった。今日、同じようなことを野々村と植草にも言われたけれど、僕はそんなに面白いことを言っているだろうか。自分では普通にしているつもりなのに、人間関係というものはよくわからない。
そうこうしているうちに、どこからか黒田に声がかかる。
「おーい、幸彦。何してんだよ、早くしろよー」
どうやら、黒田の友人らしい。黒田は「わかってるよー」とひとつ怒鳴ると、
「じゃあな、安西。お金、ホントに返さなくていいから。また明日」
といって、早急に踵を返していった。
遠くなる黒田の背中に手を振って、改めてパンの袋を開ける。
そこに入っていたのは、カレーパン、コロッケパン、メロンパンの三つ。
三つ?
僕はすでに見えなくなった黒田の背中を視線で追いながら、首を傾げた。購買のおばさんはすでに僕のことなど眼中になく、違う人を相手に商売をしている。
少しだけ考えて、僕はわかる。
黒田の奴、どうやら一つおまけをしてくれたらしい。
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