第9話 『どんな生活してたの?』
電車に乗って一時間ほどかけて用意されたアパートに戻る。
とっくの昔に日は落ちて、すでに十九時を過ぎていた。
どこにしまったのかわからなくなった鍵を見つけて鍵穴に突っ込んで右に回す。が、どういうわけか閉まってしまい、反転させて解錠する。そこにいたのはジーンズにトレーナー、エプロン姿のリコリスだった。
「何をしてるの?」
と僕が言うと、台所の引き出しから包丁を取り出して
「何って、ご飯作りに来てあげたんでしょーが」
「えぇ」
「あんた、この間ボヤ騒ぎ起こしたばっかりだから、ちゃんと見てろって言われてるの」
買い物に行ってきたらしい、テーブルの上には人参やジャガイモの入ったスーパーの袋が置いてある。
僕はそれらを眺めながら、恨みったらしくこう言った。
「起こしてないよ。火災警報器を鳴らしただけだよ」
『優秀な人材』であるリコリスはどうやら料理もできるらしく、それから一時間も経たないうちにテーブルの上にカレーが並ぶ。
「あんたカレー食べれるでしょ? 作っちゃったけど」
なんてエプロンを外すリコリスに、僕は頷く。僕には好き嫌いというものが存在しない。
テーブルの前に座った僕がスプーンを手に取って食べようとすると、正面にいるリコリスが両手を合わせて「いただきます」と言っている。
いただきます?
「あんた、いただきますも知らないの?」
知らない。
「いただきますっていうのはね、ご飯を食べる前にこうやって手と手を合わせて、感謝をするのよ」
「カンシャ?」
「そう、感謝。作ってくれた人と食材に、ありがとうって感謝をするの」
そういえば今日学校で給食の時、野々村と植草が同じようなことをしていた気がする。あの時は二人が騒ぎ過ぎて、あまり気に留めなかったのだけれど。
しない人も沢山いるから、別にしなくたっていいとリコリスは言ったのだけれど、折角正面にいるリコリスがやっているので、僕も真似をすることにする。手と手を合わせて「いただきます」
「カレー、辛い?」
「平気」
「おかわりあるから、足りなかったら食べなさい」
「うん」
かちゃかちゃとスプーンが動く音が響き渡る。暫く無言で食べ続けて、切り出したのはリコリスだった。
「あんたさぁ。一体今まで、どんな生活してきたの?」
「どんなって」
「両親とか、住んでた家とか、そういうの」
リコリスは、スプーンでくるくる空中に円を描くと
「EWCはね。会社の特色上『ちょっと変わった経歴』の人が多いんだけど、あんたみたいな子って珍しいから。どうなのかなー、って思って」
ふぅん。僕はスプーンでカレーのルーとご飯をぐちゃぐちゃに混ぜて、それを掬い、口の中に放り込む。
何から言えばいいのだろうと考えて、咀嚼をし、飲み込んだ。
「……大橋と長塚は、お父さんとお母さんじゃないよ」
「それは聞いた。で、あんたのお父さんとお母さんは?」
「知らない。聞いたことない」
「生きてるとか死んでるとか、それくらいわかるでしょ」
「知らない」
僕の返答に、リコリスは目を閉じて米神を抑えた。
「いいわ、続けて」
「続けてっていわれても……」
「あんた、長塚や大橋と一緒にいたんでしょ? どうしていたの? どういう繋がり」
どういう繋がり?
すでにスプーンを置いて両肘をつき、しげしげと僕の顔を覗き込んでいるリコリスを差し置いて、僕はカレーを食べ続ける。
「わかんない。知らない」
「知らないって」
馬鹿にしたように鼻で笑うリコリスは美人だ。
「知らないわからないって、あんたほんとそればっかりね」
だってわからないんだから仕方がない。
いつの間にか、お皿の中は最後の一口になってしまった。
その最後の一口を口に入れ、咀嚼して、飲み込む。もう少し食べたい。「おかわりをしたいんだけど」と僕が言うと、ガス代の近くにいたリコリスが大盛りで装ってくれた。こんなに食べきれるだろうか。
「どんな生活してたの?」
どんな生活っていわれても。
「僕がいたところって知ってる?」
「それは知ってる。ニュースで見た。ちょっと古い作りの一軒家でしょ。地震が来たらすぐに潰れちゃいそうな」
「そう。ええと、その家に地下室があって」
「地下室?」
リコリスが目を真ん丸にする。
「あの家に地下室があるの?」
「うん」
「初耳よそんなもの」
「その、地下室があるんだ。ちょっと隠れたところに階段があって、だから、あの家のひとじゃないとわからないかも。それで、そこを、『下』って言ってた」
「下? 地下室だから?」
「うん。だから『上』は『上』なの。それで僕は『下』に住んでた。『上』には時々しか行けないんだ」
「その部屋ってどんな感じなの?」
どんな感じ?
「広さとか、窓とか、トイレとか」
「そんなに狭くないよ。ものすごい広いわけじゃないけど、すごく狭いわけじゃない。冬はすごく寒くて……トイレはあるよ。汚くて冷たいやつだけど。テレビはない。本当にたまに上で見せてもらえるんだ。長塚と大橋が、ものすごく機嫌がいいときに」
「食事とかどうしてたの」
「持ってきてくれるんだ。一日一回だったり二回だったり、時々忘れられたりする」
「持ってきてくれる? 長塚や大橋が?」
「長塚だったり大塚だったり、色々」
「色々って、他の人も住んでたの?」
「よく知らない。でも、二人は多分いつもいた。時々、お客さんがきて、その中に僕に会いたいっていう人もいたよ」
「会いたい? あんたに? なんで?」
「知らない」
「知らない知らないってそればっか」
だって知らないものは知らないんだ。
「僕は、『逃がしちゃいけない』んだって」
「逃がしちゃいけない? あんたを?」
「うん」
もそもそとカレーを頬張る、僕。
「僕は『大事』だから『逃がしちゃいけない』『外に出しちゃいけない』んだって。だから面倒だけど『生かしておく』んだって、そう言ってた」
もぞもぞとカレーを食べ続ける僕の正面には、ずっと真剣な顔をする綺麗なリコリスの顔がある。僕から見ても誰から見てもリコリスは美人だ。あまり、女の人のことなんてまじまじと見たことはないのだけれど。
「あんたさぁ……」
その綺麗なリコリスの顔が、なんとも呆れたかのように歪む。
「何?」
もぐもぐと咀嚼をしながら言った僕の問いかけに、リコリスははぁ、と息をついた。
「まぁいいわ。でもあんた、本当に誰にも『何も』教わってないのよね?」
それまでテーブルの上に置いてあったスプーンを手に取り、確認するようにして僕に向ける、彼女。教わってない? 何を?
「殺しのやり方だとか、拳銃の使い方」
まさか。大体、殺しなんて人の教えるものではないし、拳銃なんて見たことですら初めてだ。
「まぁそうよね。教わってたら、もっとまともに扱えるはずだもんね。あんな馬鹿みたいな使い方するはずがないもの」
ひどい言い草だなとは思うのだけれど、事実だから仕方がない。
リコリスは手に持ったスプーンをカレーの海に沈ませて、再びそれを食べ始めた。
「今日はどうだった?」
なにが。
「学校」
うん。
「楽しかった?」
よくわからない。つまらなかったわけではないけど、あれは楽しかったのかな。
「友達は出来た?」
どうなんだろう。うるさい奴は二人いたけど、あれは友達だったのかな。
「あんた」
なに。
「不器用なやつ」
なにそれ。
山盛りに装われたカレーが半分くらいに減った時、僕はとあることを思い出す。
「そういえばさ」
「うん?」
「穂積文乃に会ったよ。眼鏡をかけて、冴えなさそうな女の子だった」
「話した?」
「いじめられてたから助けてあげた」
するとリコリスは一瞬ぽかんとしたような顔を作り、それからけらけらと笑い出した。
「やだー、何それー。あんた、殺す相手をなんで助けてあげてるのよー。そのまま放っておけばよかったのにー」
隣の部屋まで響くくらいの笑い声を立てるリコリスに、本当だよなと僕は思う。あそこでさくっと刺しちゃえばよかったのにとか思うのだけれど、過ぎたことは仕方がない。
「ま、面白いからいいけどね。まだまだ時間はたくさんあるし。あんまり、馴染みすぎない程度に頑張りなさい」
ぐちゃぐちゃとカレーをかき回しながらくすくすと笑い続けるリコリス。先ほどまであんなに神妙な顔をしていたくせに、なんですぐに変わるのだろう。
カレーを食べて少し休んで、二十二時を回るくらいにリコリスはアパートを出る。
「いい? 火は絶対に使っちゃ駄目。戸締りはちゃんとして、ガスの元栓にも気を付けるのよ」
「うん」
「それと明日の朝は送って行って上げれないから、ちゃんと自分で起きて自分で行くのよ」
「うん」
「カレーは今日作った分が残ってるから、お腹が空いたらレンジで温めてね」
「わかってるって」
玄関で去り際に、リコリスはくすりと笑ってくしゃりと僕の頭を撫でた。
「寂しい?」
「まさか」
ぐりぐりと猫を可愛がるかのようにして僕の頭を撫で上げて、リコリスが去って行った。
「じゃあね、『安西徹』くん。明日もしっかり頑張りなさい」
僕は玄関の外に出て、リコリスのことを見送る。
アパートの隣にある駐車場から、月の光に照らされた赤紫のポルシェがぶるん、ぶるるんと夜の街へ繰り出していった。
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