第10話 『おはよう』
次の朝、六時丁度に起床する。
リコリスに目覚まし時計の使い方を教わったので、ちゃんと起きることができた。
言われたとおりに冷蔵庫の中にあるパンを食べて、牛乳を飲んで、七時五分発上りの電車の乗り込んだ。ネクタイがなかなかうまく結ぶことが出来なくて苦労した。結局リコリスみたいに綺麗な三角形を作ることが出来なくて、リコリス曰く「しわくちゃに丸めたティッシュ」になってしまった。
三駅目を過ぎる頃から徐々に同じ制服を着た人が増えてきて、大迫東駅へ着くころには、彰陽学園の生徒しかいなくなる。電車から出て学校へ行くまでの道のりを彰陽学園のエンブレムを着けた生徒が埋め尽くすのだ。たまにサラリーマンだとかОLだとかも存在をするのだけれど、胸に校章がついていない彼らは、体を縮めて肩身の狭い思いをするしかなかった。
「おはよー、安西ー!」
昇降口で靴を脱ぐと、意味もなく元気な声が聞こえてきた。顔を上げるとそこにいたのは野々村慎吾と植草宏英。
野々村は投げ捨てんばかりの勢いで靴を脱ぐと、適当に下駄箱に突っ込んだ。それと反対に取り出される上履きは、床に投げられて左右が別々の方向に飛んで行った。
対する植草はというと、ごく落ち着いた様子で靴を脱ぎ、それを揃えて下駄箱に入れ、二足の上履きを並べて置いた。植草の左右の耳には白いイヤホンが刺さっている。
「おはよう」
植草のニヒルな笑みに、僕は少し躊躇する。僕は今まで、あまり挨拶をすることがなかった。誰も何も言わなかったし、教えてもくれなかった。
けれど、リコリスは言っていた。挨拶をされたら、挨拶を返さねばいけない。
「おはよう」
挨拶を交わす僕と植草の向こう側では、右足にだけ上履きを履いた野々村が左の上履きを探し回っていて、片足ケンケンであっちへ行ったりこっちへ行ったりふらふらしている。
けれど、その野々村が探し回っている片方の上履きというのは実は植草が踏みつけていて、片方だけ靴下のままの野々村がその状態で玄関の外に出て行ったのを確認し、こう言った。
「シンゴー。お前、お前上履き捜してんのかー」
そうだよー! と玄関の外から聞こえてくる。わかっているくせになんでそんなことをいうのだろうと思っていると、植草はどうやら笑いを堪えているらしく、口の両端が引き攣ったようにぴくりぴくりと痙攣していた。
「ここにあるぞー」
植草がそういうと、野々村は「まじでー!」と叫びながら走り戻ってきた。
「すげぇ、ありがとうヒロ! どこ探しても見つからなくてさぁ! 一体どこにあったんだ?」
なんて礼を言いながら靴を履く植草の足の裏は、泥とか砂とかがべたべたついて、それがばらばらと落ちて床の上を汚していた。
植草は「どこにあったんだろうなぁ」なんて適当なことを言いながら笑いを堪えているわけなんだけれど、不思議そうな顔をしている僕に気が付いたのか、こっそり耳元で囁いた。
「あいつ馬鹿だろ」
うん、馬鹿だこいつ。
野々村の上履きは、至る所が黒ずんでいて落書きだってされている。ひどいものだ。踵だって潰れているし、左右の親指の部分に穴が空いて親指がぴょこんと顔を出していた。
「なぁなぁ、安西ってスマホとか持ってんの?」
何かを期待するようにして覗き込んでくる野々村に、僕はこくんと頷いた。
「持ってるよ」
「交換しよーぜ!」
「交換?」
「LINEだよLINE」
糸の解れたポケットから薄い板を取り出す野々村。一人で勝手に盛り上がるクラスメイトに、僕は少し戸惑ってしまう。交換? LINE? 交換してどうするんだ?
「どうするって、決まってるだろー! スマホで連絡を取ったりするの!」
「連絡?」
「そうそう! 面白いことがあったり遊んだりするとき色々――」
「おいシンゴ、交換もいいけど、ここでやったら邪魔じゃねぇ? 教室行かね?」
僕たちが下駄箱の前でうだうだとやっている間にどんどん人は増えていた。早くどけというようにして脱いだ靴を持ち待っている人もいるし、遠いところから恨みったらしく睨み付けているものもいる。
「あー……そうだな。わりーわりー」
「さ、早く教室いこーぜ」
気まずそうな二人に一本ずつ腕を引っ張られ、僕はその場を後にする。
「なぁ、安西って家から通ってんの? 寮?」
「通い」
「俺とヒロは寮なんだよ。去年からずっと同じ部屋なんだ。なっ!」
「電車? 徒歩? それとも自転車とか」
「電車」
「どれくらいかかんの?」
「一時間くらい」
「ふーん。なぁ、今度俺たちの部屋遊びにこいよ。招待するからさ」
賑やかなやつらだなぁ。
昇降口から教室までの道のりの中で、野々村は一度も黙らなかった。対する植草だって、時々野々村の話に口を挟みながら小突いたり馬鹿にしたりおちょくったりしていた。こいつらは一体、いつになったら黙るんだろう。こんなにも話が好きな奴ら、僕の周りにはいなかった。
いい加減耳が疲れてきた頃に教室につく。
放っておけば永遠にしゃべり続けていそうな勢いの野々村が「それでさー」と言いながら扉を開けると、そこには穂積文乃が立っていた。
自分の席で教科書やノートの準備をしていたのであろう彼女は、僕と目が合ってしまったことでばちっ、と動きを止めて、目を伏せた。真っ白い頬が、夕焼けみたいに赤くなる。瓶底眼鏡の奥に潜むパンダみたいなたれ目が何か言いたげに上下している。
どうしようかと考えて、とりあえず僕は、朝の挨拶をすることに決める。
「おはよう」
素っ気なく出された僕の言葉。
文乃はまたびりと体を震わせると、頭を下げて、それを上げて、ひどくゆっくりとした口調で唇を開いた。
「……お……」
「うん」
「……おはよう」
「うん」
それだけ言って、僕は文乃の前を去る。
野々村と植草はすでに自分の席についていて、僕と文乃のやりとりをひどく驚いたような顔で眺めていた。
「何々何? 安西ってば、穂積と仲いいの?」
さも以外ー、というようにして首を突っ込む野々村に、いいわけじゃないよと僕は言う。
「だって、挨拶してるじゃん!」
「ていうかさ、俺、穂積の声初めて聞いた」
「そーそー。去年からずっと同じクラスだったけど、あいつ本当に全然誰ともしゃべらないもんなー」
「授業中指されても俺の方まで声聞こえてこないしな」
へぇ、去年も同じクラスだったのか。
「しゃべるよ、あの子。殆ど蚊の声みたいだけど」
僕の言葉に、野々村と植草はほー、というかへー、というか、なんとも関心をしたかのような表情を浮かべた。
それから野々村はべたー、と僕の机にへばりつき、問いかける。
「なぁなぁ安西ってさぁ、もしかして、ああいうタイプが好みなわけ?」
くすくすと笑いを含んだ野々村の言葉に、僕は思わず眉を顰める。
「なんの話、それ」
「だからさー。穂積のこと」
野々村は僕の机の半分以上を乗っ取って、頬杖を突いた。
「ああいう、地味なタイプっていうの? 背が低くて口下手で、いかにもおとなしい―って感じのやつ」
ふふふん、となぜか得意げに鼻息を荒くする野々村。妙に顔が近い。距離を取るために少しだけ椅子を引いて、答える。
「そういうわけじゃないけど」
「じゃあどういうわけなんだよー」
変にテンションの上がった野々村は、ペンケースからシャープペンを一本取り出してこの、このっ、と言いながら僕の腕を突いてくる。
僕は更にもうひとスペース分くらい椅子を引いて、野々村の攻撃から逃げることに決める。
「やめろって」
「まー、別にー。恋愛は自由ですしー? 安西が誰と付き合おうと、岡本が誰を好きになろうと俺には関係ないわけだしー? お寿司ー? 手巻き寿司ー?」
などと言いながら野々村の大きな瞳は、言っていることと対照的に、期待と好奇心で爛々と輝いている。僕を突いていたシャープペンを離して、べたー、と車に轢かれたカエルのように伸びていた体を起こし、伸ばす。軽く体を捻って向けた視線の先にいるのは穂積文乃。ふいに文乃がこちらを向いて、僕に気が付き、目を逸らす。顔が赤い。顔だけじゃなくて、小さい耳も細い首まで真っ赤になっている。
「赤面症なんだってよ」
植草の出した聞きなれない病名に、僕はひょいと首を傾げる。
「せきめんしょう?」
「人前にでたりするとすぐに緊張して真っ赤になっちゃう人のこと。ほら、ああいう風に」
と、自分の机にすっぽり収まっている文乃の背中を指差した。なるほど、わかりやすい回答だ。
「去年も同じクラスだったの?」
「そうそう。でも、やっぱ全然しゃべらなかったよ」
「友達いないの?」
「俺はいるけど」
「そうじゃなくて。穂積さん」
「話してるの見たことねーな」
「いじめられてるの? あの子」
「あー……まぁ、あんな感じだしなぁ。評判よくはないだろうなぁ。悪くはないだろうけどなぁ」
そこでちらり、とまた目を向ける。
そこでは、筆箱から何かを取り出そうとした文乃が消しゴムをぽろりと落とし、拾い上げようとしたところ、丁度いいタイミングで教室にやってきたクラスの女子にこつんと蹴られて遠いところに飛ばされていた。
「まぁでもさ。まんざらでもねーんじゃねーの? 穂積サンのほうはさ」
にやにやといやらしい笑みを浮かべながら、わざとらしい敬称を付ける野々村。僕は少し考えて、「それはないんじゃないかな」と返す。すると、植草が僕の頭に肘を乗せ、そのまま体重をかけてきた。思わぬ衝撃に、僕の体はぐしゃりと潰れる。
「安西お前ー、実は結構タラシだなー。女っタラシー」
罪深い奴めー、とか言いながら滅茶苦茶体重をかけてくるので、重くて重くて堪らない。更に調子に乗った野々村が「俺も俺もー」と言いながら乗ってきた。おかげて、僕が赤面症のようになってしまった。
ちらりと前に視線を向けると、また文乃がこちらを向いていた。
一体なんなんだ?
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